松尾城(飯田市松尾代田)
飯田市街地南部にある飯田鈴岡公園の北側が松尾城である。そして毛賀沢川を挟んで南側が鈴岡城である。
松尾城は松尾小笠原氏の本城、鈴岡城は鈴岡小笠原氏の本城、小笠原3家のうちの2氏の本拠が沢を挟んで並んでいるのは驚きである。
両氏はある時は協力し、ある時は対立するが、対立時はこんな至近距離でいったいどんな雰囲気であったのだろうか?

松尾城に行くには2通りある。
1つは国道153号線、名古熊東交差点から南下し、標識に従い松尾城の二郭にある駐車場に行くコースであるがこの道は狭いので迷いやすい。
カーナビを使用するのが望ましいだろう。
もう1つは南の鈴岡公園の二郭にある広い駐車場に車を置き、鈴岡城の本郭、出丸を通って毛賀沢にかかる橋を渡るルート、もちろんこのルートは徒歩である。
でも、このルートを使う人、どれほどいるのか?俺だあ!

松尾城は長さが約600mほどあり、さらに三菱電機飯田工場の北側の丘一帯約700mに及び全体でL型をしている。
毛賀沢川と北の沢川に挟まれた尾根状の丘の末端部に位置する。

なお、毛賀沢川の谷は深いが北の沢川の谷は三菱電機飯田工場北側では水田の中を流れる用水路程度の浅いものになってしまう。
このうち公園化しているのは本郭とその北側の二郭のみである。

それ以外、三菱電機飯田工場の北側の丘一帯Jは宅地になっており、本郭の南側、西側は藪状態、南端の低地部は水田になっている。
公園駐車場のある二郭は3段になっており、南側が一段高く「クラヤシキ」という曲輪B、ここは100m×50mの広さがある。
名前の通り、倉庫群が置かれた場所であろう。

@本郭(右)、二郭間東側の堀跡。 A本郭内部。公園になっている。

そのから一段低い場所が駐車場、さらに東側が「城畑」H、当時も畑だったかは分からないが、薬草園を持つ城があるので薬草園かもしれない。
現在は何と水田である。

この二郭の南北に堀がある。
北側Fは完存するが、南側、本郭側は中央部が埋められているが東西部分@、Fは残存する。
これらの堀は斜面部では竪堀になる。

Bニ郭の中心部「クラヤシキ」 C二郭と三郭間の堀跡。 D本郭南下の堀切、大洞という竪堀になって西に下る。
E城の南端、サカヤシキは水田と畑。
 腰曲輪が棚田になっている。
F本郭、二郭間西の堀は竪堀となる。
右に分岐した先が「本城」という場所になる。
G本郭から西に突き出た曲輪内部。

二郭から5mほど高く本郭Aとなる。70m×50mほどの広さがある。
標高は488m、西下に帯曲輪があり、さらにその下に「本城」という場所がある。
ここは何と民家である。ただし、空き家であるが・・。
ここが城主の居館なのか?確かに北風は防げ、日当たりは良好ではあるが。

一方、本郭の東下に帯曲輪があり、そこから東下は約15mに堀切と土橋Dがあり、ここから南に「大洞」という巨大な竪堀が下る。

Hニ郭東の「城畑」は水田になっている。 I北西端の「御霊屋」には墓地があったのか? J北側の高台、古城地区には家臣団の屋敷があった。

堀切Dから小曲輪を経て、堀切が2本、その先に小曲輪が連続する。
その間を遊歩道がジグザグに下るが、蛇さんがお散歩するような道である。

そこを下ると農道があり、南に行くと「サカヤシキ」Eという平坦地となる。
「坂屋敷」と書くのだろう。
ここは水田と畑である。
150m×100mの広さがあり、周囲は急傾斜である。
隠れ屋敷のような場所である。腰曲輪はそのまま棚田になっている。
ここの標高は423m、本郭からは比高65m下となる。
農道を西に戻ると本城を通って、本郭北の堀底道につながる。

なお、この堀底道は本城に分かれる部分で分岐し、1本は鈴岡城との連絡橋のある場所に出る。
分岐部の尾根には曲輪Gがある。

一方、二郭の北側の堀Cを介して三郭であるが、畑である。
その西側は少し高く「御霊屋」Iという場所になる。ここは墓地なのだろうか?
標高は495mと本郭より若干高い。

ここから東に丘が続き、「南古城」「北古城」「元本城」等の地名がある。
この地区Jは南側が段々状になっており、宅地になっている。
ここには家臣団の屋敷があったという。
(日本城郭大系を参考にした。)

鈴岡城(飯田市駄科)
小笠原3家の1つ、鈴岡小笠原氏の居城である。
松尾小笠原氏の本拠、松尾城とは毛賀沢川を挟んで隣どうしの関係にある。

現在、両城合わせて松尾鈴岡城址公園となっている。
しかし、両城は同じ公園であるが、毛賀沢川の谷にかかる1本の灌漑用水管に併設した歩行者専用の橋でつながっているだけである。
その橋まで下るのがけっこう大変であり、あまり利用されている感じではない。
したがって、実際は2つの独立した公園と言った方が良い。

