会田虚空蔵山城(筑北村乱橋、松本市中川(旧四賀村)36.3676、138.0099
峯の城
中腹の尾根にある出城を含めて会田城とも言うが、山頂部の城のみは峯ノ城とも中ノ峯城ともいう。
ここで紹介するのは、山頂部の城、別名、峯ノ城のことである。

↑県道303号線、風越トンネルから南に下った場所、四賀有機センター前から見た虚空蔵山
上田から松本に行くには青木村から青木峠を越える国道143号線、松本街道が古来からの街道である。
この街道を行くと、旧四賀村の中心部会田地区になる。

この北に聳える山が標高1139mの「虚空蔵山」である。
なお、この山の山頂部は東西約400mほどある尾根状の山であり、城の主郭部は最高標高地点(1139m)より若干標高が低くなった西端部(1128m)にある。
南西下の支所(旧四賀村役場)のある会田地区617mからは比高約500mもある。


城に行くにはいくつかのルートがあるが、県道303号線、風越トンネル950m上の風越峠960mから尾根を南西に約1km行くルートを選択した。
どこから登ってもそれなりの比高を登らなくてはならないが、このルートは比較的比高はない方である。

道はないが尾根上を進めば、途中でちゃんとした登山道に合流できる。
なお、風越峠方面からのちゃんとしたというか正規の登山道は、四賀有機センター裏の林道(ゲートを開けて入る。)の途中、36.3679、138.0165 920m地点に登り口がある。

このルートを行くと、東西に長い虚空蔵山の山頂部の東端に出る。
この付近は岩が林立し、南側は絶壁Hである。
尾根の岩場をよじ登りながら西に行くと主郭部であるが、岩が林立した細尾根Gをアップダウンするように進むようなな感じであり、敵がきたらどの岩上もそのまま曲輪となり得るだろう。

明確な堀切は深さ4mのFから出現する。
その西側に堀切Fが続き、鞍部Eを経て、また、細い岩場が続き、深さ3mの堀切を通過すると、深さ4m、幅約10mの比較的立派な堀切Dさらに同規模の堀切Aを経て、ようやく本郭@である。
本郭と言っても10×8m程度の規模に過ぎない。ここからの眺望は抜群であり、北アルプスがくっきり望める。

@城址碑が建つ本郭は狭い。 A本郭東側の堀切越しに見た本郭、遠く北アルプスが見える。 B主郭部西下の堀切。岩屋神社に下る道が延びる。
C城址西端部は岩場になる。左下が居館のある会田地区。 D本郭東2本目の堀切 EDから岩が多い尾根を東に向かうと鞍部となる。
FEの先、東には岩盤を掘り切った堀切がいくつかある。 G山頂部東端部も岩だらけ、それだけで防御できそう。 HGの南側、東側は崖。こっちから攻めれるか?

ここから西は下りとなり、岩の間に堀切や曲輪がある。
本郭から高度で10mほど下ると堀切Bがあり、
竪堀は岩屋神社方面に下る道を兼ねる。
Bの西側は細い尾根が続き、岩場となる。

この城、本郭は小規模であるが、この本郭から南や南西の尾根に多くの出城がある。
それらの総合指揮所がこの城の本郭であったようであり、本郭からは東方向以外の眺望が素晴らしい。
出城群には時間の制約で行ってないが、南斜面を通る林道から行けるとのことである。

北側、筑北村方面。橋は長野自動車道。 南西方向、居館があった会田地区方面。
この先の山の向こうが松本市街地となる。

↑本郭越しに見た北アルプスの絶景。城址碑に隠れている山が常念岳、正面が大天井岳、右橋が燕岳・・・だと、思うんだけど?


