飯島城(飯島町本郷)
飯島町の南東端の天竜川に望む西岸の崖上から西の山にかけてが城域であり、南に子生沢川、北に相の沢川に挟まれる崖端城である。
広さは東西700m、南北最大400m程度もある巨大な面積を持つ。
面白い構造をしており、3段に分かれる。

一番低い部分は天竜川に望む崖上の河岸段丘部分の標高530mの「城山」、「古城」、「前の田」の250×150mの部分。
中段が標高570mの「古町」、「陣の垣外」地区、ここは200m四方ほど。
そして最高箇所が標高620mの「本城」、「登城」という部分。
この間、比高差90m、天竜川からは約130mである。
国道153号線が中段が標高570mの「古町」を分断して通る。

国道153号線沿いに車を止め、東下の低地を見ると、先端部に「城山」という大きな堀で分断された部分が見える@。
そこまで行ってみると途中に堀跡Aが確認できる。
「古城」(二郭)、「前の田」(三郭)間の堀であり、幅は20mほどある。
「古城」と「城山」間の堀Bは巨大であり、幅は40m、深さは10mほどもある。

城山Cはほとんど藪状態で内部がどうなっているか分からない。
国道153号線の西が「古町」D、「陣の垣外」地区であり、その間に北側が墓地となって湮滅しているが、南側に堀Eが残る。

さらにここから比高50mの台地上に「本城」と「登城」という2つの曲輪が南北に並ぶ。
その間には深い堀がある。
主郭に相当するのは南側の本城Fであり、80m四方ほどある。西側と北側に土塁があり、西に虎口があり、堀を介して土橋がある。
さらにその西側にも曲輪があったようであるが水田になって分からない。

北側の「登城」Gは内部が3段になっているが、それほどきちんとは造られている感じではない。
西側に民家があるが、そこも城域だったようである。
この西側Hは水田地帯で徐々に高くなっていくが、さらに西はJR飯田線が通るほどの水田地帯である。
そこから見ると、飯島城は低い場所にあり、この立地は小諸城と同じ「穴城」である。

@ 国道153号から見た城山方面 A古城、前の田間の堀跡 B古城、城山間の堀は谷の規模。
C 堀底から見た城山 D 中段の部分の古町付近 E 中段部分を2つに仕切る相の堀
F本城の虎口の土塁 G登城内部は3段になっている。 H城外から見た城址方面。
 民家付近に虎口があったらしい。

築城時期は分からないが、もともとはこの地の土豪、飯島氏の城であったという。
飯島氏は始めは小笠原氏に従っていたが、武田氏の侵攻により、周囲の土豪同様、天文23年(1554)ころに武田氏に従うようになる。
武田氏支配時代に飯島城に何回かの拡張整備が行われ、巨大化したと言われる。

天竜川の水運を管理する城であり、城山の下に船付き場があり、古城付近は物資集積倉庫があったのかもしれない。
大島城への中継場所だったのかもしれない。

武田氏滅亡後、飯島城は廃城となったと考えられる。
(現地解説板を参考、航空写真は国土地理院の昭和51年撮影のもの)


飯島氏
源氏一族片切(片桐)氏の流であり、平安末期の寿永年間、片切為行の子為綱が飯島に住んだのが始まりという。
飯島氏が記録に登場するのは、「承久記」に鎌倉初期、飯島為光がこの地の地頭となり、承久の乱に出陣したことが書かれている。

南北朝、室町時代は飯島氏は一貫して小笠原氏に従い、本家の片切氏を凌駕し、片切領全体を支配していたという。
しかし、戦国時代になると、武田氏が伊那を侵略、の天文年中(1532〜54)、隣国甲斐の戦国大名武田氏が信濃に攻め飯島氏も小笠原氏とともに抵抗するが、かなわず、武田氏に従属する。
以後、信州先方衆としてこき使われる。

天正10年(1582)、織田軍が伊那に侵入すると、郡には信長の嫡子信忠の軍が攻め込んできた時、当主為次(重家とも)は高遠城で戦死し、滅亡したともいう。
しかし、一族の者では徳川家臣、小笠原家臣となり、関ヶ原の合戦や大阪夏の陣にも参加した者もいた。
また、この地で帰農し、江戸時代に名主役を務めたという。
(風雲戦国史 http://www2.harimaya.com/sengoku/index.html参考)