高遠城(伊那市高遠町)
伊那谷のメインストリートから離れた高遠、小さい町だけど、結構、知名度は高い。
今は合併で伊那市になってしまったけれども、「伊那」という地名より「高遠」の方が有名だろう。
高遠と言えば、まずは桜の名所、小京都の町並み、会津松平家である保科家の居た所(出身地の地は、長野市若穂)、仁科盛信の終焉の地そして絵島が流された地、色々、話題に事欠かない地である。

山間の小さな町が色々な場面で登場してくるのは、この地が交通の要衝であるからでもある。
この地から北に向けて杖突街道(国道152号線)を行くと諏訪。西は伊那に出て天竜川沿いに三河、権兵衛峠を越えると木曽、南に青崩峠を経て遠江と交差点となる地である。
その高遠城は高遠の町を西に見下ろす標高800mの兜山に築かれている。

一応、日本百名城の1つなのである。
桜が理由なのか、歴史が理由なのか分からないが、百名城に相当するような城なのか、少し疑問ではあるが・・・。
まあ、百名城の中にそういう城、多い。
この兜山は北を流れる藤沢川と、南を流れる三峰川との合流点の崖上にあり、三方を深い谷に囲まれている。
城下の三峰川の水面の標高が730mなので比高は70mもある。

山城並みである。東側を防御すれば何とかなる要害の地にある。諏訪一族の高遠氏の城として築かれたと推定されるが、その時期は良く分からない。
高遠氏は武田晴信にそそのかされて、本家の諏訪頼重を攻撃し、天文11年(1542)諏訪頼重を上原城に攻め、降伏させて滅亡させる。
多分、本家を継がせるとかいって、そそのかされたのであろう。単純な田舎者である。
でも、本家の諏訪領はバッチリ武田氏のもとのなり、騙されたことに気がつく。
そこで信玄に対して、天文14年(1545)に反逆。これは信玄の思う壷、高遠(諏訪)頼継の居城、高遠城は直ぐに攻略され、追い出されてしまう。
この高遠を手に入れた信玄は、伊那侵略の拠点にすべく高遠城の拡張整備を行う。
これを担当したのが、山本勘助というが、多分、これは後世の創作だろう。
ここを拠点に伊那谷への侵略が行われ、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略し、伊那谷をほぼ制圧する。

元亀年間以降、武田氏の侵略の矛先は、さらに南の遠江、三河、美濃方面になるが、この高遠城はその兵站基地となっていたものと思われる。

しかし、長篠の敗戦以降、武田氏が守り側となり、高遠城は本土、甲斐防衛の拠点に位置付けられ、武田勝頼の弟、仁科五郎盛信が置かれる。
もっとも信頼できる弟をこの城に置いたことが、勝頼がこの城を重視していた証拠であろう。
なお、盛信は信玄の五男で、投降した仁科盛政を殺害し、仁科家を乗っ取り、仁科家の跡目を継いで仁科五郎盛信と名乗った人物であり、当初は大町の森城に居て、糸魚川方面の上杉氏に備えていたという。
多分、御館の乱の時の上杉氏との和解により、備える必要がなくなり、高遠に転出したのだろう。

天正10年(1582)3月、織田軍の武田領が行われ、高遠城が攻撃される。
しかし、多勢に無勢、わずか1日で落城、盛信は自害する。その9日後、武田勝頼は、天目山で自刃し、武田氏は滅亡する。
この時、城兵3000人が玉砕したことになっている。
しかし、これは怪しい。3000もの兵力があり、それなりの将が統率していたのなら、この要害の城が1日で落ちることは有りえない。
仁科氏の故地、大町では家臣が皆、逃げ戻っていたらしい。
どうも、仁科氏の家臣のほとんどは逃亡し、城兵は少なかったらしい。
こんな状態ではいくら堅城であっても、戦闘にならない。

結局、玉砕したのは甲斐出身の者を中心にした連中だったようである。
そりゃ、乗っ取った傀儡の殿様の実家に係ることに巻き込まれて、命を落したら大損だ。そんな義理はねえ。
似たことは秀吉の攻撃を受けた北条氏支配下の関東の城でも多く見られている。
占領地では一般的に良く見られることだろう。
落城後、城は織田氏のものとなるが、わずか3ヶ月後、織田信長が本能寺の変で死ぬと、潜伏していた保科正直が城を奪回、以後、徳川家康に従い、正直の子正光は下総国多胡で10000石を与えられる。

さらに関ヶ原の戦いの後、高遠に復帰し25000石を、更に大坂の陣での戦功により30000石に加増される。
正光の養嗣子が、保科正之である。知ってのとおり、彼は二代将軍徳川秀忠の庶子で、1636年(寛永13年)に出羽200000石、さらに会津に移り、幕末まで続く。
なお、会津では「徳川家御家門」として松平姓に改めている。
一方、正光の実弟で正之を養嗣子としたため、廃嫡となった正貞は上総国飯野藩主として保科氏の名を残している。
その高遠城は保科氏が去ると鳥居氏を経て、内藤氏が33000石で入り、幕末まで続く。その途中で絵島を預かることになる。
居城としては高遠城を継続して使用していた。

