小諸城
島崎藤村の「小諸なる古城のほとり・・」であまりにも有名な城であり、取り上げるまでもない城である。
掲載しようか迷ったのであるが、改めて見たこの城の崖に深い感銘を受けたので書いてみる。
小諸駅の南側、懐古園が言わずと知れた城址であるが、入り口の三の門が、駅より低い場所にある。
この城は城下町より低い位置にある国内でも珍しい「穴城」なのである。
平安時代末期に木曾義仲の部下小室太郎光兼が現在の城址の東側(動物園か遊園地の場所?)に館を築いたのが最初というが、伝説の域を出ない。
時代は変わり南北朝の騒乱後、この地は北朝側に付いて勢力を拡大した大井氏の領土となる。
その地域支配の拠点として、長享元年(1487)に大井光忠が築城した「鍋蓋城」が、小諸城のベースとなったという。
ただし鍋蓋城の中心部は、大手町付近というので「しなの鉄道」を挟んだ、小諸城の東側であったらしい。 光忠の子光安の代には、今の二の丸の位置に支城の乙女坂城を築き、南東の崖ぎわに七五三掛城などを築き、防御を強化した。 しかし、この大井氏も武田信玄(当時は晴信)の侵略で降伏し、天文12年(1543)には小諸城も武田氏の手に落ちる。 晴信はこの城を東信濃の拠点に据え、ここを拠点に村上氏を初めとする北信濃攻略基地する。 このため城は拡張工事を受け、天文23年(1554)ころには、ほぼ現在の形になったという。 この改修工事を行ったのが、山本勘助というがこれは捏造であろう。 晴信はここに甥の武田信豊を城主に置く。 以後、信豊は武田氏滅亡まで城主の地位にあった。 武田氏が滅ぶと小諸城も自落し、天正10年(1582)、小諸城は関東管領となった滝川一益のものとなるが、まもなく本能寺の変が起き、滝川一益は北条氏政に攻められ、関東の領国を放棄し、撤退。 小諸城は北条氏の手に落ちる。 次は北条と徳川の係争に巻き込まれ、徳川家康に従う依田玄蕃などの活躍で小諸城は徳川氏のものとなる。 豊臣秀吉が天正18年(1590、北条氏を滅ぼすとこの城には、仙石秀久に与えられる。 現在の城は、仙石秀久が整備したものという。 |
この間、関が原の合戦があり、上田城を攻める徳川秀忠はここを本拠に上田城を攻めた。
関が原後も仙石秀久による城下町整備が続けられたという。
仙石氏が上田城に移されると幕府直轄となり、寛永元年(1624)以降、松平、青山、酒井、西尾、石川、牧野氏など譜代大名が置かれ、牧野氏が15000石で幕末を迎えた。
重要文化財の三の門。明和2年 (1756)に建てられたもの。 |
二の丸内の通路は石垣に沿って 蛇行している。 |
二の丸入口 | 北の丸は石塁で区画しただけの空間である。 |
本丸とをつなぐ木橋。 渡ると黒門があった。 |
本丸との間の堀。そのまま、 北谷と南谷に落ち込む。 |
本丸に建つ懐古神社。 なんと本丸内に旅館があった。 |
本丸の石垣。仙石秀久の手による。 |
本丸西の馬場西下にある堀、西谷。 | 南谷(もみじ谷)の底を白鶴橋から 見る。これは深い。 |
西谷の堀底。 | 水の手の展望台。下に降りていく ための不明門があった。 |
水の手展望台から見下ろした 千曲川まさに絶景である。 |
水の手展望台の近くにあるかの 有名な藤村の歌碑。 |
北谷である。左が本丸。深さ25m、 垂直な絶壁である。 |
北側の不明門から見た北谷の端部 |
城のある場所は浅間山の南麓の千曲川に臨む崖上である。 北西を中沢川、東南を蛇堀川、が流れ、やわらかい凝灰岩の岩を削り、そこらじゅうが断崖になっている。 この断崖、深さは30m以上もある恐ろしい谷である。 この城はその谷を堀に用いている。 城の主郭は東北の三の門付近からから西南に扇状に広がる台地上に二の丸、北の丸、南の丸と展開させ、堀切を介して一番奥に本丸を置く。 二の丸から本丸までは曲がりくねった石垣の間を通る道であるが、北の丸は石塁で仕切っただけの空間である。 本丸は石垣部分が内側にあり、崖までの間は馬場となっている。 これは地盤が軟らかいので内側に石垣を設けたものであろう。 念が入ったことに千曲川に面する断崖部にも堀と土塁が巡る。 ここを西谷と言っているが、ここは人工のものであろう。 この本丸の標高は650m、千曲川の水面が580mというので千曲川までは70mの高度差があることになる。 西端が水の手の展望台となっており、不明門があった。ここから下に下りる道があったらしい。 下に湧水を利用した井戸があったらしい。 そして、この展望台の脇にかの有名な島崎藤村の「千曲川旅情の詩」の碑がある。 |
