小松尾城(長野市(旧大岡村)
旧大岡村役場、大岡中学校等がある大岡村の中心部から西の犀川沿いの川口地区に下る県道395線沿い北小松尾地区にある。
標高は750m、麓からの比高は50m、犀川の標高は430mなので川からの比高は300mはある。

城の長さは200m程度ある。西のピークに物見台(曲輪T)を置き、東側の3つの曲輪が展開する。
曲輪Tは直径10m程度と小さい。
住吉神社が祀られ、社殿Bがあるだけである。

しかし、住吉神社って「航海、海」の神、なんでこんな山間の山にあるのだろうか。
この曲輪から25mほど下の東に鳥居の建つ曲輪UAがある。
曲輪内には井戸跡Cがあり、曲輪Tには坂虎口のような坂を上がっていくようになっている。
突出し幅20m、さらに5m下に細長い曲輪Vが60mほど東に延び、さらにその南側5m下に広い曲輪W@がある。
ここは現在、畑であるが、かつては居館があったのかもしれない。
さらに南から東にかけて段々になっており、畑や宅地になっている。


南下、北小松尾の集落から見た城址。
麓の集落は根小屋であろう。
@曲輪Wから見た主郭部 A曲輪Uには鳥居が建つ
B曲輪T、物見台に建つ住吉神社社殿 C曲輪Uに残る井戸跡には今も水がある。
築城は南北朝時代にさかのぼり、中牧、弘前を領した地元の土豪、中牧氏が築城、在城したらしい。

川中島合戦当時は、大岡城と牧之島城を中継するノロシ台として重要視されたという。
戦国期に中牧伊勢守、中牧越中守の名がみえ、永禄2年(1559)9月、伊勢守は武田信玄から中山の屋地に5貫文、芦沼に10貫文を与えられている記録が残る。
信玄は、永禄9年(1566)9月に、中牧越中守に中牧のうち、上石津の荒れ地8貫文を与えている。

今は山間の田舎であるが、当時は大岡城と牧之島城を結ぶ線上にあり、聖山の南西麓の筑摩郡麻績、日向から、大岡の市後沢、樺内、小松尾を経て川口、牧之島に通じる街道沿いに位置している要衝の地であったようである。

この道は江戸時代、松本藩の口留番所が桑関に、松代藩の口留番所が市後沢に設けられていたという。
付近に「うわほり」「したほり」「馬ならし」「西小屋」の城郭に関係する地名が伝えられている。

物見台、狼煙台とは言うが、東側に展開する曲輪は居館の地と推定され、物見台、狼煙台付きの居館といった感じである。

城としての堅固性は低い。









大岡城と天宗寺館(長野市大岡)
大岡地区は長野市の南西端部に位置し、山また山の地である。
平成の大合併で長野市に編入された。
こんなあまり価値がないような山の中にも城がある。
別名、砦山城とも言うが、この城、世に知られたのは比較的最近であり、当然、城に名はなかったという。
砦のように小さい城というので、砦山城と言ったのだという。

城のある地の標高は910m。当然比高は?ってことになるが、山ばかりであり比高の基準となる場所がない。
あえて、この山間を流れる犀川からなら500mほどになる。
城は麻績から信州新町に通じる県道12号線沿い、大岡支所や中学校のある村中心部近くにある天宗寺の南西側にある。

不思議な城であり、単郭、曲輪は精々60m四方ほどの広さ。
天宗寺側、北東側に土塁があり、周囲を幅5mほどの堀A、Bが巡る。
曲輪内は南西に傾斜しており、整地されてはいない。
内部はイバラが茂り、冬場以外に行っても十分に遺構は確認できないであろう。
土橋が北東側@、東側2箇所にある。
この程度ならたいしたことはないが、この城の特徴、北東側と南側に丸馬出を持つことである。
当然、馬出の前面は土塁。深い三日月堀Cを巡らす。

この点は技巧的なのだが、余りに小さく実用性に欠ける。
周囲が断崖絶壁ならそれで良いが、北東側、東側は緩い傾斜地である。土塁も北東側にしか存在しない。
包囲され矢や鉄砲で攻撃されたら一たまりもない。

