大島城(松川町大島)
多くの城関係の本において、武田氏の代表的城郭として紹介される城として有名。
牧野島城、田中城、諏訪原城などとともに武田流の丸馬出と三日月堀が見られる。
その中でも特にこの大島城のものは豪快である。

城は天竜川を望む西岸の崖上にあり、川面からは40mほどの比高がある。
現在は「台城公園」として整備されている。

もともとここには、平安時代の末、源氏の流れを組む片桐兵庫助為行が、八男片桐八郎宗綱を置き、大島氏を名乗り、大島氏が築いた城の1つであったという。
戦国時代、武田氏はこの地を狙い侵略を重ね、天文23年(1554)、ほぼ伊那一帯を制圧する。

当時の支配拠点は飯田城であったが、ここから三河地方に進むための新たな拠点を造るため、元亀2年(1571)、伊那郡代秋山信友に命じ、この大島城の改修整備を行った。
この時、下伊那19の郷民と2衆を城普請の人足として強制的に動員した事を記す武田氏の朱印状が残る。

当初の城は本郭のみの城、あるいは二郭付近までだったようであるが、この改修により、西に曲輪を増設し、堀を拡張したのであろう。
勝頼の代になり、長篠の敗戦以降は武田氏は守勢にまわる。
このため、大島城は侵攻拠点から、伊那地方の防衛拠点に位置付けが変わる。
この大島城で織田軍を食い止め、背後を武田本軍が攻撃するという後詰決戦を考えていたようである。

ついに天正10年(1582)織田信長が武田領に侵攻する。
この時、織田軍は木曽氏を寝返らせ、木曽を経由し、鳥居峠、権兵衛峠方面から伊那地方に侵入するという武田氏の防衛構想の裏をかく機動攻撃を行う。

当時、大島城には信玄の弟、信廉が守っていたが、背後を絶たれると防衛構想は破綻。
このため、城を放棄して撤退したという。

この経緯は第二次世界大戦のドイツ軍によるフランス侵攻と良く似る。
この時、ドイツ軍はマジノ線を攻撃せず、手薄なアルデンヌの森を突破、マジノ線の背後にまわりマジノ線を自落させた。
もちろん、この例えにおいてマジノ線が大島城である。

この大島城で戦いが行われた場合、守る将と兵に戦意があれば、そんなに簡単には落せる城ではない。
この城の工事量は膨大であったと推定されるが、結局それもまったく無駄になってしまった訳である。

大島城放棄後、ここには織田信忠や織田信長も立ち寄ったようだが、この城に係った武田勝頼、信廉ともに彼らも非業の死を遂げており、呪われた城か?
何らかの因縁を感じさせる。

その大島城は天竜川に向かって西方から緩斜面が下って行くが、その末端部にある。
これは天竜川の水運を利用した物資、兵員の輸送を考えてのものであろう。
川沿いに船付き場があったと思われる。
この点では侵攻拠点としての物資集積基地としての性格が見て取れる。
上流にある飯島城がその中継所であろう。

@丸馬出の堀。堀底に土塁がある。 A三郭外側の堀 B三郭の土塁は2段構造
C二郭と三郭の間に馬出がある。
写真は馬出外側の堀。
D馬出と三郭を繋ぐ土橋 E二郭外側の堀
F二郭虎口の土壇 G本郭と二郭の間の壮大な堀 H 本郭内部は広い

城は北と南が崖状であり、西側の方の地勢が高くが台地に続くため、この方面への防御が厳重である。
このため、最外郭に巨大な丸馬出と三日月堀が存在する。この三日月堀@、幅が30mほどある。
かなり埋まっているが、堀底にも土塁がある。
多分、堀底の土塁上に柵があったと思われる。馬出も半径60mほどの巨大なものであり、中は民家の敷地である。
不思議に思ったが、この馬出、外周に土塁がない。
鉄砲が主力の時代に土塁がなければ狙い撃ちにされる。民家の敷地にした時に崩してしまったのか?

