日下野城山城(長野市中条日下野)
今は長野市に吸収されてしまった旧中条村の山中にある城である。
なお、「日下野」と書いて「くさがの」と読む。まず、読めない。
旧中条村は長野市の西端、大町白馬に通じる土尻川沿い県道31号線(大町街道)が村のメイン通りであるが、それはごく地域のごく一部。
中条地区のほとんどは山間。土尻川沿いの谷の北、虫倉山山系の山間地の南中腹を県道401号線が長野市七二会地区から小川村方面に走る。
この道、県道とはいえ、農道並みに狭い部分もあり、カーブの連続、しかも多くの道がカーブで分岐し、その支道の方が広い場合もあるため、カーナビがあっても時々、曲がる場所を間違える。
この日下野城山城は県道401号線から県道452号線が分岐する交差点の西側の山にある。
街道の分岐点であるので、今は田舎道の分岐に過ぎないが当時は交通の要衝だったのかもしれない。
それなら城があっても不思議ではない。
名前はテキトーである。地元の人が「城山」と呼んでいることと大字を組み合わせただけである。
この城を見つけたのは偶然である。
小川村方面から七二会地区に向けて車を東進させた時、下の方に城があってもよさそうな盛り上がった独立状の岡を見つけた。
↑北から見た城址。丘の上の民家が城北側部分。右上が川中島である。
その岡の近くに車を止め、近くにいた人に「あそこに城はないのか?」と尋ねたら、あっさり「あるよ。」との返事。
「俺がガキのころ遊んだ山で「城山」って言うんだ。城って伝わっているよ。」とのこと。
「俺も50年間、行ってない。」とのこと。その方、もうこの地を離れており、家の管理のため来ているとのこと。
日本のどこの山村も同じだが、ここも過疎化が進んでおり、多くの人家が無人状態なのである。
その方も「50年ぶりに自分も行ってみたい。」とのことで同行。
城は南北、2つの部分からなり、北側の岡は人家であり、改変を受けてしまっている。
ここは城主の居館跡か?
堀切を利用した道路の南側が主郭部であるが、当時のまま。
手付かずの状態である。
しかし、規模は小さいものであり、長さ30m、幅数mの主郭@の北側斜面に段差2、3mを置いて幅5〜7mの小さな帯曲輪Aを2つ配置し、背後の東側に埋もれかけた堀切Bで遮断した程度のものに過ぎない。
@主郭内部。地震で石の社が倒壊、復旧したが重すぎて・・。 | A主郭北下に腰曲輪が2段ある。 | B主郭東側は堀で遮断するが埋没が激しい。 |
主郭には三角点があり標高は768.4m、昔は社があったが既に朽ちていた。
過疎化で管理することができないのだろう。
石の社は2017年5月に起きた白馬の神城が震源になって起きた地震で倒壊し、頭の部分は南斜面に転がり落ちてしまっていた。
復旧が必要なのだが、それも過疎化でできなくなっているとのことである。
だいたいにおいて過疎の山間にある小さな社はみなこんな状態なのである。
寂しい現実である。
城としては物見台程度のものに過ぎない。
北側以外は急斜面であり、東、南、西方面に眺望が効く。狼煙を上げても遠くからもよく見えるだろう。
伝承によると春日氏の城であり、仁科氏(小川を領していた小川氏か?)との間に合戦があり、ここが戦場になったということである。
こんな生産性の低い山間の地を巡った戦いがあったのである。
この時期は戦国時代の中頃、武田の侵略が始まる前頃のことであろう。
当時の信濃は中小の土豪が山間に林立し、その後、武田に一網打尽にされてしまうのである。
北側の字名が「乗出合」(じあわせ)というが、これは軍勢同士が戦ったという意味だそうである。
多くの戦死者が出て、埋葬されていると伝承され、怪しい墓もあり、案内してくれた方は子供の頃、悪いことをすると「化けて出るぞ」と脅されたという。
また、付近には「城の腰」「古屋敷」という地名も残る。
なお、岡北側の部分にある民家はかつて丘の西下にあったが、弘化2年の善光寺地震で虫倉山が崩壊し、その土石流で西側の谷が埋まり、移転したものと言う。
(この城については、宮坂武男「信濃の山城と館」に「古屋敷城山城」として記載されていた。さすがである。)
松原城(長野市中条日下野(くさがの)城)
若神子城とも言う。松本と長野の間の筑摩山地を横断するように流れる犀川に沿って国道19号線が通る。