丸馬出と言えば、武田氏の城郭に多用され、付近の牧野島城にも見られる。
このため、武田氏関係の城と言われる。
こんな山間ではあるが、当時はこの地は大町、安曇野にも通じる要衝でもあった。
この地が武田氏の勢力下に置かれた時の諸城の番手の中に「大岡城」の籠城衆として市川梅隠斎や青柳近江守清長の名があるという。
おそらくその居館がここではなく、北東200mにある天宗寺の地と思われる。

この天宗寺の東に巨大な土塁がある。この天宗寺こそが本来の大岡城なのではないかと思われる。
藪の中にある城であるが、遺構は完存状態である。狼煙用の施設ならこの程度のものであろうが、馬出など不用である。
なぜ、こんな実用性も疑問なミニュチュアの凝った城をここに築いたのか不思議である。
もしかしたら、これは武田氏が狼煙台施設を利用し、築城技術者養成の教育用モデル城郭にしたのではないかと思う。

@北東側の馬出脇の土橋 A南西端の堀 B西側の堀であるが・・全然分からん。
C 南西の馬出の三日月堀 天宗寺に残る土塁 館があった天宗寺、本堂は珍しく武田菱が。

大岡城跡の東側にある天宗寺は、曹洞宗の寺で「てんそうじ」と読む。
寺伝によると、文応年間(1260〜1261)香坂宗清が開基となって創建。
麻績城主・小見氏の娘華蔵院(諏訪頼重の室)が中興開基とされる。華蔵院の娘が武田勝頼の母、由布姫である。
諏訪氏衰退後、ここに住み、のち天正3年(1575)牧之島城代の馬場美濃守信房が伽藍を建て、聖雲山天宗寺と号した。
深志城から海津城への中間地点にあり、川中島の戦いのころは武田信玄もしばしば立ち寄ったといる。

本堂脇に樹齢400年といわれるシダレザクラ、「合掌桜」がある。

『県町村誌』や『信濃宝鑑』によると、天宗寺の由来は、
 延喜年間(901〜923)滋野朝臣香坂宗清が当地に来て草庵を結び、聖雲山法香庵と称した。
その後、応永2年(1395)山火事で焼失し、寺跡は草木の生え茂る荒れ地と化した。
永禄2年(1559)武田勝頼は、弘治元年(1555)25歳で亡くなった母、諏訪御料人(華蔵院梅顔妙香大禅定尼・風林火山の由布姫)の菩提のため、16貫余の地を寄進して堂塔を再建し、諏訪御料人を開基とした。
天正3年(1575)牧之島城代になった芋川親正は、宗清の遺跡であることを懐慕し、興禅寺7世俊察を迎えて開山とした。
と、寺伝とは一致しない。

ともかく、天宗寺のある大岡の地は、牧之島城に拠った香坂氏の支配圏であったようである。
牧之島城は丸馬出を持つ城として名高い。
この大岡城の丸馬出は牧之島城築城(改修)のプロトタイプだったのかもしれない。

大塔城はどこだ?
(大塔古城、二柳城、夏目城)長野市篠ノ井二柳
石川

大塔合戦は地元ではある程度知られた合戦であるが、全国的知名度は低い。
この合戦は信濃の戦国時代の始まりを告げる合戦なのである。
しかも行われた場所が、川中島南部である。
ここは上杉VS武田のバトル、5回にわたる「川中島合戦」の舞台であり、平安末期の木曾義仲対城氏の「横田河原の合戦」もこの地で行われているように交通の要衝であり、合戦の起きる場所である。
ここでは、プレ川中島合戦といえる大塔合戦を取り上げてみるが、合戦のタイトルとなった「大塔城」自体の場所があやふやなのである。
その候補地について書いてみた。