この丸馬出の東側が堀Aを介して三郭である。200m×100mのL形をしている。西側に土塁があるが、土塁が2段Bになっている。
その東に幅20mほどの深い堀Cを介して馬出があり、細い土橋Dがきれいに残る。
この馬出は台形の馬出であり、三郭の内側に増設したものという。三郭内に侵入した敵を狙撃する陣地といい、三郭内に死角はない。
しかし、不思議なことにここにも遮蔽体の土塁はない。
似た感じの小形の馬出が三郭の北、北西側にも存在する。
この馬出のさらに東が巨大な堀を介して二郭である。

この間は木橋だったようで二郭側に枡形が残る。この堀の深さ、二郭北側Eで10m以上はある。まるで谷である。
二郭は西側に土塁Fがある。内部は120m×100mのL形をしており広い。
その東が本郭であるが、その間の堀Gもまるで谷である。多分、自然の谷津を拡張したものであろうが、幅は60mほど、深さは15mくらいはあるだろう。
堀底に一度、下りて本郭に入るようになっていたようである。

本郭Hは直径80mほどか。西側のみに土塁がある。北から東、そして南にかけて眼下を天竜川が40mほど下を流れる。
内部は完全に公園化しており、マレットゴルフ場になっているが、休日の良い天気なのに誰もいない・・・。
解説によると、城内からは建物の礎石や雨落溝の石列、陶磁器や古銭、焼米等が発見され、井戸跡には落城の際お姫様が身を投げたという悲しい伝説も伝えられているという。

福与城(松川村生田)
飯田付近で最も有名な城は、武田氏が伊那地方の防衛拠点として整備した大島城であろう。
福与城は大島城からは天竜川対岸、東岸を通る県道18号線を約1q北上した場所にある福與三柱神社の北側を東の山中から西の天竜川に向けて流れ下る宮沢川の沢を介して北側の丘の西端にある。
標高は487m、県道からの比高は約20mである。

川と平行して通る道の脇に標柱Bがあり、橋があり、その先の竹林の中に丘上に登る道が付いている。

その道を登って行けばいいのであるが・・・
虎口から見た曲輪内、そこはド藪状態で侵入不能。
まったく管理はされていない。
土塁は虎口付近に存在することは確認できたが。

C これが曲輪内部である!入りようがない!

山続きの東側と北側を堀Aで遮断しただけの単郭の城である。
東側の堀の南側の出口部は確認できるが、堀内部も藪状態であった。

西側は急坂であるが、崖崩れを心配したのであろうコンクリートで固められ@味気ないものになっている。
@城址南側、崩落を懸念してかコンクリートで固められている。 A城址東側、堀底には豚小屋の廃墟が・・ B城址登り口には標柱と解説板が・・でも行っても・・

山に続く東側からは内部が丸見えであり、戦闘は考慮している感じはない。
堀1本のみの最低限の防御機能を施しただけのものである。
城の規模、場所からして大島城の物見、狼煙台の1つではないかと思われる。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)

大草城(中川村大草)
天竜川の東岸を伊那街道、県道18号線が走る。
大草城は県道を西に見下ろす東の高台にあり、城址公園になっている。
北約600mが中川村役場である。

この公園からは北西の木曽駒ヶ岳の眺めが素晴らしい。↑
公園化ということでどうなっているのか興味があったが、曲輪の位置は変えていないが、堀は埋められ、公園だけを見た限り、ごく普通のどこにでもある公園である。
元は城址だったことを知らずにここに来て、城址と分かる人はほとんどいないのではないかと思われる。
多分、管理人も城址とは気が付かないかもしれない。

本郭(本城)A部分は一段高くなっているが、内部は城址を伺わせるものはない。普通に公園である。
直径約50mの大きさである。

本郭の西側、西郭Bとの間に「西の堀」があったが堀は埋められ通路になっている。
南に帯曲輪と竪堀もあったが、竪堀は通路になっている。

西郭Bは東西約80m、南北約50mの広さ、ここには居館があったというが、芝生を張った公園である。
でも、内部はそれほど平坦ではない。緩やかに傾斜している。
工事に伴うものの可能性があるが、ちゃんとした建物があった感じはない。

この曲輪の北側、西側は鋭い谷Cになっている。
ここが一番城らしい雰囲気がある。
この急斜面ならこちらの方面からの攻撃には万全だろう。


主郭の北側には「北の堀」@があったが、ここも埋められて通路になっており、その北の「外郭」と言われる場所は駐車場になっている。
外郭自体は約35m四方の広さであったらしい。
東側が山に続き、この城の一番弱い部分である。
こちらの方面にも堀があったらしいが、埋められている。

@ 本郭北側には堀があったが埋められている。 A 本郭(本城)内部。ごく普通の公園である。 B 居館があったという西郭、それにしては凸凹。
←C 西郭(左)北の斜面。かなり急であり、この方面は安全だろう。