千見城(大町市美麻)
大町市美麻地区最大の城郭である。
ここに「らんまる殿」の案内で行った。
この城、単独行は止めた方が良い。
熊のリスクもあるし、道も消えかかっており、いかにスマホのGPS機能があっても迷い易いし、谷間で立ち往生の恐れもある。
行った経験のある人の同行を得るのが一番である。
そして深い山にあるので時間もかかる。
総計3時間もかかった。時間に余裕を持たないとえらい目に遭うかもしれない。
場所は美麻地区北部、白馬道路とも言われる長野オリンピックの時に拡張整備された県道31号線(大町街道)が通る沿線の北の山である。
ここはかつて美麻村と言った。
例によって超田舎である。
信州を象徴するような山村だった。
高校時代、バイクの免許を取ると、美麻村付近をよく走った。
この村の山道が面白くて。
そして気に入ったのが山にマッチした集落の風景だった。
↑ 城のある山はなかなか見れるポイントがない。
何とか、県道31号線脇から北西側にちらりとその姿を捉えることが出来た。
城は県道31号線に切石トンネルがあり、土尻川を挟んでその北東の山である。
すぐ東は小川村、直線で西約3.5qには青木湖がある。
城には切石トンネルができる前の北側の旧道沿いに城址入口の看板がある。(位置は36.3040,137.9109)
城へはそこを沢伝いに入って行くのだが・・・この道、車など通れない。
人が何とか歩けるだけ、しかも崩れかかっている。
驚くことにこの沢の奥にかつて数軒の人家があったそうである。
@城への道、谷沿いの道を行く。この奥に人家があったのだ。 | A家があった平場近くには墓もある。人が住んでいたのだ。 一礼をして山に向かう。 |
そこを「仲場」(ちゅうば)と言うそうで、戦国時代の居館の地だったかもしれない。
現在、そこには家があった痕跡があり、鍋等が転がり、墓もある。
遺物?はそれほど古い感じではない。
昭和30年代の物のように見えた。その頃までは人が住んでいたようだ。
しかし、ここで何で生計を立てていたのだろうか?
猟か炭焼きか?雪が降ったら孤立する。
驚きの世界である。ポツンと一軒屋より凄い。
城へはここから南側の沢筋を登って行く。
道は痕跡程度、ほとんど消えかかっている。
案の定、道を見失い、いつもの直登となる。
滑落しそうな尾根をよじ登り、到達したのが北西尾根である。
標高810m付近に祠Bがあり、北に尾根が続く。
尾根上は幅2mくらいに削平されており、堀切Cが大小3つある。
少し尾根が広くなった曲輪のような場所もある。
B北西尾根にある祠、ここも曲輪だろう。 | C祠の北側には3条の竪堀がある。この先は広くなり曲輪になっている。 |
主郭部は祠Bから南の方向にある。
尾根は急激な下りとなり、標高790m地点が鞍部で、そこに堀切Dがある。
両側は崖状である。
ここから岩盤を登る道となり、同じような両側が崖の恐ろしい堀切Eがまたある。
D北西尾根と主郭部の間にはごつい堀切がある。 | EDからさらに主郭部に登るとさらに恐ろしい堀切が。 | FEの堀切からは崖を登る道が・・2か所に梯子がかかる。 |
さらに梯子がかかる岩Fをいくつか乗り越え、主郭北端の土壇上Gに出る。
この場所の標高は831m(36.6081、137.9147)、城内最高箇所である。
ここから南を見ると驚き、今までの崖の尾根とはまったく異なる風景が広がる。
土壇下約10mに小曲輪があり、さらに南側に約50mにわたり曲輪Hが段々に重なる。
土壇からは竪土塁が東西に延び、東側には曲輪Iが2段ある。
ここが主郭部であるが、この山中ではかなりの土木工事量である。
G城の最高箇所の土壇上、ここには井楼櫓があったのかも? | H土壇西下の段々に重なる曲輪群、ここが城の中心である。 | I主郭部南側の腰曲輪。削平度は高い。 |
主郭の南側の尾根に曲輪が展開していくが、その末端に巨岩があり、虎口が開く。J
その下は深さ約10mの巨大堀切Kとなる。
この付近の標高は780m、主郭の土壇からは約50m低い。
さらに岩だらけの尾根に2本の堀切Lがある。
J主郭部末端には岩がある虎口が。 | KJの虎口を出ると深さ約10mの恐ろしい堀切が・・。下りるのが大変。 | LKの堀切の西下の尾根にはさらに2本の堀切がある。 |
一方、主郭の西下に尾根が張り出し、「城裏」と呼ばれる曲輪群がある。
標高は750mで全長約90m、中央部に堀切Mがあり、前後に各2つの曲輪Nを持つ。
ここへは主郭部からは勾配が急すぎ直接のアクセスはできない。
南側の曲輪から斜面を斜めに移動して到達するが、その道もかなり急である。
一方、「城裏」の北側斜面に仲場方面に下りる道があるが、ほとんど消えかかっている。
M「城裏」の東側には堀切がある。 | Nここが「城裏」の主郭、削平度は良い。 |
総じて、曲輪や堀切が明確でメリハリがある城である。
工事量も膨大で普請に力を入れており、重要な城であることが見て取れる。
南を通る現在の県道31号線は戦国時代当時も白馬と川中島地方、善光寺方面を結ぶ主要街道であり、その街道の交通を抑える城の位置ずけが見て取れる。
築城したのが誰かはっきりしない点があるが、この地の土豪、大日向氏と思われる。
本領である東側、現在の小川の西を守る城であったと思われる。
もちろん、山城に居住性はなく普段の居館は南の麓の本村地区にあったと言われる。
想定する敵は仁科氏であろうか。
戦国時代になると武田氏の侵略を受け、天文21年(1552)大日向氏も仁科氏も武田氏の支配下に入り、上杉氏への備えを担ったと思われる。
天正11年(1583)武田氏が滅び、織田氏も撤退すると信濃北部には上杉氏が南下し、千見城もその勢力下に置かれる。
一方、小笠原貞慶は徳川氏をバックに再興を図り、上杉、小笠原氏はこの筑摩山地の各所で激突する。
この地の土豪、大日向氏も上杉、小笠原氏に分かれる同族間で争うようになる。
上杉の城であった千見城は天正14年には小笠原氏の手に落ちる。
現在、見られる壮大な遺構は上杉、小笠原氏間の争奪戦時に整備されたのであろう。
天正18年、小笠原貞慶は秀吉の怒りをかい改易され、松本に石川数正が入る。
慶長19年(1614)貞慶の子、小笠原貞政が松本に復帰するが、翌20年、明石に移り、この時、千見城は廃城になったと思われる。
宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。