塩崎城のページに大塔合戦について次のように書いた。
『大塔合戦は応永七年(1400)に起きる。この戦いは信濃守護に補任された小笠原長秀が強引に国内支配を推し進め、これに反発した国人が反乱を起こしたことがきっかけである。
小笠原長秀は、赤沢対馬守(満経)を守護代に任じ、赤沢対馬守をはじめ赤沢一族は守護小笠原方として出陣。
守護方は横田城に陣をとったが、村上、高梨、井上等、国人衆の反乱軍の方が大勢力となったため、撤退して塩崎城に籠ろうとする。
しかし、撤退中に攻撃を受け、長秀は塩崎城に逃げ込んだものの、守護勢の多くは進路を絶たれ大塔の古城に立て籠った。
大塔城には兵糧もなく、守護勢は国人衆の攻撃によって潰滅。赤沢一族の赤沢駿河守は討死、塩崎城も国人衆に攻め立てられたが、和議が成立して長秀は京都に逃げ帰った。
結果として長秀は守護職を罷免されて小笠原氏の勢力を衰えさせる。』

つまり、この合戦は、現地の事情と世の中の趨勢を把握できないプライドだけが高い中央官僚である小笠原長秀というおっさんが、県知事(明治時代の官製知事?)に相当する信濃守護になったので、喜び勇み有頂天になり、強引に政策を推し進め、挙句の果てに現地の大反発を招き、自爆した事件である。
このようなおっさんは、スケールさえ違うが、今でも霞ヶ関にもその辺の会社にもどこにもいそうである。
かわいそうなのは、そのような権力を持ってしまっためちゃくちゃなおっさんを上司に持った部下である。
こんな上司により大塔城で無駄に命を落とした部下はとても成仏できないだろう。長秀おっさんは守護を首にはなったが、命は失ってはいない。ちゃんと生き延びているのである。
今も昔も無能な上司のおかげで迷惑を蒙るのは、図からずしも部下になってしまった運が悪い人間ということなのだろう。
この点は今も昔も変わらないことのようである。
こんなおっさん、皆様の周りにもいませんか?いるでしょう。「あいつだ!」

さて、脱線はここまでにして。
大塔合戦が展開されたのは、長野市南部、篠ノ井地区である。ここで取り上げる城もこの地区にある。
ここは坂城、戸倉地区で山合いを流れていた千曲川が長野盆地(善光寺平)に出る場所であり、交通の要衝である。
このため、数多くの戦いが、この地で展開される。
木曾義仲対城氏の「横田河原の合戦」そして「川中島の合戦」である。そして「大塔合戦」である。
この大塔合戦に登場する塩崎城は、塩崎城またはその支城、赤沢城であるらしい。
しかし、合戦の名前にもなっている「大塔の古城」がどこなのかは、2説があってはっきりしていない。

大塔古城
かつては、大当地区にある100m四方の方形の館が「大塔の古城」であると定説のように言われていた。
この館の場所は、しなの鉄道西の老人福祉施設博仁会桜荘の西側、岡田川との間に挟まれた「大当」集落に比定されているが、ここは住宅地である。
城址を示すものは全くない。かつては水田の中の微高地であったらしく。ほぼ方形に微高地の形が残っているだけである。
おそらく、この微高地沿いに土塁が巡り、水田が堀跡であったようである。
この地は完全な平地であり、西を流れる岡田川の氾濫等で堀もほとんど埋まっている感じである。
水田の地質もこの地方の平地の水田と同じ、白っぽい沖積土である。
もし、ここが城址であったとしてもそれほどの人数は入れないし、当時、周囲が湿地帯であったとしても攻撃を受けたらひとたまりもない。

北側から見た館跡と言われる大当集落。 集落には微妙な段差があるだけ。(北側) 南側の段差。水田が堀跡だろうか?

二柳城
もう一つの有力候補地がある。通称「大塔の古城」よりは、はるかに有力な場所である。
ここから北西900mにある「二柳城」である。
この城は千曲川を見下ろす標高396mの山の斜面にある。低地からの比高は約40m。
城址には二柳神社が建つ。ちょうど、篠ノ井西小学校の西側にあたる。

この城を「大塔の古城」とする根拠としては、1つには合戦のあった当時には、廃城になっていたらしいことが挙げられる。
この城はもともと村上氏の流れを汲む二柳氏の城であったという。村上為邦の孫、国高が二柳氏を称し、居住したという。この館は二柳神社の鳥居のある付近にあったという。