松本市のHP等によると、城主は会田氏と言われる。
会田氏は東信濃の滋野氏を祖とする海野氏の流れをくみ、鎌倉時代には会田盆地に入っていたと考えらるという。
ここは上田と松本を結ぶ松本街道沿いに位置し、青木峠を越えて進出したのであろう。
鎌倉時代、会田には麻績や矢原、仁科などともに御厨(伊勢神宮の荘園)が置かれ、会田氏は地頭としてその経営に当たる一方、代々諏訪大社御射山(みさやま)祭の頭役も務めていたらしい。
会田御厨については会田、苅屋原、明科、塔原、田沢の五カ荘からなり、広く犀川右岸までが領域だったと推定されるが、会田宮本に鎮座する御厨神明宮にその名を伝える以外、ほとんど実態はわかっていない。

その後会田氏は、海野氏の一族である岩下氏へと交代し、戦国期は小笠原氏を経て、武田氏の配下となる。
武田氏滅亡後、上杉氏と小笠原氏の抗争が起こるが、深志(松本)の地を回復した小笠原貞慶によってかつて父、長時を裏切った土豪への復讐の一環で滅されてしまう。

虚空蔵山は、名前の通り、修験の山であり、峯ノ城や中ノ陣、秋吉城など、山頂部や山腹の各所に会田氏により、多くの城砦が築かれ、会田地区にあった居館や住民の詰めの城であり、会田城と総称される。
最高部にある峯ノ城は出城群の背後を守るとともに統括する城であろう。(宮坂武男:信濃の山城と館を参考にした。)

会田虚空蔵山城南斜面出城群(松本市中川)
秋吉砦、中の陣城、南西尾根砦

松本市会田地区に虚空蔵山城がある。
山頂にある城「峯の城」には2021年のGWに行った。
虚空蔵山城には南斜面に砦や出城があり、それらを含めて、虚空蔵山城とか会田城と呼ばれているのだが、その時は出城は時間切れで行けなかった。
それから1年、2022年5月8日、「らんまる殿」の案内でリベンジを果たした。
虚空蔵山の南山麓には標高850〜900mにかけて林道が走っており、その途中に案内板がある。
そこを入れば出城群である。

@秋吉砦から下る長大な竪堀 A秋吉砦から下る2本目の竪堀。右側の段々が宗教施設跡。
すぐに秋葉砦から下り降りる2条の長大な竪堀@、Aが目に入り、水場Bがある。
水場から西下に段々状の曲輪が6つ重なる。
南側は竪堀Aで仕切られる。
ここの曲輪の縁には石垣CDが積まれる。
ここは城郭遺構ではなく宗教施設である。
虚空蔵山自体が地名通り、修験の場であり、寺院や宿坊等の施設がここにあった。
B水場である。落ち葉でドブ状態であるが、今も水が湧く。 Cこの石垣は宗教施設のもの。6段の曲輪、全てに石垣がある。 D段々となった曲輪は石垣で土留めされる。ここにあったのは寺か?
E秋吉砦の先端付近の曲輪 F秋吉砦の先端から見下ろした横堀とそこから下る竪堀。 G先端下の横堀から見上げた秋吉砦先端の切岸は総石垣だったようである。

虚空蔵山城は会田氏の詰の城であるとともに、修験道場でもあり、中腹の宗教施設を守る城が東側の尾根にある「秋葉砦」と谷津を介して西側の尾根にある「中の陣城」であるが、当初はもっと簡単なものだったかもしれない。
天正11年(1583)に会田氏は小笠原貞慶に滅ぼされるが、虚空蔵山城は中腹の砦群とともに対上杉用の城として改修されたものと思われる。
秋葉砦は尾根式の城であるが、曲輪Eは南端部分を除いて曖昧である。
南端部の曲輪の切岸は当時は全面石垣Gであったと思われ、崩壊した石が転がる。

その下は横堀Fがあり、ここから先に述べた2本の竪堀@、Aが斜面を下って行く。
特徴的なのは堀に並行して下るのが竪土塁ではなく、竪石塁なのである。
ともかくこの砦は末端部分が特厳重に造られている。
もっとも峯の城がある山頂側を厳重に造る必要性はないのであるが。
この長大な堀と石塁、これは桐原城等、小笠原系城郭によく見られるので、小笠原氏が改修したものと推定される。