そこから分離し、県道31号を土尻川に沿って白馬方面に進むと、今は長野市に吸収合併された旧中条村に至る。
その手前に中条トンネルがある。
にはこのトンネルができる前の南に迂回する旧道からトンネル上に登って行く道から行く。
若神子(わかみこ)方面に向かう道である。この地の字名が「城下」である。
道を進んで行くと「城の平」に登る道が分岐し、その道を上がる。
この道、車にとっては狭く先が心配になるが、登り切ると平地が広がる。
そこが「城の平」地区Aである。ちなみに字はズバリ「城」である。
ここには数軒の民家があるが、ほとんど廃屋になっており、1,2軒しか住んでいないようである。
この地が居館跡という。 なお、この地、居館跡でもあるが、江戸後期の一揆に関わる史跡でもあり、解説板がある。 ここの北側の一段高い場所に貯水タンクがあり、その東の山が城址である。 道脇に城址への矢印を書いた案内板があり、そこを入ると、あっと驚く巨大な堀切@がある。 この堀切は竪堀となって東西の斜面を下る。 南側が櫓台のように切り立っており、堀底から12mほどの高さがある。 この城の見どころはこの部分のみ。完全な1点豪華主義である。 この南側が本郭と推定される。 最高箇所Bは20m四方ほど。この場所の標高は570m。土尻川からの比高は160mである。 西と南に尾根状に曲輪が延びるが、南側は自然の山の傾斜である。 最南端Cは高さ15mほどの急斜面となり、下に曲輪がある。 さらにその下にも廃屋がある曲輪が展開し、「城の平」地区の平坦地となる。 一方、大堀切の北は50m×30mほどの曲輪、二郭であるが、東側に削り残しの土塁Dがあり、大堀切側は一段と高くなっている。 城の西側を道路が通り、北側の鞍部を通っている。 この鞍部Eには2重、あるいは3重の堀切が存在していたようである。 延徳年間(1489〜91)春日大膳大夫が築き、春日 修理大夫までが居住していたともいうので、笹平城のペアの城のようである。 土尻川沿いの白馬方面と川中島間の交通を監視する城であろう。 |
城の平地区から見上げた城址 | @ 本郭、二郭間の大堀切 |
A城から見た城の平 | B本郭最高場所の曲輪 | C本郭南端の曲輪 |
D二郭東の大土塁 | E城址北の堀切跡 |
参考:天明山中騒動集合の地「城の平」(現地解説板の記述)
天明3年(1783)7月6日の夜、突如浅間山が爆発し、群馬県側は大被害となった。それ以降は、曇りの日が多く夏だというのに寒い日が続いて農作物は育たず秋の収穫は皆無にひとしく、翌4年も不作となった。
村人は野山の草、「わらびの根」「クゾの根」を掘って食べて飢えをしのいだ。
あまりのひどさに村を離れる人もあった。
松代藩では西山山中の村役を奉行所に呼び出し、今年の年貢は勿論だが、延期した昨年分、さらに今までの借金のすべてを納めるよう厳しく申し付けた。
松代の宿で念仏寺村、伊折村、久木村の村役たち3人は、奉行所から申し渡された事の対応について相談した。
「このような時に、藩は酒造りを奨励していた。」
金子を多く持っているのは造り酒屋である、
この酒屋へ皆で無心して百姓が立ち直るまで借りておく事がよいとなり、それには西山山中こぞって、お上にお願いするしかないとなった。
集まる場所はいろいろ論議したが、念仏寺村のこの地「城の平」となった。
集合の日は、11月12日の八幡様の大頭祭とし、この手はずを村々に伝え、集まった人数は5、6百人にもなった。
今から220年前のことである。
須立城(長野市篠ノ井山布施)
犀川をせき止める笹平ダムの南の山にある。犀川にかかる国道19号線小笹橋と明治橋間にある村山交差点を県道86号に入り篠ノ井方面に南下すると山布施地区となる。
ここに布制神社があり、その脇に「須立の城」の案内標識がある。