この場所は現在でも段状になっており、りんご畑である。
かつての調査では、この場所からは、鎌倉時代に比定される遺物が出土したという。
しかし、室町時代の遺物は全く出土せず、室町時代には二柳氏は何らかの理由で没落してしまい廃城となっていたらしい。
すなわち、古城という条件が当てはまるのである。
第二に「市河文書」に小笠原氏に従った市河六郎頼重が「二柳城に於いて戦功をつくし、疵を被りおわんぬ」と小笠原氏に軍功に対する恩賞を申請したという記録がある。
これによれば、市河氏の一族がこの城で死んだか、戦傷を負ったということになる。これが大塔城の篭城戦を指す可能性が大きい。
第三にこの付近には、大型の宝塔が多くあり、このために「大塔」と通称されていたらしいこと。
第四に、神社背後の平坦地に「大当院作見寺」が存在していたこと。
第五に付近の塚から人骨が多く出たという記録があること。
等の証拠があり、この場所の方がかなり有力なようである。(長野市史参考)
それに、逃げる小笠原軍にとっては、防御の弱い平地城館よりは、山城の方が少しは防御上、心強いはずである。
管理人も「二柳城 大塔の古城説」の方がリーゾナブルであると思う。
北側から見た神社境内。石垣は後世
のものである。
二柳神社を東の土壇から見る。舞殿
が正面にある変わったつくりである。
神社北側に残る堀跡。 西は黄金沢の谷。天然の堀となってい
る。
黄金沢は神社南側下を通るように改変工事が行われたという。右が館跡。 神社南下に居館があったという。この道路も堀跡かもしれない。 神社背後には平坦地があるが大当院作見寺があったという。 城址から見た横田河原方面。正面の山に鞍骨城砦郡がある。

その二柳城であるが、これがどうもよく分からない城である。
立地が南に下る緩斜面である。背後には作見寺跡の平坦地があり、山側から攻撃されたら弱い。
現在の神社の地は石垣造りであるが、これは後世の改変によるものらしい。
当時は2段の土壇があったらしい。下の段は30m四方程度の広さ、上の段は直径10m程度の広さである。
山側には堀があったらしく、一部その痕跡が残る。
当時はこの堀は、もっと大きなものであったとは思われるが、それでもこの堀1本では、背後の山側から矢を射込まれたらどうしようもない。それに城内は丸見えである。
西側は黄金沢の谷であり、神社境内からは15m程度の深さがあり、この方面の防御はまずまずである。
この沢は神社の下で人工的に東にカーブさせ、水堀の役目を負わせている。
神社境内からその下の沢までは高さが15mほどあり、急斜面になっている。
現在はこの切岸に石段が付いているので登るのには苦労しないが、当時は東側の竪堀が堀底道であったのではなかったかと思われる。
沢の南側の鳥居の建つ場所が、館跡である。
一方、神社境内の東側はやはり、堀1本だけである。
現在、神社東側はりんご畑となっており、改変を受けているようである。
もしかしたら堀等の防御施設があったかもしれない。
いずれにせよ今残る姿から想像しても戦国時代の城と比べて、極めて古臭い感じの城といえよう。

夏目城
この付近には二柳城に瓜2つの城がある。
西400mほどにある夏目城である。

この城は二柳氏の初代国高の孫、国平が興した分家、夏目氏の城である。
夏目氏は室町時代初めにはこの地を離れていたらしい。この時点で廃城になったと思われる。
戦国時代には六栗城主として徳川家康に仕えている。「湯入神社」の地が城跡である。
やはり山の斜面に立地し、山続きを堀で分断していたような形跡がある。
東西には沢のような竪堀らしいものがある。神社のある場所は40m四方の平場であるが、その東に境内からの高さ3mの土壇がある。
上の平場の直径は20mほどである。西の山に川柳将軍塚古墳があるので、もしかしたらこの土壇は古墳の転用かもしれない。
南東下側には突き出し25mの平場がある。神社参道脇が段々になっているが、これが曲輪の跡なのか何とも言えない。
この城も戦国時代には使っていた形跡は伺えない。
つまり、この城も大塔合戦時には廃城状態であり、小笠原軍が二柳城とともに逃げ込んだ先である可能性がある。

湯入神社の参道。段々になっているが曲輪の跡だろうか? 城址に建つ湯入神社の本殿。 神社境内の東に径20m、高さ3mの土壇がある。 土壇の背後、北側には堀跡が残る。