水場から虚空蔵山の南下を西側に回り込むと中の陣城である。

北側が土橋状Hになっており、高さ約5mの土壇Iが聳える。
今は土橋状であるが元々は堀切であり、竪堀が両側に下る。
この竪堀も竪土塁ではなく、竪石塁になっている。

土壇も石が多く見られ、石で葺かれていたとも推定される。
土塁の南側が主郭である。
35×15mの広さがある。
西下の腰曲輪から見上げると、主郭周囲も石で補強されており、補強の石積が主郭を一周していたと思われる。
基本的に単郭の城であり、南に下る尾根に小曲輪が展開する。

中の陣城から南西に延びる尾根を下って行くと南西尾根砦であるが、藪である。
ここを訪れるなら冬場であろう。

中の陣城側を堀切で仕切り、尾根沿いに曲輪を構築する。
尾根下部にも堀切、曲輪がある。全長は約200mである。

なお、この砦からの戻りは中の陣城に引き返すのが望ましい。
強引に突っ切るのは止めた方がいいだろう。
我々は先端部から西に下る竪堀を強引に下り、林道に出ることはできたが・・・。
止めればよかった。
えらい目に遭った。

この林道を歩いたのだが、林道沿いにも曲輪ではないかと思われる場所が見られる。
まだ、この中腹斜面には各所に城郭遺構または寺院等の宗教施設跡が存在しているものと思われる。

宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。
H中の陣城の北側は土橋状になっている。堀切があったが埋められている。
両側に竪石塁を伴う竪堀が下る。先には土壇が聳える。
I主郭内は平坦、北側に土壇が聳える。 J西下の腰曲輪から見た主郭の切岸には石が見られる。
本来は前面石垣であったと思われる。
K南西尾根砦東端の堀切 L南西尾根砦2本目の堀切 M南西尾根砦の主郭だが、クソ藪。蛇さんが散歩。来るのは冬に限る。

殿村館(松本市四賀会田)36.3536、137.9930
会田虚空蔵山城の城主、会田氏の平時の麓居館と言われる。
虚空蔵山の南西の山麓、この地区の中心地会田の会田小学校一帯が館跡という。
ここの標高は640m、会田川が南を東から西に流れ、川から比高34mの少し高台になった場所にある。

↑館跡中心部の会田小学校の校庭跡
平成20、21年に発掘が行われているが、中世の石組や建物跡が検出され、かわらけ、土鍋、皿、鉢、壺の他、中国製の天目茶碗、茶壷、青磁等が出土した。
さらに硯や祭事に使う形式や木製品等が出土し、虚空蔵山山麓の寺院と共通する宗教的要素を持つ施設が存在していたようである。
果たして会田氏がここに居住していたのか、決定的な証拠は検出されていないという。
館と言うより、「遺跡」としておいた方が妥当かもしれない。

安坂城(筑北村坂井)
2019年11月23日、勤労感謝の日に「らんまる殿」の案内で訪問した3城目の城である。
安坂城のある筑北村は麻績盆地の東側と西側にかけてが村域である。その間に麻績村が存在する。
非常に変則的な形である。村役場は西側にあり、こちらの東側は飛地状である。
かつて、平成の大合併では麻績村、四賀村との合併も協議されたのだが、締結直前で破断となり、今に至っている。

この地域は東筑摩郡、行政上は松本を中心とした中信に属する。
山を越えれば、長野市を中心とした北信、上田市を中心とした東信なのだが・・・。

↑麻績古城の物見から見た南東方向に位置する安坂城

ここは山間の不便で農業生産性も低い地であるが、JR中央線(篠ノ井線)や長野自動車道が通るように松本と長野を結ぶ交通の要衝である。
これは昔も同じである。山間であるが、土豪が存在し、気合の入った城郭が築かれる。

↑何しろこの城、石積多用の城である。戦国の山城好きにはたまらない。

この安坂(あざか)城もその1つである。
城は麻績盆地東部、上田方面に通じる街道筋にある。
坂井小学校、坂井支所の南約400m、西麓が安坂神社がある裏、西側の標高851mの山(36.4381、138.0632)が城址である。
安坂神社からは比高約200mである。
城址には安坂神社の裏手から道が延びる。
途中、猪除ネットの扉を開けて山に入って行くが、けっこうきつい傾斜である。道はあるようなないような・・・。