この標識の右にある小道を北西に600m行った場所が城址である。 「山布施城」「簾立城」ともいう。 この道、軽自動車なら行けないことはないが、道幅が狭いので、歩いた方が無難だろう。 神社脇から道を進むと、集落が終わり、畑となるが、かなり荒れている。この山間の集落、過疎が進んでいているようである。 だいたい、山の最高箇所に城があると思うが、そこは墓地、肝心の城はない。 その城は最高箇所から北西に延びる尾根が下って行った先端部にあった。 ちょうど、道が堀切@を通っているのである。 その西の高さ8mの盛り上がりの上が本郭である。 そこは15m四方ほどの平坦地A。北西に3段くらいの曲輪があるが、笹が凄い。 全長は40mくらいだろうか。北と南には帯曲輪がある。 一方、北東側Bは道が付けられているため、曲輪があったようだがかなり破壊を受けているが、尾根筋を掘り切っていたようであり、竪堀が残る。 2つ程度の曲輪が尾根筋に存在したようである。 この場所であるが、笹平ダムの南500mに位置し、標高は600m、犀川からの比高は220m。 眼下には犀川と対岸には笹平城が見えるはずであるが、杉の林になっており眺望はきかない。 室町中期、文明年間(1400ころ)布施忠頼が築城したという。 布施氏は望月氏の出身といわれ、応仁年間、この山布施に居住したというが、どのような経緯でこの地に来たのかはわからない。 忠頼の後継を巡り、長男正直と忠頼の弟直長との間で対立があり、長男正直は上尾に移り、直長がこの地に残り、その後、布施氏は忠頼から6代続くが、この地は平林氏の支配となり、上尾城の支城となったようである。 武田氏が侵攻すると平林氏は武田氏に従うが、武田氏滅亡後は上杉氏の家臣となり、上杉氏の会津移封に同行し、白河小峯城主となった。 この時、須立城は廃城となったようである。 |
@本郭東側から見た本郭。右が堀切 | A本郭内部には解説板が建つ | B南東の尾根に続く曲輪群 |
この城は場所からして犀川筋の交通を監視する城であるが、対岸の笹平城との関係は分からない。
街道筋を両側から抑える場合があるが。笹平城は春日氏の城であり、対の城とも思える。
城の規模からして居住用の城ではない。
居館の地は布制神社付近にあったのではないかと思われる。
なお、布制神社、『神護景2年(768)高橋朝臣国是之が、更級郡の大領に任じられ下総国結城布制郷の人民を従えて当地に移住し、土地を開拓した。 後、宝亀8年(777)布施氏の祖・大彦命を勧請したという。 また『信州宝鑑』には、光仁天皇の御宇(708−782)、宝祚長久国家安全を祈願して、伊勢神宮の分霊を勧請とある。 安和二年(969)佐久の望月氏が移り住み氏を布施を改めて布施郷を領治し以後、当社は神明宮と称するようになったが、文化七年(1810)布制神社と改称。 明治六年四月郷社に列した。』と解説板にあった。 |
笹平城(長野市七二会)
長野市街地の西、犀川渓谷を通る国道19号線を松本方面に向かうと、「笹平トンネル」がある。このトンネルの上にあるのが笹平城である。
このトンネルが開通する前は国道19号線は犀川に沿って走っていた。
その道は現在は中条から旧道であるが、途中から白馬方面に通じる県道30号線が分岐する。
この旧道沿いに正源寺や七二会郵便局があるが、この北の標高430mの台地が城址であると、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の分布図に記されている。
しかし、その台地上、ただの畑Cであり特段遺構らしいものはない。 ここは犀川からの比高は40mほどである。 しかし、その西の山、この山、北から南の犀川方面に突き出た尾根になっている。 その途中に春日神社Cがある。 ここも曲輪のような感じである。ここから山に登る道がある。 西からその山を見ると山頂が怪しい。 下の写真は西側から見た山である。 曲輪のような平坦地や堀切らしい所がある。 どことなく城っぽいのである。 それでその山に突入。 なお、この山「笹平の城山」と言うのだそうだ。 |
その山、先端部が3段ほどになっており、「東谷白山神社」「歓喜天神社」が祀られている平坦地Aがある。
東西20m、南北60m程度の平地であり、南に1m下がって突出し10mほどの曲輪があり、東屋がある。
さらに7m下に三峯神社の小さな社がある小さな曲輪@がある。
「東谷白山神社」「歓喜天神社」が祀られている平坦地の北を見ると、やはりあった。
そこには土橋と山を下る竪堀が、さらにその先の土塁のようなものが延びるが、この部分は地名どおり「笹」が密集しているため、撮影ができない。
