平尾城(佐久市平尾)
佐久平PAの北東に平尾富士が見え、その南斜面に佐久スキーガーデンパラダがある。
そのスキー場の西側の平尾富士から西に延びる尾根末端、標高1000mのピークが城址である。
西の麓、上平尾の標高が740mであるので、ここからの比高は260mあるが、スキー場のリフト乗継場まで麓から林道が通じており、ここまで車で行くことができる。
ここ、標高870m地点から閉鎖されている山道を歩く。ここまでは、標高800mにあるハイウエイオアシスパラダからも遊歩道があり、高度差で200mは登ることになるが、ここからも歩いて行ける。
リフト乗継場からの林道を歩くと、10分ほどで鞍部にある切通しBに出る。

この切通しも元々は堀切ではないかと思われる。
この切通しの西側の尾根が城址である。尾根を行くと、直ぐに竪堀が南に下っているのが確認できる。
主郭部の東に堀切Aがあり、小曲輪を介して、5m上が曲輪Uである。
この曲輪は40mほどの長さがあり、西に向かって4段構造、徐々に低くなって行く。
周囲には土塁があったようである。
西端に堀切@がある。
この堀は幅8mほどあり、箱堀のような感じである。
側面や堀底には石があるので、本来は石垣で覆われていたようである。
この堀切の西に小曲輪があり、そこから7mほど登ると本郭に相当する曲輪Tである。
本郭は、東西30m、南北15mくらいの曲輪であり、南側が一部欠けるが、周囲を土塁が覆い、北側に虎口があり、下に帯曲輪がある。
この土塁には石が見られるので石垣で補強されていたようである。
本郭内には例によって秋葉社の石の祠があり、きれいに草が刈られている。
本郭からは西と南西方向に尾根が張り出し、小曲輪が展開し、居館である麓の白岩城に通じる。

平尾氏の城であり、依田修理亮為泰が、応仁の乱の直前頃、大井持光に降ってこの地に定住して平尾氏を称したという。
この城は主家の大井氏と伴野氏、村上氏との争いが激化した永正年間(1504-1520)に、三代目の信守が築城したという。
武田氏の侵攻を受けると、上野に一時逃れるが、後に帰順して帰郷、また、ここに居住する。
武田氏滅亡後は、北条氏、徳川氏に従い、最後は松平康国に従い、天正十八年(1590)平尾守芳が藤岡に去る。この時点で廃城となったらしい。
足掛け,五代、150年間にわたり、白岩城を居館とし、ここを詰めの城としていた。

北側から見た城址。 東端の堀底から見た曲輪U東の切岸。 東端の堀には石が見える。
石垣で補強されていたのかもしれない。
曲輪U内部は東から3段構造になっている。 曲輪U、本郭間の堀。ここにも石が多くある。 本郭内部。
周囲を土塁が覆い、おなじみの秋葉社が。

今井城(佐久市大字鳴瀬字今井)
千曲川北岸の断崖上の台地南端、今井集落の南隣にある。この付近の城特有の崖端城である。
千曲川の川面までの高さは
28mほどある。伝承では、木曽義仲の忠臣、今井四郎兼平の城というが、確証はなく伝説の域を出ない。
おそらく地名からこじつけたものであろう。本来は大井氏か根井氏に関連する城であったと思われるが、それを実証する資料はないらしい。
ほとんどなにもないようなことを聞いていたのだが、うれしいことに堀跡や土塁の一部はちゃんと残っていた。
本郭部は畑になり、底辺
70m、高さ100mほどの三角形をしている。
南側が千曲川の断崖、北側も支谷の断崖になっており、東側が台地続きである。
このため台地続きの東側に堀がある。現在は埋められて畑になっているが、堀跡であることは歴然としている。
幅は
12mくらい、本郭側には土塁があったようであり、北側に土塁の一部が残る。堀の東側は馬場といい、城域であったようであるがただの畑である。
北側に幅
15mほどの堀跡がある。東側にも堀があったはずであるが、失われてしまったようで分からなかった。

本郭東の堀跡。 本郭内部。ただの畑になっている。 堀に面し、本郭北端には土塁が残る。 本郭の北側は絶壁になっている。

根々井館(佐久市根々井)