この主郭の東側は南谷(もみじ谷)を挟んで、動物園のある細長い曲輪、ここは「籾蔵台」と言われているので「米蔵」があったのであろう。
さらに南の南二谷(しし谷)を挟んで遊園地のある曲輪が展開する。
一方、西側は北谷を挟んで鹿島神社や市立郷土資料館のある曲輪となる。
さらに北に地獄谷があった。北谷と地獄谷は「小諸駅」付近まで延びていたが、駅近くは埋め立てられ駐車場になっている。
この曲輪の西側は中沢川の断崖である。先に書いたように城下町は浅間山に近い側の北側一帯である。
城下町は北国街道の宿場町でもあった。現在、二の丸や本丸及び周囲は、懐古園となっている。
しかし、三の丸は小諸駅と市街化となって分からなくなっている。
鹿島神社の場所が鹿島郭であり、周囲には堀があったらしい。
公園入口には、三の門があるが、この門は2層・寄せ棟造り・瓦葺きで、両袖に矢狭間、鉄砲狭間が付いている。当然、重要文化財である。
富士見城(小諸市)
大室城ともいう。
小諸市街地と小諸城を見下ろす北の飯縄山にある石垣の城である。
山の標高は標高835m、比高130mある。
真下を上信越自動車道のトンネルが通り、小諸ICは直ぐ西にある。
山の東尾根に小諸高原美術館があるので迷うことはない。
小諸高原美術館まで車で行け、駐車場も心配する必要はない。城址は美術館のすぐ西であり、公園になっている。
大体、公園になっている城はかなり改変を受けてがっかりすることが多いが、この城は予想を逆に裏切る城であり、中世末期の城郭の姿を伝えてくれるすばらしい城であった。 実はこの城の存在はずっと以前から知っており、上信越自動車道をとおり小諸高原美術館の塔が見えるたび、思い出してはいたのであるが、いつも訪問がかなわずにいた。 やっと訪れることができたわけであるが、アクセス、城内の整備状態、遺構を総合すると高得点となり、小生のようなマニアも満足できる極めてコストパフォーマンスが高い城である。 小諸城も良いが、この城もお奨めの城である。 |
X郭にある旗塚。古墳のように 見えるのだが・・。 |
W郭の石垣。結構崩れている。 | 本郭東の豪快な堀切。 切岸は石垣であったようである。 |
本郭内部。公園化されていて快適である。 |
U郭西のの石塁をU郭内より見る。 遠く浅間山が見える。 |
U郭西の石垣をV郭から見る。 結構、崩落している。 |
南には小諸城が見える。後方防御 の城であることが理解できる。 |
城址直下を貫通する上信越自動車道。 |
城へは小諸高原美術館から延びる遊歩道を進めばよい。
この小諸高原美術館の建つ地も城域であったと思われる。
すぐに旗塚なるものが現れる。ここがX郭であるが、東にだらだらとした傾斜地である。
文字どおり旗を立てた台のような土壇であるが、古墳のようにも思える。
現在は1基だけしかないが、いくつもあったらしい。
しばらく行くと堀切跡に出る。南に下りる道は堀底道であったようである。
この西がW郭であるが、東側に石塁がある。北側は石垣が完全に残っている。
W郭内部は3段の段差があり、中央部が高い。
東西50m、南北30m程度の大きさである。この西に大堀切があり、本郭である。
堀切は幅15m、深さ5mほど、切岸は石垣であったらしい。本郭は東に15m幅の土塁があり、西側に40×30mの平坦地がある。
西に堀があるが、ここは薬研堀ではなく箱堀であったようである。