その先、TVアンテナのある曲輪、さらに一段上に平坦地があり、その北に堀切がある。
このような尾根城であるが、先端部からは犀川の流れと中条方面の街道筋がバッチリ見える。
標高は520m、下の居館があったと思われる平坦地の標高が430mなので比高は90mほどになる。
犀川の街道筋を監視する城であるが、誰が築いたのかはよく分からないらしい。
@尾根先端部直下にある曲輪 | A東谷白山神社がある曲輪、ここは物見か? | 西下を見ると国道19号線と犀川の流れ |
B山の中腹にある春日神社 | C城址と言われる東下の台地。遺構はない。 |
『長野縣町村誌 北信篇』の「七二會村」の「古跡」の項では、城主に「戸屋城主春日某」を推定し、
「延徳元年(1489)に春日大膳大夫が故あって越後の春日山からこの地に来て、当初は「戸屋城」に居城していたが、何代か後、笹平(注:当時は「篠平」と称したとのこと)に「篠平城」を築き居城したという。
後に坂城の村上氏の幕下となったが、天文22年(1553年)に村上義清に従って甲斐の武田信玄と上田原で戦い、村上氏が越後に追われた後、武田氏に降る。
武田氏滅亡後、織田氏重臣の森長可、次いで上杉景勝に降って、なお「篠平城」に居したというが、慶長3年(1598年)に上杉景勝が奥州会津に転封となるに至り廃城となったという。」
また、麓、城址の地より一段高い場所に春日神社がある(この地も曲輪であろう。)。
その解説に「春日氏代々の祈願社であり、天正2年(1574)8月、春日常陸守直徳が篠平城の鎮守として再建した。」との記載があり、城主が春日氏という可能性は高いと思われる。
有旅城(長野市篠ノ井有旅)
有旅城(うたびじょう)、こんな名前の城、ほとんどの人は聞いたことはないでしょう。
別名は「茶臼山陣城」。
あの永禄4年(1561)の第4回川中島合戦で、上杉軍の妻女山布陣を知った武田軍が始めに陣を敷いた場所と言えばお分かりかと思う。
下の写真は東の麓から見た茶臼山である。
定説では、合戦の前哨戦で、この茶臼山と海津城の武田軍と妻女山と善光寺の上杉軍がにらみ合い、その後、武田軍はこの山を引き払って、海津城に入ったということになっている。 この余りにも有名な話、どこまで真実か分からない。 管理人はいくつかの時期が異なる事実を組み合わせた創作ではないかと思っている。 しかし、話としては、非常に面白いのは事実。 確かに、戦略的観点では、この茶臼山と海津城に軍を入れれば、妻女山の上杉軍は動けない。 でも、その逆も真、妻女山と善光寺に上杉軍がいれば、茶臼山の武田軍も動けない。 |
真実はともかく、武田軍がこの山を引き払って、海津城に入ったことは、妻女山の上杉軍に撤退を促した動きとも思える。
しかし、そうはならなかったのであの合戦が・・ということになっている。
良くできたシナリオである。
左の写真は茶臼山動物園から見た川中島である。 正面の山は菅平、志賀高原。写真のちょうど中央部の尾根が金井山城。 その下が八幡原である。 管理人、この永禄4年の第4回川中島合戦、実際はこんなストーリーではなかったと思いうが、5回にわたって行われたこの合戦、または武田氏滅亡後の川中島を巡る上杉VS北条の争奪戦、いずれかの合戦でこの山には軍勢が布陣したことは間違いないであろう。 その事実、伝承があって始めて、永禄4年の第4回川中島合戦の定説になったストーリーが成り立つ。 その茶臼山、これまた定説では地滑りで遺構は失われていることになっている。 確かに、その地滑りの跡は凄いものである。 |
なお、その地滑りで土砂が流れた場所末端にあるのが、市民の憩いの場所、茶臼山動植物園。
管理人も茶臼山の城はすでに存在しないものと思っていた。
茶臼山と言えば、化石の宝庫。特に地滑りのあった場所から木の葉の化石が採れることで有名。
ということで、高校生時代にここで化石採集をした思い出がある。
なお、茶臼山動植物園には子供が小さい時、来たことがあった。
ところで、茶臼山、地図を確認したが、山頂部は地滑りは起きていない。
麓から山を見ても崩壊した感じはない。地滑りは山頂から南西に延びる尾根が崩れているのだ。
ってことは、山頂部には遺構があるかも?
