飯田市の城1

久米ヶ城(飯田市山本)
中央道飯田山本ICの東南東約2.3kmの標高733mの独立峰「城山」にある。
山の北側を三遠南信自動車道がカーブして通る。
この山にも道は狭いが南西下の大須地区から車で山頂まで来ることが出来る。

↑南から見た城があった城山

かつて山頂には旅館があったというが、今は廃業し、ほとんどの建物も撤去され、更地になっている。
旅館があった二郭、三郭とその周辺は改変を受けているようであり、本郭と二郭間の堀も埋められ道路になっている。
本郭は径60mほど、北側が一段高く、土壇がある。櫓が建っていたのだろう。
ここは公園になっている。しかし、果たしてどれほどの人が来るものか?

↑本郭から眺めた北東、飯田市街地方向、天竜川の上流方向と伊那盆地、南アルプスが望まれる。絶景である。
左端の白い山が「仙丈ケ岳」その右が日本第二の高峰「北岳」。

本郭からの眺望は抜群であり、東及び北方面の飯田市中心部、天竜川方面、南アルプスがよく見える。天然の展望台である。
しかし、西方向、南方向は木が多くよく見えない。

本郭から西、北の尾根にも堀切、曲輪が連続するが、凄い藪で突入は断念。
二郭、三郭とその周辺は建物があったというので改変をどの程度受けているか、何ともいえないが、本来の形はそれほど変わっていないようにも思える。

三郭南側から南に延びる尾根筋の遺構は鍛冶ヶ城ともいう。
尾根に沿って高さ1mほどの土塁があり、小さな堀切で尾根が仕切られ、曲輪が展開する。
おそらくこの尾根筋が大手であり、大手曲輪ではないだろうか?
南北500mほどが城域であり、大型の城である。

@二郭跡は駐車場になっているが、ここに旅館があった。 A本郭は2段になっている。写真は南側の曲輪。 B本郭の北部分と土壇。神社があるが物見台だろう。
C三郭内部も旅館の建物があり、その残骸が残る。 D三郭南下の城まで来る道路の切通しは堀切跡という。 E鍛冶ヶ城と言われる城南端部の曲輪と土塁。

松尾小笠原氏、松尾城主小笠原貞宗の弟貞長を初代とし、南北朝の頃から約200年続いたというが、それ以上のことは分からない。

松尾城の南を守る拠点なのだろう。

しかし、ここは不便な山の上であり、あくまで詰めの城である。
平時の居館は山麓にあったのだろう。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)




F本郭より北側は藪が凄い。北西尾根の曲輪なのだが・・。

伊豆木城と伊豆木陣屋(飯田市伊豆木)
天竜川沿いのJR飯田線川路駅の西方約2km、天竜川支流の弟川の谷沿い、久留輪地区(この地名もずばり城を指している!)にある。
久留輪地区の北の山が城址であるが、麓に近い山の中腹の平坦地に国の重要文化財小笠原家書院が建つ。
この建物はここにあった伊豆木陣屋の建物群の一部であり、陣屋の建物は書院以外は撤去されてしまっている。
当然、ここは伊豆木城の城主居館があった場所であろう。

↑南東側、県道491号線越しに見た城址。細長い建物が陣屋資料館、そこが陣屋跡、おそらく中世の居館跡であろう。

小笠原家と言えば小倉15万石を領した松本を本拠としていた府中小笠原氏が知られるが、ここの小笠原氏はそれとは同族ではあるが別系統の松尾小笠原家の系統である。
府中小笠原氏は武田氏の侵略を受け、村上氏とともに抗戦するが敗北、越後等に亡命し、一時的に滅亡するが、本能寺の変後に起きた天正壬午の乱の混乱に乗じて復活、以後、近世大名となって続く。
一方の松尾小笠原氏は武田氏に降伏し、従属。武田氏滅亡後、徳川家臣となり、大名、旗本として生き抜く。
ここは松尾小笠原氏の次男坊、旗本となった小笠原長巨がここに建てた陣屋が伊豆木陣屋である。

伊豆木城は陣屋の北の裏山にあり、陣屋跡に建つ資料館の裏を登って行けばたどり着く。
標高は564m、東下を通る県道491号線からは約60mの比高である。

しかし、この山、緩やかな山である。
だらだらとした緩い斜面に埋もれて風化したような曲輪Bが並び、メリハリを感じるのは主郭部の曲輪間を隔てる堀の深さ程度である。
どうしてこんなだらだらした感じであるかと言うと、かつてこの山の曲輪が畑として利用されていたからという。
耕作に伴い、切岸が崩され、通路として使った堀以外の堀が埋められたのであろう。

主郭である3つの曲輪T、U、Vが南西から北東にかけて並び、曲輪間は深さ6mほど、幅20mもある深く巨大な堀D、Gで仕切る。
南西端の曲輪が本郭Hである。
55×20mの広さがあり、篠山と呼ばれる。
内部は雑木林、南西側と南東側に腰曲輪がある。

二郭Fもほぼ本郭と同じ広さである。
その北東の三郭Cは狼煙台と思われる土壇を持つ。
南東下に御泉水という3方を土塁に囲まれた池がある。
ここは陣屋の水場でも有ったと言う。