南側を湯川が流れる北側の低地に位置し、現在、館跡に正法寺が建っている。
遺構は何もないがかつては土塁があったという。ここも今井城同様、木曽義仲にまつわる伝承に色取られている。
館主の根井(ねのい)氏は、望月氏の出である国親が移住し、土地の名を姓にしたものという。
望月氏は牧経営に長けた一族であったため、ここにも牧があり、強力な騎馬軍団を持っていたようである。
その後、木曽義仲が挙兵すると、根井行親はその軍に加わり、「義仲四天王」の1人に数えられるが、元暦元年(
1184)宇治の合戦で京都の六条河原で戦死したという。しかし、ここは低地であり、まるで谷底である。北側の台地上や湯川対岸の台地上から館内が丸見えである。
館を置くなら台地上の縁部が妥当と思うのであるが・・・。
東側の根々井集落には、「屋敷」「市坂」など、政庁や交易市場をうかがわせる地名が残っているそうであるので、やはりこの場所なのであろうか?

小田井城(御代田町小田井)

御代田町南部、佐久市に近い中山道沿いの小田井宿の東、久保沢の谷を隔てた台地にある崖端城である。
この台地は「く」の字形をしており、東西が下の沢まで30mほどある崖、先端の南側は湯川の断崖である。
城跡へは国道137号線沿いにあるアサヒ紙工の工場西側の道を入る。
工場裏にすぐに堀が現れる。この堀は幅20mほどあり、長さは東西250mほどある。西側は中央に土塁がある二重堀切になっている。

この堀の南側が城址であるが、先端部はここから700mほどある。
堀を超えると一面の畑である。先端部に行くに従い低くなっているため、堀を渡った広い場所Tが本郭ではなかったかと思う。
この郭は200m四方もある広大な郭であり、東側に土塁の残痕が確認できる。
南側に幅15mほどの堀がある。その南100mほどが郭Uであり、南側が一段、低くなっている。この下の畑が郭Vであり、ここに大きな井戸があったという。
ここから台地先端までは250mほどある。
一方、北側、県道137号線の北側Wにも土塁のようなものがあるので、城域はもっと北側まで広がっていたと思われる。

この城については大永年間(1520ころ)小田井氏により築かれたという。
「甲陽軍記」によると、天文13年(1544)9月に武田晴信(信玄)の攻撃を受け、小田井城は小田井又六郎、一郎左衛門の兄弟死守したが、板垣信形に討ち取られ落城したという。
「甲陽軍記」の信憑性は低いが、「信陽雑記」や「妙法寺記」等にもこのころ、佐久地方の諸城が武田氏の攻撃を受けたという記録があるので、小田井城の戦いも本当にあったのかもしれない。
この小田井氏とはどうやら大井氏の一族らしく、小田井に住む大井氏という意味から名乗ったものではないかという。
当時、この地方は坂城の村上氏の勢力圏内であり、大井氏没落後、小田井氏は村上氏に従いの村上領の最東端の城が小田井城であったらしい。
このため、武田氏の攻撃もこの拠点に対して行われたとしても不思議ではない。
郭T入口西側の二重堀。 郭T入口東側の堀は一重である。 郭T東側には土塁が残る。
郭T、U間西側の堀。きれいに残っている。 郭T、U間東側の堀。 郭V内部。この畑に井戸があったという。

今も小田井城周辺は「城」と呼ばれ、字名に坪の内、城の内、城児玉、追分方面の敵情を見張った地点といわれる「除沢」、城内に水を入れる口であった「樋の口」などという地名が残るころ。
なお、天文16年、小田井原合戦という戦いがこの付近で行われたという。
この戦いは志賀城に篭る笠原新三郎清繁を支援するため、関東管領上杉憲政が高田憲頼に命じて援軍を派遣したが、ここで武田軍に敗れ、武田軍が討ち取った首を志賀城の周囲にかけ並べて、城内の将兵の士気を低下させ、落城させたという。
小田井城が小田井原合戦に係ったかどうかについては分からない。
小田井城の落城で廃城になったのではなく、しばらくは武田氏等により使われていたようである。
要害性もある程度あり、これだけの広大な城は、軍勢の参集地、駐留地としては最適であったであろう。
「信陽雑誌」等にも天正10年(1590)11月4日、依田信蕃が前山、高棚、小田井の諸城を攻め落としたとある。
この時、小田井城を誰が守っていたのが誰であるかは分からない。
完全に廃城となったのはその後であろう。(浅間ミュージアムHP「ふるさと御代田」1974年参考)

金井城(佐久市小田井)