でも、城については誰も紹介はしていない。
遺構があるような話も聞いたことがない。
もともとここには地元の土豪、石川氏の城があったということになっている。それを合戦で陣城として利用したようである。
この茶臼山、周囲の山も同じくらいの高さであり、目立たないが、標高は730mある。
麓の標高が350mであるので比高は380m、かなりのものである。
しかし、山地自体がそれほど急ではないので、標高650m付近の信田小学校付近まで車で行ける。
そこから北東に入る道を入れば、駐車場があり、そこから茶臼山トレッキングコースが延びる。
このコースを歩けばいいのである。このコースを行けば、すぐに旗塚がある。
ここの標高は699m、小古墳が3つ並んだ感じである。この付近、何となく虎口、堀切のような部分もあるが、確信は持てない。
そこから北東の茶臼山山頂まで尾根が存在していたようであるが、そこが凄い崖、高さは30mほど。
これが地滑りの跡である。一度、標高650mの地滑りの底まで降りてから比高80m、茶臼山に登る。
その茶臼山、結構、斜面は急である。
山頂近くになっても、特段、曲輪、堀らしいものもない。
1箇所、横堀状の場所があったが、旧道の跡なのか、判断できない。
トレッキングコースは山頂を通過しないでそのまま北に続き、山頂へは分岐した道を行く。 この付近は非常になだらかで広い尾根である。 その途中、それはあった。横堀である。 山頂から60mほど北側を東西に長さ200mほどにわたって存在していた。 左の写真がその唯一の遺構である横堀である。 かなり埋もれているが、幅は7m、深さは4mほどある。 これは間違いなく城郭遺構である。 作りからして臨時築城のもののようにも思える。で も、それより北には遺構はなかった。 一方の山頂部、直径20mほどの平場である。 北側は切岸状になり、曲輪のような平坦な場所がある。 しかし、それ以外はただの山である。南側には遺構らしいものはない。 結局、これだけのものである。 |
この山を陣城として使ったとすれば、南西に延びる尾根に旗塚があったことからも、山頂部は北を警戒する部隊を置き、より南西側の地滑りのあった付近に本陣があったようである。
かつての茶臼山は標高730mの北峰と720mの南峰の2つがあり、現在、茶臼山という山は北峰である。北峰は遺構からしてもやはり警戒部隊を置いた出城であろう。
南峰が主体部であったようであるが、ここが崩落しているのである。
ちょうど下の写真の地すべり跡付近にあったらしい。
現在、この付近の谷底の標高が670m程度であるので、比高50m分がなくなっている訳である。
結局、横堀1本しか確認できなかったが、これで十分。
茶臼山は間違いなく、城であった。
旗塚であるが、ただの土壇。付近に遺構はない。 | 地すべりの跡。左の崖上に旗塚がある。 右手が茶臼山山頂となる。 |
茶臼山山頂は径20mほどの平坦地。 ただの山である。 |
小松原城(長野市篠ノ井小松原)
犀川が山間を抜け長野盆地に出る場所の南側の山、国道19号線小松原トンネルの上の山にこの小松原城がある。
この城については、ほとんど紹介されていない。
また、城の由来について明確に書かれた資料はない。
『小松原村誌』によれば、「村の西南の方向に城山がある。東西は20間(30数m)、南北20間の広さがある。頂上は平らになっているが、四方は険しく、堀切がある。誰の城跡かはわからない」と記述され、
『長野市誌』には「伝承によれば、木曾義仲の家来、泉小太郎なるものの城」という記載がある。
山の名も「城山」というので昔から城があったことは認識されていたようである。
ここには東斜面中腹にある天照寺から登る。山道を登っていくと山上の平坦地に出る。ここの標高は510m。 |