南側の鈴岡公園は松尾城址公園に行くのに比べると迷うことはなく、県道444号線から車で二郭まで直接、行くことができる。
公園の範囲は約300m四方であり、芝生が貼られ、きれいな状態で管理されている。(ただし、出丸は藪状態)


城は北西方向から南東の天竜川方向に毛賀沢川と伊賀良川が流れ、その2本の川が侵食した谷に挟まれた尾根状の台地の末端部を利用している。

台地の先端部、標高489mの場所に本郭を置き、本郭の東は比高約50mの急斜面である。
本郭の南から西側を二郭がL型に覆う。
さらに本郭の北側を出丸が覆う。いわゆる梯郭式城郭である。
@本郭内部、西側に土塁がある。
A本郭(左)南側の巨大な堀。

本郭@は100m×80mの広さを持ち、西側に低い土塁を持つ。
ここには城主の居館が置かれたのであろう。

本郭の東側以外を幅約30m、深さ約8mの見事な箱堀A、Bが囲む。
二郭Dは一辺約120mの規模を持ち広大である。
ここには政庁、客殿があったのではないかと思われる。
さらに二郭の西は幅約30mの堀を介して、的場という名の馬出のような外郭がある。
40m×100mほどの規模を持つ。南下には横堀と腰曲輪Eがある。
さらに下にも腰曲輪が存在する。

B本郭西の堀、先は竪堀になって毛賀沢川に下る。 C二郭から堀越しに見た本郭南西端。 Dニ郭内部は公園、遠く南アルプスの山々が見える。

一方、本郭の北側、松尾城側には堀を介して出丸がある。
広さは一辺約35mの三角形をしている。
ここから北側の毛賀沢川までは比高約60mを測る。
その急な斜面を連絡橋に通じる小道がジグザグに付いている。
この斜面に豪快な竪堀Kが数本下っている。
松尾城との間に緊張状態があった時期が存在したというが、それを感じさせる。
ここまでが公園の範囲である。

Eニ郭南下を覆う横堀と腰曲輪 Fニ郭西の的場間の横堀。 G二郭西の的場、馬出といった印象である。
H的場の西には大きな堀がある。 I的場北の「荒小屋」藪状態だった。 J西は高くなって行く。現在は畑である。こちらが大手。
何故か「本城」というが家臣団の屋敷があったらしい。
二郭西側の的場Gとの間の堀Fは南側に回り込み、さらに東側を下って行く。
的場の北側には荒小屋が、幅約30mの堀Hを介して、西側が本城J地区となる。

本城地区は畑になっており、主郭部より標高が高くなる。
この地区は家臣団の屋敷があったのではないかと思われる。
しかし、本城の方が主郭部より高い。
また、名前の何故か「本城」である。
初期の城、主体部はこちらの方面にあったのではないだろうか。
本城をさらに北西に行くと門跡のような場所があると言う。
この道が大手であり、家臣団の屋敷も城域に入っていたようである。

ここまで含めれば600m×300mの範囲が城域になる。
明応2年(1493)、鈴岡小笠原氏は滅亡してしまうが、その後は松尾城の支城として使われたという。

(日本城郭大系を参考にした。)

K出丸北下、松尾城側の斜面には巨大な連続竪堀がある。


小笠原氏
小笠原氏の出身は甲斐国巨摩郡の小笠原牧や山小笠原荘があった現在の山梨県北杜市明野町小笠原と、原小笠原荘があった現在の山梨県南アルプス市小笠原と言われる。
武田氏と同じ源氏であり、武田氏が嫡流であり、傍流である加賀美氏流の出と言われる。

しかし、武田氏以上に全国各地に広がり、各地に小笠原氏やその支族が存在する。
その祖が小笠原長清であり、高倉天皇に仕えた加賀美遠光の次男として甲斐国に生まれている。

長清は『平家物語』に「加賀美小次郎長清」の名で登場し、遠光の所領である甲斐小笠原を相続し、地名を姓にして小笠原氏を名乗る。
ちなみに南部氏の祖である南部光行は長清の弟である。

元暦2年・寿永4年(1185)に、源頼朝から信濃守に任ぜられ信濃に移るが、鎌倉時代はどうやら小笠原氏の惣領は京都に住んで六波羅探題で評定衆を務め、信濃の所領は親族が管理していたと思われる。
鎌倉時代遺構、一族は信濃各地や、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がる。
小笠原貞宗の代に鎌倉幕府が滅亡するが、足利尊氏に従い、建武元年(1334)、建武政権より信濃守および信濃守護に任じられ、現在の松本に井川館を築く。
さらに北朝側に立ち、北条時行、諏訪氏や仁科氏等の南朝方の勢力を駆逐し、室町幕府より信濃守護に任じられた。
南朝方の拠点であった伊那地方を平定し領地を得る。