↑登城口である安坂神社。
裏手から登る。途中、猪避けの柵を開け、道なき道を登る。

息が切れる頃、中腹の大黒天が祀られた平坦地Kに出る。
ここは繋ぎの砦であろう。
岩を抉ったような大きな穴がある。
古墳の残骸であり、石垣用の石を採取した場所と思われる。
ここから西に延びる尾根を登って行くと、小曲輪K経由し、主郭部に出る。

@主郭部入口の岩盤堀切 A岩盤堀切の上の曲輪から西を見上げると、石積の切岸が。 B岩盤堀切の上の曲輪内部。
CAの切岸の上の曲輪から本郭の切岸を見る。 D本郭内部。西端に土壇がある。 Eなぜか、古墳の石室が・・屋根石がでかい。
F本郭の西下には恐怖の大堀切が・・ G主郭部の切岸を補強する石積。 HFの堀切は竪堀になって豪快に下る。
IFの堀切の西の尾根にはさらに3条の堀切がある。 J東の主郭部に続く尾根上にある繋ぎの曲輪 K尾根途中にある破壊された古墳に祀られる大黒天

主郭部は全長約150m、東端の細長い曲輪の西側に豪快な岩盤堀切@がある。
ここからが主要部である。
ここからは切岸に石積Gが見られ、腰曲輪にも崩落した石が多く転がっているので当時はほぼ全面石積で覆われていたのではないかと思われる。
主要部は3段の曲輪からなり、岩盤堀切の上に約15m四方の曲輪Bがある。

ここには南側の帯曲輪から入る。
さらに高さ7mの切岸Aを経て同じ規模の曲輪C、ここにも南側の帯曲輪から入る。
さらに1段高く20m×16mの本郭Dとなる。
本郭の西側に石積の穴があり、長方形の岩Eが立ててある。
どうやら古墳の石室のようである。
さらに西側が土壇になっている。

この土壇の上に立つと西下におなじみの巨大堀切Fがある。
深さは10m位はあるだろう。南北に豪快に竪堀Hが下る。
堀底から本郭を見上げると、切岸は石積で保護されている。
南に下る竪堀に面して竪石塁が帯曲輪との間に存在する。
ここから西の尾根続きにはさらに3本の堀切Iが存在する。
北下に派生する支尾根にも大きな堀切が存在する。
それほど大きな城ではないが、主要部の遺構のメリハリは素晴らしい。
麻績盆地東部の拠点的な城郭と言えるだろう。

築城は小笠原一族、麻績長親の次男、安坂次郎長国と言われる。武田氏が麻績地方を制圧すると武田家臣の安藤筑後守、加賀守が入る。
武田氏が滅亡し、天正壬午の乱が始まるとこの地は上杉と小笠原の争奪戦となる。
その代理として復帰した服部氏や小笠原氏に再帰順した青柳氏も巻き込まれ、裏切りが多発。
それに巻き込まれた、服部氏や青柳氏は滅亡する。
この時、安坂城にも服部氏、青柳氏が関わっていたりしていたのであろう。
しかし、その詳細は分からない。
(宮坂武男「信州の山城と館」、「らんまる攻城戦記」を参考にした。)

青柳城(筑北村青柳)
うわさには聞いており、いつかは訪れたいと思っていたが、うわさどおり見事な山城であった。
JR篠ノ井線坂北駅の東方1.6km、四阿屋山の尾根が北西方向に突き出した尾根末端、標高905mの城山に築かれた典型的な尾根城。
下から見るとやたら目立つ山であり、この周辺の低地からはどこからでも見える。
中央自動車道もこの山の周囲を大きくカーブするように通っている。
低地から見るととんでもない山に見えるのであるが、実は車で城址まで行けるのである。
城の館があった清長寺の大手口から40分かけて登ることもできるようであるが、車で行けるのでこの道を登る人は少ないであろう。

坂北小学校付近から青柳城址公園という標識に従って車を走らせれば良いのである。
この車道は城山のかなり南側を迂回するが、城背後の開拓地に出る。
その北端が公園であり、駐車場が完備している。
この駐車場が城の搦手口であり、城址はここから北西の尾根400mに渡って展開する。