川中島付近の山城のほとんどは尾根を利用した尾根式城郭であるが、この城は丸っぽいずんぐりした山にあるため、横堀を周状に回すタイプの構造の城である。 付近でこのような構造の城を捜すと、ちょうど犀川対岸にある吉窪城が非常に良くにた感じなのである。 吉窪城は小田切氏の城である。その小田切氏の居館、内後館がこの小松原城の南南東1kmにあるのである。 こう考えればこの城が小田切氏の城であるのは容易に推察できる。 横堀の存在からも戦国期の城であり、伝承の木曾義仲の家来、泉小太郎なるものの城ではない。 この横堀であるが、北半分を二重に覆う。幅は5〜8m程度であるが、かなり埋没している。 直径は外部の堀の土塁位置で60mほどである。中央部分は直径20mくらいのスペースであるが、真ん中に大きな岩があり、穴が開いている。 これは古墳じゃないだろうか。 |
東から見た城址。左側のピークが城址である。 | 北側外側の横堀。かなり埋没している。 | 北側内側の横堀。外側の堀同様、埋没が激しい。 |
本郭部から見下ろした横堀。 | 本郭部の中央に岩があるが、 古墳の石室のようである。 |
南側の堀(窪地)底から見上げた本郭部。 |
東側の低地部分は堀のような感じ。 古墳の残骸のような岩が沢山あり、穴がある。 |
南に延びる土塁 | 南西側には窪地があり、岩がある。 井戸跡か? |
北側のピーク(小松原トンネルの上) も曲輪状になっている。 |
北側の山の北端部近くには土塁状の場所がある。 | 城址と北のピークの間の鞍部西側にある臼池。 |
中央部に櫓台のような場所があり、南側が堀のようになっている。東と南に土塁が延びる。
北東、天照寺方面に竪堀が下っており、これが大手登城路のような感じである。
主郭部の南側は窪地状になっており、島状に土塁のようなものがある。どうもこれも古墳の残骸のようであり、石の間に穴が開いている。
西側に直径25mほどの岩だらけの窪地がある。吉窪城の石むろと似た感じであるが、井戸のような感じでもある。
以上のような城であるが、古墳群を無理やり改変したような城であり、とらえどころがない。
四方の傾斜はきつくなく、防御上も弱い。
ただし、城内は広く、大勢の人員が収容できそうである。
おそらくこの城は戦乱時の住民の避難用に造られたものではないだろうか。
吉窪城(長野市塩生乙)
犀川が長野盆地に出る部分の両側の山に吉窪城と小松原城があり、犀川渓谷沿いの街道筋を監視していたという。 |
この道が大手道であるという。今は山頂にある飯縄稲荷への参道である。 しかし、この林道、来るなら4輪駆動車で来るべきである。けして2.5tもある8人乗り大型1BOXなんかでは来てはならない。 方向転換に苦労するうえ、前日の雨のため、タイヤがスリップ。タイヤの下に杉の枝を押し込んで脱出したのだが、20分もロスしてしまった。 山の傾斜は急である。道を登って行くと、巨岩が露出し、斜面には竪堀が何本か走っている。 この城も石垣を多用している城であるが、石材には苦労していないことが分かる。 山頂直下には土塁を前面に持つ曲輪が3段ほど展開する。内部が藪や倒木のため、横堀のように見える。 稲荷まで直接登れるように石段があるが、これは後世のものである。 虎口を経て主郭に行くのだが、この道は東に蛇行している。 この虎口は石垣造りである。 主郭は真ん中に長さ60m、高さ3.5mの大きな土塁(石で覆われていたようなので石塁と言うべきだろう。)があり、この土塁を境に郭が東西に分かれる。 この土塁は櫓台を兼ねていたのであろう。石垣の石があちこちに転がっており歩きにくい。 郭内には結構段差がある。西側の郭は60m径程度の広さであり、周囲がほぼ土塁で覆われる。 ここに非常に変わった遺構がある。南側に「石室」というドーナツ状に抉れた遺構があり、穴の中央部に島のような盛り上がりがある。 |
上の図の虎口部分である。 石垣になっている。 |
虎口北下の曲輪。空堀と書いてあるが、 前面に土塁 を持つ帯曲輪だろう。 |
城址に建つ飯綱稲荷神社。 この周辺は改変を受けて いるようである。 |
城を東西に分ける大土塁。 石垣で覆われていたよう であり、石塁か。 |
西にある「石室」と言われている遺構。 虎口らしい。 ここも石垣である。 |
南面の土塁。 当時は石塁であったのであろう。 |