江戸時代の高遠城は、縄張は戦国時代とは大きく変わっていなかったらしい。
ただし、本丸には御殿と天守代用として三層の辰己櫓があったという。
また、城門は枡形虎口形式の櫓門であり、長大な長塀に囲まれていたという。

明治4年、廃藩置県で高遠城は取り壊しとなり、城内の樹木は競売にかけられ売り払われ、城址は荒廃していた。
これを見かね明治9年、旧藩士たちが城跡に桜を植樹し、城下町にあった門を移すなどして公園として整備し、さらに高遠高校の敷地となるが、高遠高校は移転する。現在は一躍、桜の名所である。特に、ここにしか咲かない1,500本のタカトオコヒガンサクラ(サクラの一種)が咲き乱れ、城は赤みを帯びた鮮やかな桜色に包まれ、春の観桜シーズンには「高遠城址公園さくら祭り」が催され、全国から大勢の花見客が訪れる。
青空と残雪が残るアルプスの山々をバックした桜の花、確かに絵になる光景である。しかし、桜のシーズンの高遠城、凄い混雑でとても近づけるものではないとか?

@大手門があった場所 A移築された大手門 B勘助曲輪の堀は埋められグランドになっている。 C三の丸西側の曲輪内
D三の丸に建つ藩校進徳館 E二の丸北の三の丸間の堀 F二の丸北東に建つ高遠館 G二の丸東側の土塁
H二の丸東の三の丸間の堀 I 三の丸南側の堀 J二の丸、本丸、南郭間の堀 K宝憧院曲輪内
L宝憧院曲輪、南郭間の堀底 M本丸に建つ鐘楼 N本丸東の土塁 O本丸入り口の問屋門と桜雲橋

高校があったため、本丸北側の堀は埋められ、勘助曲輪Bはグランドになって整地されている。
しかし、法憧院曲輪、南郭、二の丸、本丸と周囲の堀は良好な状態で残されている。いずれも幅は30mほどある。
堀底はかなり埋もれているようであり、本丸周辺の堀底は遊歩道になっているので、かなり埋まっているのであろう。
現在、高遠城へは車で東側から本丸下の勘助曲輪跡であるグランドまで上がることが出来るが、この道、結構狭いので怖い。
この道が大手門と言っているが江戸初期は大手は東側にあったという。
城の東側は武家屋敷があったようであり、城下からは城の北側を大回りして、城の大手に入ったらしい。
崖面に沿って南から法憧院曲輪、南郭、二の丸、本丸が並ぶ。法憧院曲輪は80m四方、南側に搦手門がある。
その北の南郭は100m×80m、南東端に櫓台が残る。
本丸は120m四方で南西端に櫓台があり、3層の天守相当の櫓が建っていたという。
東側の二の丸側には土塁が覆う。二の丸は南郭、本丸の東側を覆い
300m×100mの広さがあり、東側に土塁がある。本丸の北側を勘助曲輪となって覆う。
さらにその外側を三の丸が覆う。三の丸はかなり改変を受けたりしてかつての姿は失われている。

高遠閣
高遠城二の丸に建つ昭和11年に建てられた木造2階建、鉄板葺、建築面積790uの建物で平成14年8月21日登録有形文化財(建造物)となっている。
伊藤文四郎の設計で 集会場及び観光客の休憩施設として建設され、鉄板葺、入母屋造の大規模な造りで、千鳥破風,唐破風などを備えつつも、内部・開口部・車寄せなどに近代的要素を示すという。

進徳館
高遠藩の藩校、万延元年(1860)、最後の藩主内藤頼直によって、城内に開設された学問所。
頼直は江戸の昌平黌で学んだ地元出身の「中村元起」を招き創立したが、それ以前、高遠には荻野流砲術師範で行政家の「坂本天山」がおり、200名近くの門弟がいて文武に渡る教育が行われており、それがベースにあったという。
創始者の中村元起もその門弟の一人という。
財政難で新たな建物の建設ができなかったため、三の丸にあった家老の空屋敷を改造して使用。
藩士の子弟らが朱子学・漢学・医学・和学・算学・洋学などを学んだほか、馬術・剣術・柔術・砲術・西洋式教練なども行った。
1871年(明治5)の廃止までに500人の生徒が学び、多くの教員、学者や政治家を輩出、この地や日本の近代化に大きく寄与したと評価されている。
現在も建物の一部が残り、聖廟には孔子ほか四聖人が祀られている。
この藩校のモデルは水戸藩の弘道館だろう。
その弘道館の生徒、ほとんどが水戸藩内の天狗党・諸生党の内ゲバで命を落し、明治を迎えた時、水戸を始め、茨城を指導できる人物が残っていなかったとか。これにより茨城は100年間、他府県より遅れをとったと言われる。
残念ながら事実だろう。