大野田城(大町市美麻)
大町市中心部から北東約4q、県道394号線を行くと美麻地区最南端部の大塩地区に至る。
ここは山間の小盆地である。
さらに大塩地区から少し北に行き、県道393号線に入り、東の長者山(1159.6)方面に向かう。
この道、県道の名前は付いてはいるがほとんど林道という感じである。

↑県道393号線から見た東に見える城址。なかなか見えるポイントがないのです。

その県道沿いの最大のヘアピンカーブの所に境野碑がある。
ここの標高が907m、位置は36.5443、137.9095である。

碑に刻まれる文字は梵字のような書体なのでさっぱり分らないが、これが城への目印である。
城への道の入口はその15mほど南側にあるが、踏み跡程度で分かりずらい。
、ここから南東方向に山道が山の西斜面にジグザグについている。
ここを登って行くと大野田城に着く。

この山道、城に近づくほど立派になり、当時の登城路だったのかもしれない。
城は南北約300mの細長い尾根城であり、北側(北城)と南側(南城)に遺構があり、その間を幅1〜2mの細尾根がほぼ水平に約100m続く。
西斜面の登り道を行くと周囲に平坦地@が確認できる。
これが北城の帯曲輪である。

@登城路沿いに見られる北城の帯曲輪 A北城の主郭、細長いだけ・・・削平度はまずまず。 B主郭北端下の堀切。さらに下側に2本の堀切がある。

登り道は鞍部のような場所に出る。
武者溜まり、大手曲輪のような感じである。北側が若干登りとなり、山頂部の細長い曲輪となる。
ここが北城の主郭Aである。幅数m、長さ80m続く。
ここの標高が972m(36.5441、139.9108)東側斜面は急斜面であり、遺構はない。(不要である。)。
曲輪の北端は急な尾根になり堀切B主郭が3本ある。

一方、鞍部から南は登りCになり南城に続く細尾根Dとなる。
この北城は兵の駐屯地と思われる。
もし、北城を落としても南城を攻めるのはかなり難儀するだろう。
何しろ細尾根は一人しか歩けない。さらに両側は急斜面である。
木戸等があって、矢で狙われたらどうにもならない。

C横堀ではない。登城路です。北城の南側で登りになる。 D北城と南城を結ぶ細尾根、落ちたら? E細尾根の南端は湾曲し、竪堀になっているが、これは自然地形だろう。

一方、細尾根の南端に土壇があり、道が湾曲し西に竪堀が下る。(自然地形と思われる。)
ここからが南城である。
ここは連郭式の尾根城である。

北側に曲輪Fが2つあり、堀切Gが中央部にある。
標高は986m(36.5425、137.9111)である。
その南側は曲輪はあるが、その間はダラダラした感じである。
南端に堀切Hがあるが、埋没・風化した感じで堀切と言われないと分からない。

そこが城の南端であるが、その南側も曲輪っぽいが、普請中に工事が中断されたような感じである。
南城は指揮所があった場所であろう。

F南城の主郭、ここが北城を含めた総合指揮所である。 GFの背後にはお馴染みの堀切が。 H城南端の堀切、埋もれていてよく分からない。

この城がある美麻地区には北に拠点城郭と推定される千見城があるが、それに次ぐ規模の城郭である。
ここにこのような城郭が存在するということは、この山中に街道が通っていた傍証である。
しかも城の規模もそれなりであるので街道もその重要性が理解できる。

しかし、この城、周囲は山ばかり、山の写真を撮ろうとするがなかなか見えない。
県道からやっと見れるポイントを見つけ撮ったくらいである。

逆に言えば、この城からは街道筋の交通が見えたのかという疑問も出る。
おそらく、付近にはほとんど平場だけの物見と思われる場所がいくつかあり、それらと連携を取っていたのであろう。

築城時期は分からないが、戦国時代はここは仁科氏の領土であり仁科氏が川中島方面と結ぶ街道の関所城として設けたものと思われる。
天文22年(1553)に出した文書に「大の田さいしゃう(在城)」という言葉が登場する。
当時は川中島合戦が始まったころであり、仁科氏は武田氏の傘下に入り川中島方面は上杉氏(当時は長尾氏)の影響下にあった。
そのため、川中島方面を結ぶ街道筋を抑えるため、仁科氏が大野田城に兵を駐屯させていたと推定される。
川中島地方が武田氏の支配下に入ると大野田城はその役目を終えたと思われる。

しかし、武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺で斃れると上杉氏と小笠原氏間で武田遺領を巡る争奪戦が始まる。
両者の境である筑摩山地がその舞台となり、天正11年(1583)の上杉氏の文書に「大野田城」を再興するよう牧野島城の芋川正親に指示する旨を連絡している。
上杉氏はここを拠点に大町方面を狙ったものと思われる。
廃城になっていた城を再利用したのであろう。
南城の南端部は工事途中で終わっている感じであるが、秀吉の命で停戦を命じられたためと思われる。
竹井英文「戦国の城の一生」、宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。

大塩城(大町市美麻)
大町市中心部から北東約4q、県道394号線を行くと美麻地区最南端部の大塩地区に至るが、ちょうど山を抜けた場所にあるのが、大塩城である。

↑北東側から見た城址、たいした山のように見えないが、比高は約50m、案外手強い。
 手前の平坦地に居館があったのであろう。

城は県道の北側の標高858mの山(36.5340、137.8882)にある。
山の麓に堀之内という平坦な場所があり、地名の通りそこが居館跡と思われる。

ここからの比高は約50m、城のある山は約200m四方の大きさで北側は尾根で北側の山地に続くが、ほぼ独立した山である。
一見、大した山には見えないのだが、意外に比高があり斜面が急である。

北東下から登る道があり、その道をジグザグに登って行くと、腰曲輪@があり、南側を取り巻くようにさらに登って行くと、山頂の主郭直下の帯曲輪Aに出る。
この曲輪は幅が7〜8mあり、主郭を一周する。

@登城路の途中、主郭北東下側の腰曲輪。 A主郭(右)下の帯曲輪 B主郭内部は平坦、石の祠が祀られる。
C帯曲輪から見た主郭西端部の切岸 D帯曲輪の北西端部には土塁がある。 E北側の山地に続く尾根部にある堀、道に見えるのだが。

その約3m上が主郭B主郭である。
40×15mの広さがあり、西側が一段下がる。削平度は良好である。
小さな石の祠が祀られる。

北側が山地に続くがその方面に堀Eはあるが、果たして堀か?
尾根を横切る道にしか見えない。
簡素で単純な構造の城であるが、遺構はほとんど改変を受けていなく、完存状態と言えるであろう。
田舎のこのような山は荒れていることが多いが、ここは綺麗に刈払いが行われている。
祠もあり、地元から大事にされているようである。

説明板によると、信府統記によれば、木曾義仲の第2子あるいは3子の義重によって安貞元年(1227)森城主、阿部貞高を討つために築いたと言われる。
また、千見城の支城、または出城として、大日向直長の手によって築かれたか、あるいは武田氏による山県昌景の手による築城の推測説もあるという。
「信濃戦国時代史」は仁科氏の城であり、大野田城方面に向かう街道の抑えとしている。
この説が一番妥当であろう。
木曾義仲の子義重築城説は、信濃に多い義仲英雄伝説の1つと思われる。
宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。