春日城(伊那市伊那部)
別名、伊奈部城ともいう。
伊那市街を見下ろす天竜川西岸の河岸段丘末端の周囲を沢が侵食した台地の縁にあり、西側が台地に続き、残る3方は谷という地形の場所にある。
南をうぐいす洞、北を比高差のある斜面と、三方を自然の切岸、あるいは堀切といった地形を利用して築城されている。

現在は、伊那の桜の名所、春日公園となって、1年中、快適に見学できる。
岡先端部の本郭からは、下の写真のように東の天竜川、その向こうに高遠方面が良く見える。
三郭@西に存在していたという堀は失われているが、それ以外の遺構は良く残っている。


公園化すると遺構まで改変してしまうことがあるが、ここはほとんど改変はしていない。
三郭より西側は遺構は湮滅しているが、公園化する前にすでに遺構が失われていたようである。
本郭を台地縁の東端に置き、その北側と西側を二郭がL型に覆う。

さらにその西側に三郭を置く、梯郭連郭併用式の形式を取る。
郭間は幅20mほどの横堀で隔てられ、台地端部では竪堀になるが、この堀が豪快である。
堀の深さは埋没したりして当時を推測できないが、おそらく10mはあったであろう。

1534年(天文3年)、伊那部(春日、粟田口)重慶が築城したという。
その後、伊那地方は武田氏の侵略に晒され、1545年(天文14年)、武田晴信(信玄)が福与城を攻撃した時には、小笠原長時の弟信定が春日城に入って福与城の救援を行ったという。
しかし、福与城の救援は失敗する。

伊那部氏はその後、武田氏の攻撃で軍門に下るが、重慶の孫重親は、1556年(弘治2年)に武田氏に対して反乱を起こし、失敗して殺害される。
以後、春日城は春日昌吉が城主を務めた。
1582年(天正10年)、織田氏が伊那に侵入すると昌吉は高遠城に篭り、戦死。
これを機に春日城も廃城となった。

@遊具が置かれている三郭 A二郭、三郭間の堀 B本郭、二郭間東側の堀
C本郭、二郭間の堀、南側。 D 本郭内部 E 本郭南の堀?土塁付腰曲輪

殿島城(伊那市東春近)
春日城の支城であり、春日城の南東約4kmの天竜川東岸の低地からの高さ40mの河岸段丘上の縁部にある。
台地縁部に本郭を置き、その周囲に三重の堀と曲輪を巡らせた梯郭式の城である。
本郭部分が良く残り「殿島公園」@となっている。

本郭内部は80m四方ほどの広さがあり、四方を土塁が囲む。
特に東側と北側Eの土塁は郭内からは4mほどの高さを持つ。その一方、天竜川を望む西側、南側は高さ2m程度に過ぎない。
この本郭の周囲を堀が取り囲むが、北側Bは三重になっている。東側Aと南側Fは二重である。
その堀Aと本郭の土塁の間には犬走りのようなスペースがある。
西側Dは斜面に帯曲輪があるだけである。

本郭の西側以外の面にも曲輪があり、さらに堀が取り巻いていたとのことであるが、住宅地となり遺構は失われている。
春日城の伊那部重慶の次子新左衛門が分家して殿島大和守重国を名乗り居城したが、重慶の孫重親とともに武田氏に反乱を企て殺され、以後武田氏の城となったが、武田の滅亡と共に廃城となったという。

@城址は公園になっている。 A本郭東側の堀、本郭側に犬走がある B本郭北側の三重堀の真ん中の堀 C本郭内部から南側の土塁を見る。
D本郭西側は腰曲輪がある。 E本郭北側の土塁は4mほどある。 F本郭南側の堀は埋没ぎみ。 G本郭南側の堀末端は竪堀となる。