この遺構の内側は石垣で覆われていたようである。
一見、井戸かと思ったが、南側に開口部が腰曲輪に開いているので、変形の虎口ではないかと言っている。
しかし、山の南斜面はかなりの急勾配である。道らしきものは現在では確認できないが、かつてはじぐざぐに登る道が存在していたのかもしれない。
東側の郭には飯縄稲荷が祀られている。抜け穴という場所があるが、これは井戸ではないだろうか。
郭の南斜面にも、前面に土塁を持つ帯曲輪がある。
この城の城域としては東西150m、南北100m程度であろう。山の山頂部のみが城域であり、山頂直下を除いて、斜面部には急傾斜であるため、竪堀以外の遺構はない。
この城は小田切氏の城である。
「小田切遺処日記」によれば、小田切氏は佐久の小田切から移ってきたという。佐久の小田切は旧臼田地区であり、「雁峰城」がある。この城にいたのであろうか。
小田切氏が築いた城が「小市城」とされるが、これに該当する城はこの吉窪城であるとされている。
居館は北側の現在の吉窪集落にあったようである。小田切氏はこの周辺の土豪とともに「葛山衆」に属し、村上氏に協力していたようである。
武田氏の侵略を受けると上杉謙信(当時は長尾景虎)に付く。このため、弘治3年(1577)武田氏の攻撃を受ける。
小田切氏の棟梁、小田切駿河守は葛山城に篭城し、落城とともに戦死。
ここ吉窪城には子の民部少輔が篭城したが、葛山落城の報を聞き、逃亡。城は自落したという。
その後、民部少輔は武田氏に属したが、武田氏滅亡後は高井郡に移ったという。
結局、この吉窪城も実戦は経験しなかったわけである。
川中島合戦のころには砦程度の役目はあったと思われるが、合戦が終息する永禄末期には廃城になったのであろう。
(長野市史、城址解説板 参考)
窪寺城(長野市安茂里)
長野市街西を流れる裾花川西岸、犀川の南に見る富士の塔山地にある。
この山地は東が旭山城であり、西が吉窪城である。窪寺城は両城の中間地点、安茂里地区北側の山の尾根末端部にある。正覚院の南西側、西蓮寺の北の山である。
尾根末端部分を利用した砦程度の小さな城である。
城域は、南北100m、東西50m程度である。城のある場所の標高は449m、西蓮寺の標高が400m程度であるので、比高50m程度である。
城へは正覚院と西蓮寺との間をつなぐ道沿いの城址の看板があるところから小道を登る。登り口の西に見える杉の山が城址の先端部分である。
そこまではりんご畑の中を行く。ところで道を聞いたりんご畑にいたじいさんがとんでもないことを言った。 「今年は熊がここまで出んだよ。俺んちのりんごもやられちまった。」何とこんなとこまで出没するのか?ここは住宅地のはずれである。 この城は中央に大きな堀切があり、城域が南北2つに分かれる。 北側の城域Uに入ると2段の腰曲輪、犬走りを経て大きな曲輪があり、その西に櫓台のような高まりがある。 ところで腰曲輪でえらいものを見つけてしまった。熊の糞である。さらに木には熊の爪あとが。 これを見たら、じいさんの話が急に現実味を帯びてきた。 どこかに熊がいそうな気がしてしまうのである。ということで南側Tは見ず、一目散に退散。 鳥瞰図は長野市史掲載図の縄張図から描いたものであるが、南側は見ていない。 城址は北側に堀のような場所があり、そこが大手のようである。 |
この城は物見の城程度のものである。攻撃を受けて危なくなったら北側の尾根を登って行けば、旭山城などまで行けるのである。
窪寺氏の城という。大塔合戦の時、反守護派がこの城に集まり相談したという記録が残る。
戦国時代、窪寺氏は葛山衆に属していたのではないかと思われる。
その後の運命は分からない。
大塔合戦時代の山城である二柳城よりは新しい感じであり、川中島合戦では改修されて、砦程度として使われたのではないだろうか?
登り口には標識がある。 杉の林が城址である。 |
大手道を登って行くと 堀のような場所に出る。 |
北側のUの腰曲輪。 平坦であるが、ここに熊の糞が・・・。 |
Uの最高箇所。 南側に櫓台のような高まりがある。 |