小田井地区は御代田町かと思ったが、佐久市にもまたがり両方に小田井という大字が存在する。
この金井城は佐久市に入る。
佐久市の北東端に位置し、御代田町との境界付近。小田井宿の南、佐久ICから北東2qの距離である。西側を旧中仙道が通る。

東側に湯川を望む崖端にあり、湯川までは40mほどの高度差がある。
小田井宿の南、城の西側は小田井工業団地となって湮滅している。
この城は昭和62年度、工業団地造成のため調査が佐久市によって行われている。
この城は、小田井城の南西1kmにある小田井城の支城であり、佐久地方が武田氏に制圧されると武田軍の宿城に使われたと考えられていた。
これは、この城跡から50を越える掘建式建物、無数の竪穴式住居が発掘された。
しかし、遺物を見ると石臼など生活道具が多く、宿城ではなく住民の避難城であった可能性が大きくなったという。
城内には細い堀で仕切った区画が多く、これは避難エリアを地区ごとに分けた結果ではなかったと思われる。
現在、主郭部は公園となっており、マレットゴルフ場である。このすぐ西側を長野新幹線が通り、その西側の外郭にあたる部分が工業団地である。
この城は崖端の本郭を中心に扇状に西側に郭が展開する梯郭式であった。郭は10程度は存在していたようであり、未発掘の西方向まで広がっていると思われる。
城域は、直径600m位はあったと推定される。
鳥瞰図は佐久市の発掘調査報告書掲載図を参考に描いたものである。
遺構はマレットゴルフ場となっている主郭部周辺に若干残る程度であり、よほど注意して見ないと城郭遺構とは判断できないかもしれない。
本郭と推定される場所は30×50mの楕円形をした曲輪で北側に1段の腰曲輪がある。
突き出しはそれぞれ、10m、20m程度である。この周囲を堀が回っていたらしく、北側と南側の崖沿いに堀跡が残る。
この堀の南側に40m四方の郭があり、その南は工場になっているが、その構内にも堀跡らしい窪みが残っている。 

盛り上がった部分が本郭。 本郭南側の堀跡。 本郭北側の腰曲輪から見た本郭。 本郭の東は湯川を望む断崖。川面まで40mの高度差がある。

岩村田城(佐久市岩村田)

この城は中世城郭ではない。かと言って近世城郭とも言い切れない。
何しろ築城開始は幕末も幕末、文久元年(1868)、明治維新直前である。完成はしないうちに廃城になったらしい。
城址は岩村田公園と岩村田小学校であるが、小学校の敷地でほとんど湮滅しているといって良い。
場所は湯川を東に望む岩村田市街南東の東西に細長い台地の上である。大井城の少し南側である。
小学校正門前の「岩村田公園」が若干、城址の雰囲気があり、ここに土塁が一部残る。
東側の切通しの道が堀切跡と思われる。また、公園の西側は堀跡のように思える。
この地には、元禄16年、内藤正友が一度、入封するが大阪詰めとなって去り、その子の正敬が正徳元年に15000石で岩村田に復帰する。
小藩であったため陣屋を構えていた。
築城を計画したのは7代目の内藤正縄であり、8代正誠の時に幕府から築城許可がおり、築城を開始したが、明治維新を迎え完成を見ずに廃城となったという。

本丸は神社となり解説板がある。 神社社殿背後に土塁の残痕発見。 神社と岩村田小学校間の道は堀跡 東の児童公園間との切通しは堀跡。

駒形城(佐久市塚原字新城)

千曲川の低地に面した下塚原地区の台地の縁に位置する。
西下が塩名田地区である。崖渕にあり比高は23mほどある。
城址には国の重文である駒形神社が建っている。
その境内が城なのであるが、槍の穂先のように
70mほど西に突き出た場所に神社があり、南側Bに深さ15mほどの沢があり、北側@も急勾配になっている。

東側にみが台地に続くが、付け根部にあたる神社入口に土塁があり、道路が堀跡らしい。
南側には堀跡Aが通路として残るが、本当に城であったのか疑問が残る。

沢を隔てた南側の台地の方が標高が高く、そこから境内が見下ろされるのである。

城については良く分らないが、城とすれば、位置的に台地続きの東にある根々井城の根井氏の西側の千曲川方面を監視する支城であったのではないかと推定される。
@神社北側の崖 A神社東側の入口部に残る堀跡 B神社南側の谷にかかる参道の橋から見た本殿