その西がU郭であるが、40m四方の広さ、東西に石塁がある。
西にいびつな形のV郭があり、切岸も石垣である。
東西20〜40m、南北60m程度の大きさである。
この付近から下りとなるが、下にまだ曲輪が取り巻いているのが分かる。
築城は鎌倉時代に大井光長によるというが、一説にはこの地の土豪、大室氏が鎌倉時代に築城し代々の大室氏の居城であったともいう。
その後、武田氏の手に落ちるが武田氏支配時代の城主は不明であるが、小諸城の前身、鍋蓋城の背後を守る詰の城であったらしい。
この城が資料に登場するのは、戦国末期であり、天正13年(1585)第一次上田合戦の際に徳川軍の城として柴田康忠が入って拠点として整備したという。
石垣は武田氏の支配時代から多少はあったと思われるが、城自体もそれほどの規模のものではなかったようである。
今に残る石垣は徳川氏の手によるものである。
信州に徳川氏が手を入れた城はほとんどなく、この城だけであろう。
平原城(小諸市平原)
小諸市の東部、国道18号線と上信越自動車道が立体交差する場所の西側800m地点が城址である。
この場所は浅間山の裾野にあたり、標高は760m、南に北川が流れる谷があり、ここの標高は725m、この谷を国道18号線が通る。
なお、北国街道は、この谷の南の台地上を通っていた。
城のある場所は、北から南にかけての緩斜面であり、結構、凹凸している台地である。 |
@の位置、城、東側の堀底は道路になっている。 | Aの位置、左の道路の南、 途中で直角に折れている。 |
正眼寺の駐車場から東に入ると堀が。 |
Bの位置、堀底は複雑に分岐している。 | Cの位置、西端の広い堀底は何と墓地である。 | Bの位置、堀間の土塁。 |
築城者、築城年代はよく分からないようであるが、依田氏の城であったという。
初代城主は依田全真であったといい、上野国岩鼻城にいたが、村上義清の要請でこの地に移ったという。
武田氏が侵攻すると、天文18年(1549)攻撃されて、放火されたという。(『高白斎記』)
その後、武田氏に占領され利用されるが、城主、依田全真は武田氏には従属せず、97歳の長命を保ったという。
しかし、子の信盛は武田氏に従い、城主を務めていたという。
武田氏が滅びると徳川氏に仕え、慶応5年(1600)の第二次上田合戦では徳川秀忠軍に加わり、さらに大阪の陣では本多正信の配下で戦功を挙げ、旗本として天守番を勤めたと伝えられている。
手代塚城(小諸市丙)
小諸城の北西に位置する。距離は500mほど、おそらく小諸城の支城であったのである。
標高は610m、千曲川からの比高は60m。
小諸城と同じ、崖端城であり、北側の両神地区よりも低い。
両神団地から見れば、小諸城同様、低い位置にある穴城である。
しかし、小諸城同様、田切地形であり、栃木川に臨む断崖上に築かれているので見た目以上に要害性は高い。
東から南を県道40号線が通り、解説板がある。南側の稲荷神社のある岡が本郭であり、その下の畑は堀跡である。
本郭のある岡@は堀底からの比高が8mほどあり、15m×100mほどもあり、稲荷神社Aが建つ。
その西に物見郭があったというが崩落したという。
二郭Cとの間は40mほどの幅があり畑Bとなっている。
二郭は60m×40mほど、幅15mほどの堀Dを介して直径30mほどの三郭が北東に位置する。
解説板によると、室町時代末期には依田安満が手代塚城にいた記録があり、大井氏が鍋蓋城を築く以前に依田氏が手代塚城を築いていたことは確からしい。
大井氏が鍋蓋城主として小諸地方を支配すると、岩尾大井氏の一族に連なる長尾安芸守祐景が手代塚城主であったという。
おそらく、武田氏に占領されると小諸城の支城となったのであろう。
航空写真は国土地理院昭和50年撮影のもの。
@堀底から見た本郭 | A本郭内部は平坦で細長い曲輪となっている。 | B本郭(左)と二郭間の堀は畑となっている。 |
C本郭から見た二郭。遠く浅間山が見える。 | D二郭(左)三郭間の堀底 |