しかし、背後にこんな広大な平地があることは想像もしなかった。
この平地は開拓地なのである。
城の入り口には、櫓門が復元されている。
訪れた日は12月の午後3時、もう薄暗くなり始めている。おまけにここは標高900m。雪がちらほら舞っている。
そんな最悪のコンディションの中、城址をいそいで走りぬけた。
ここから尾根は下りとなり、100mほど行くと巨大な二重堀切がある。


その間に小さな堀切があったらしいがよく分からない。
二重堀切は、幅は30m以上、深さは6mほどある。斜面は竪堀になっているが、自然の谷をそのまま利用したように思える。
二重堀切の主郭側、郭Zには櫓台跡のような高まりがある。
この先を60mほど行くと岩盤堀切となる。
途中に2つの小さな堀切があるが、明瞭ではない。
岩盤堀切の北に長さ30mほどの郭Yがあり、また、二重堀切となる。
ただし、この堀切の南側の堀切は小さい。主郭側の堀切は巨大である。
そしていよいよ主郭部である。
まず五郭(X)であるが、堀切側に土塁を置く15m四方の平地が2つ連続した郭に過ぎず、
小さな堀切を介して四郭(W)となる。五郭(X)の二重堀切側切岸には石垣が残っている。
この郭も長さ15mほどに過ぎなく、下って三郭(V)である。堀底のような郭である。
真ん中に木戸が復元されている。清長寺からの登る道はここに出る。
西側坂北駅付近から見た城址。
右下に居館跡の清長寺が見える。
駐車場に車を止めるとこの門が
出迎えてくれる。
上の図の右上端に当たる
郭Z南側の二重堀切。 左の二重堀切を郭Z側から見て
いるのだが余り迫力が伝わらん。
郭Y、Z間の堀切には石が
ごろごろしている
かつては石垣造りか?
郭Yから郭X方面を見る。
この間に二重堀切がもう1つある。
郭X南側の二重堀切に面した土塁。 木戸が郭V、その向こうに
郭Uと本郭が見える。
本郭の東側は石垣造りである。 本郭の北の先端から見た郭内。 本郭からの北方向の眺め。
道路は中央高速長野線。
青柳氏の居館があった麓の清長寺。

清長寺から登る大手道の途中の斜面に帯曲輪が20程度あるという。
主郭はこの北、2段にわたり、二郭(U)、本郭(T)と続く。本郭は長さ50mほど、幅は15mほど、南北に土塁がある。
本郭の先端に立つと眼下に高速道路や麓の民家が手に取るように見える。晴れている日には北アルプスも一望という。

この地は高速道路がとおり、JR篠ノ井線も通るように古くから松本方面と長野方面を結ぶ交通の要衝であった。
古代には東山道の支道が通っていたらしく、伊勢神宮の麻績御厨が置かれていた。
城主の青柳氏も御厨預職であったという。青柳氏の館は、清長寺の地にあったといい、詰めの城としてこの青柳城が背後の山にあった。
戦国時代、青柳氏は守護の小笠原氏に属していた。
しかし、小笠原氏が武田氏に追われると、武田氏に属する。

天文22年(1553)のころらしい。天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると織田氏に一時的に属し、本能寺の変で織田氏が撤退し、小笠原貞慶が故地に復帰すると、再度、旧主小笠原氏に従うが、天正11年(1591)上杉景勝に敗れると、青柳氏も領地を失ってしまう。
その後、小笠原氏が旧地を回復すると、青柳氏も青柳城に返り咲く。
しかし、青柳氏を巡る流転の運命はここで終わらない。

復帰4年後の天正15年(1595)青柳頼長は小笠原氏に謀られて城を乗っ取られてしまいここに武家としての命運がつきてしまう。
この事件の真相は良く分からないが、全く仁科氏の命運と同じなのである。
小笠原貞慶にとっては、先祖がこの地から追われた原因が、家臣の武田氏への裏切りであり、ここに至り彼らを報復のため、粛清したのであろうか。