応永7年(1400年)、あのバカ殿、小笠原長秀(長基の次男)が信濃国守護に任じられ、京より入国し、強圧的な統治を始める。

これに対して信濃国人衆の村上氏、仁科氏、諏訪氏、滋野氏、高梨氏、井上氏などが反発し、背後に幕府と対立する鎌倉公方の動きもあり、大塔合戦に発展、大敗した長秀は京都に逃げ帰り、守護職を罷免された。
しかし、長秀の弟の小笠原政康が応永32年(1425)に信濃守護職に返り咲く。
大塔合戦の後遺症は残り、小笠原氏が守護職に復帰した後も村上氏や諏訪氏ら信濃国人の独立性は高く、守護権力は弱いままであり、小笠原氏は国人衆より若干勢力が大きい程度の存在でしかなかった。

結局、これが信濃が中小戦国大名が乱立し、国内を統一した戦国大名が産れず、先に国内を統一した甲斐武田氏の侵略により各個撃破され領土化されてしまう原因となる。

守護復帰した小笠原政康は、鎌倉公方攻撃の先兵となり信濃国内、甲斐国、武蔵国を転戦する。
ところが嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で将軍足利義教が暗殺されると、長秀の兄、小笠原長将の子の小笠原持長との間に家督争いが起き、文安3年(1446)に政康の子小笠原宗康を漆田原の戦いで戦死させ国府を奪い府中小笠原氏を起こす。
しかし、宗康は伊那郡伊賀良荘の松尾小笠原氏である弟の小笠原光康を後継者に定めていたため、府中小笠原氏と対立関係となる。
さらに府中を追われ、光康の元に逃れた小笠原政秀(宗康の子)が鈴岡小笠原氏を起こしたため小笠原氏は3家に分裂した。

鈴岡小笠原氏の政秀は、府中小笠原清宗(持長の子)から府中小笠原長朝(清宗の子)を追い、府中を奪還し小笠原3家を統一し、文明5年(1473)には信濃国守護に任ぜられた。
松尾小笠原氏の小笠原家長(光康の子)は鈴岡小笠原政秀と一時は共闘するが、文明12年(1480)、政秀と対立して合戦となり戦死した。
しかし、家長の子松尾小笠原定基は明応2年(1493)に政秀を暗殺し、ここに鈴岡小笠原氏は滅亡する。

鈴岡小笠原氏の滅亡後も松尾・府中両小笠原氏の争いが続き、天文3年(1534)松尾小笠原貞忠が府中小笠原長棟(貞朝の子)や鈴岡小笠原氏の支族の下条氏に攻められて松尾城が落城し、甲斐国に逃亡し、武田氏に仕え、天文23年(1554)、松尾小笠原信貴(定基の子)・小笠原信嶺父子が武田氏の伊那侵攻で信濃先方衆として活躍し、松尾城を奪還する。
小笠原信嶺はその後、武田氏滅亡後、織田信長に従い、本能寺の変の後、徳川氏の家臣となり、江戸時代武蔵国本庄城で1万石の大名となる。
その後、古河、関宿、高須を経て、越前国勝山2万2000石に移り、明治維新を迎える。旗本となった者もいる。

一方、府中小笠原氏は小笠原氏の統一を果たした長棟の没後、跡を継いだ長時の代に武田氏の侵略を受け没落し、京の三好氏の元に逃亡し、さらに会津へ移る。
結果論であるが、長時の評価は低い。戦国大名として未熟段階で武田信玄の侵略を受けてしまったことが、長時の不幸であった。
本当はどの程度の能力があったかは分からない。
ただし、山岳ゲリラ戦で長期間にわたり武田氏に抵抗をしており武田氏も辟易していたところがあり、意外と能力は高かったのかもしれない。

長時の3男の貞慶は徳川家康に仕え、武田氏滅亡後、小笠原旧臣の支援を得て深志城を奪還する。
貞慶は後に豊臣氏に接近し徳川氏に反逆するが、子、秀政が徳川家臣に復帰、天正18年(1590)には貞慶の長男・秀政が下総古河3万石を与えられ、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し功を上げ、翌年の慶長6年(1601年)には信濃国飯田5万石に加増の上で転封となる。
慶長18年(1613)松本8万石に復帰するが、秀政と長男の忠脩が大坂夏の陣で討死し、秀政の次男の忠真が家督を相続し、その弔い料として播磨国明石10万石に加増される。
こういう点では徳川家康は立派である。さらに寛永9年(1632)に豊前国小倉15万石に転封となり明治維新を迎える。

また、秀政の三男の忠知には豊後国杵築4万石が、忠脩の長男の長次には豊前国中津8万石、忠真の四男の真方が小倉新田藩1万石の大名となる。(Wikipediaを参考にした。)
ともかく、波乱に富んだ一族であるが、長秀、貞慶のようなキ印が家を潰しかけたものの、府中小笠原氏が大名家4家、松尾小笠原氏も大名として残ったため、結果として幸運な一族であったと言えるであろう。
(Wikipediaを参考にした。)