青柳城(筑北村青柳)

うわさには聞いており、いつかは訪れたいと思っていたが、うわさどおり見事な山城であった。
JR篠ノ井線坂北駅の東方1.6km、四阿屋山の尾根が北西方向に突き出した尾根末端、標高905mの城山に築かれた典型的な尾根城。
下から見るとやたら目立つ山であり、この周辺の低地からはどこからでも見える。
中央自動車道もこの山の周囲を大きくカーブするように通っている。
低地から見るととんでもない山に見えるのであるが、実は車で城址まで行けるのである。
城の館があった清長寺の大手口から40分かけて登ることもできるようであるが、車で行けるのでこの道を登る人は少ないであろう。

坂北小学校付近から青柳城址公園という標識に従って車を走らせれば良いのである。
この車道は城山のかなり南側を迂回するが、城背後の開拓地に出る。
その北端が公園であり、駐車場が完備している。この駐車場が城の搦手口であり、城址はここから北西の尾根400mに渡って展開する。

しかし、背後にこんな広大な平地があることは想像もしなかった。この平地は開拓地なのである。
城の入り口には、櫓門が復元されている。
訪れた日は12月の午後3時、もう薄暗くなり始めている。おまけにここは標高900m。雪がちらほら舞っている。
そんな最悪のコンディションの中、城址をいそいで走りぬけた。
ここから尾根は下りとなり、100mほど行くと巨大な二重堀切がある。
その間に小さな堀切があったらしいがよく分からない。
二重堀切は、幅は30m以上、深さは6mほどある。斜面は竪堀になっているが、自然の谷をそのまま利用したように思える。
二重堀切の主郭側、郭Zには櫓台跡のような高まりがある。
この先を60mほど行くと岩盤堀切となる。
途中に2つの小さな堀切があるが、明瞭ではない。
岩盤堀切の北に長さ30mほどの郭Yがあり、また、二重堀切となる。
ただし、この堀切の南側の堀切は小さい。主郭側の堀切は巨大である。
そしていよいよ主郭部である。
まず五郭(X)であるが、堀切側に土塁を置く15m四方の平地が2つ連続した郭に過ぎず、小さな堀切を介して四郭(W)となる。五郭(X)の二重堀切側切岸には石垣が残っている。
この郭も長さ15mほどに過ぎなく、下って三郭(V)である。堀底のような郭である。
真ん中に木戸が復元されている。清長寺からの登る道はここに出る。
西側坂北駅付近から見た城址。右下に居館跡の清長寺が見える。 駐車場に車を止めるとこの門が出迎えてくれる。上の図の右上端に当たる 郭Z南側の二重堀切。 左の二重堀切を郭Z側から見ているのだが余り迫力が伝わらん。
郭Y、Z間の堀切には石がごろごろしているかつては石垣造りか? 郭Yから郭X方面を見る。この間に二重堀切がもう1つある。 郭X南側の二重堀切に面した土塁。 木戸が郭V、その向こうに郭Uと本郭が見える。
本郭の東側は石垣造りである。 本郭の北の先端から見た郭内。 本郭からの北方向の眺め。道路は中央高速長野線。 青柳氏の居館があった麓の清長寺。

清長寺から登る大手道の途中の斜面に帯曲輪が20程度あるという。
主郭はこの北、2段にわたり、二郭(U)、本郭(T)と続く。本郭は長さ50mほど、幅は15mほど、南北に土塁がある。
本郭の先端に立つと眼下に高速道路や麓の民家が手に取るように見える。晴れている日には北アルプスも一望という。

この地は高速道路がとおり、JR篠ノ井線も通るように古くから松本方面と長野方面を結ぶ交通の要衝であった。
古代には東山道の支道が通っていたらしく、伊勢神宮の麻績御厨が置かれていた。
城主の青柳氏も御厨預職であったという。青柳氏の館は、清長寺の地にあったといい、詰めの城としてこの青柳城が背後の山にあった。
戦国時代、青柳氏は守護の小笠原氏に属していた。
しかし、小笠原氏が武田氏に追われると、武田氏に属する。
天文22年(1553)のころらしい。天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると織田氏に一時的に属し、本能寺の変で織田氏が撤退し、小笠原貞慶が故地に復帰すると、再度、旧主小笠原氏に従うが、天正11年(1591)上杉景勝に敗れると、青柳氏も領地を失ってしまう。
その後、小笠原氏が旧地を回復すると、青柳氏も青柳城に返り咲く。
しかし、青柳氏を巡る流転の運命はここで終わらない。
復帰4年後の天正15年(1595)青柳頼長は小笠原氏に謀られて城を乗っ取られてしまいここに武家としての命運がつきてしまう。
この事件の真相は良く分からないが、全く仁科氏の命運と同じなのである。
小笠原貞慶にとっては、先祖がこの地から追われた原因が、家臣の武田氏への裏切りであり、ここに至り彼らを報復のため、粛清したのであろうか。