@国重文陣屋の書院、ここは館跡だろう。 A陣屋の裏を上がっていくと長大な堀があるが埋もれている。 B三郭東下の帯曲輪、かつては畑だったという。
C三郭にある土壇、狼煙台と思われる。 D三郭、二郭間の堀切、かつては道として使われていた。 E二郭西側の切岸は鋭い。
F二郭内部、平坦である。ここも畑跡か? G本郭、二郭間の堀切、ここも通路跡でもある。 H本郭内部、平坦であるが倒木が多い。

城域は約200m四方に及び結構広い。
小笠原氏家臣、伊豆木氏の城であり、南北朝時代から住んだという。
大塔合戦にも守護、小笠原長秀に従って出陣したという記録がある。
戦国時代の動向は不明であるが、この城は南の下条氏との境目の城であったようである。
伊豆木氏のその後は分からないが、廃城になっていた城の居館跡を陣屋に転用したのであろう。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)

神之峯城(飯田市久堅)

知久平城の南東約3km、標高772mの神之峯(峰)(かんのみね)の山頂から山頂直下にかけてが城域である。
城域は直径約200mである。
この山は岩がごろごろある独立峰であり、TV塔が4つ建ちかなり景観を壊している。
しかし、TV塔が建つくらいの山であるため、電波を遮る山が周囲にないということであり、抜群の物見台でもあることを示している。

↑ 西から見た城址、山頂部にはTV塔が4本建つ。

ここに行くには東の風張地区から登る道路(ほぼ搦手道に一致する。)を行くのが望ましい。
北から山の西側を登り、南側を回る道もあるが、この道はTV塔建設資材を運ぶための工事用道路であり狭く急で、見通しも悪く避けた方が良い。

ともかくどの道を通っても山頂東下の蔵屋敷、寺屋敷という地名の平坦地G、Hに出る。
ここに当時、城主の居館、家臣の屋敷があったのであろう。
現在も3軒の民家がある。
ここは下界からは隔離された里、隠れ家のような場所である。

蔵屋敷からさらに登ると山頂であるが、ありがたいことに神社があるのでここまで車で来れるのである。
本郭と出丸の間の曲輪が駐車場@なのである。
東側の本郭BにはNHKのTV塔が建つ。

その南に続く尾根に幅11mの巨大な堀切Dがあり、さらに熊野社が建つ二郭E等が展開する。
駐車場の西側の高まりが出丸であり、帯曲輪からは約8m高い。

その最高箇所の土壇に久堅神社が建つ。
そこから北に延びる尾根筋の曲輪の先端AにSBCのTV等が建つ。
ここからは天竜川が流れる西方向の眺望が抜群である。

駐車場の南側の曲輪に矢立岩があり、その地が南小屋Cという名の曲輪、ここにNBSの電波塔が建つ。
ここまでが主郭部である。

主郭部と蔵屋敷間の平坦地が北小屋であり、テレビ信州の電波塔が建つ。
さらに下に大手口Fがある。
ここから北に下る谷筋が大手道である。

@出丸、本郭間の帯曲輪は駐車場になっている。
西が出丸であり、最高箇所に久堅神社が建つ。
A出丸は北に細長く延び、北端にSBC(信越放送)の電波塔
が建つ。
B駐車場の東側が本郭、NHKの電波塔が建つ。
C@の駐車場の南が南小屋、矢立岩があり、南端に
NBS(長野放送)の電波塔が建つ。
D本郭南東下の堀切と土橋、竪堀が斜面を下る。 E Dのさらに南東側が二郭、熊野社が建つ。
F大手道の出口。ここに大手門があったのだろう。 G蔵屋敷から見た主郭方面、民家がある場所が居館の地か? H蔵屋敷、蔵や家臣の屋敷があったのだろう。

知久平城の詰めの城であり、諏訪氏の流れを組む知久氏の城である。
戦乱が迫ると知久氏はここに本拠を移したという。
武田氏の侵略の手が伸び、伊那地方の小土豪が片っ端から征服され、天文12年(1554)知久氏も武田氏に降る。
その時、合戦があったかどうか、定かではないが、ここに立て籠もったのであろう。
天正10年武田氏が滅亡すると知久氏は徳川氏に従うが3年後、改易され、神之峰城はこの時、廃城になったようである。
のち知久氏は3000石の旗本として復活するが、阿島に陣屋を置く。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)

知久平城(飯田市下久堅)
「ちくだいら」と読む。中学の時、「知久」さんという同級生がいた。
あまり馴染みがない姓であったが、親が下伊那の出身と言っていた。
多分、先祖はこの城に係わっていたのではないかと思われる。

飯田市中心部から南東方向に県道256号線を走り、天竜川にかかる水神橋を渡り、丘に登って行くと市立下久堅(しもひさかた)小学校がある。
この小学校敷地付近が城の南端部にあたり、ここから北側一帯が知久平城である。
この付近の標高は440m、天竜川からの比高は63mである。JR飯田線駄科駅からは東に約900mの場所である。

かなり大型の城であり、南西端の「宮本」地区が突き出たL型をしており、東西最大約600m、南北約600mの規模を持つ。

規模からして根小屋地区を包括する総構えを持っていた感じである。
城の西側を県道256号線が通り、城域南側を横断する。丘北端部に本郭があるが、畑である。
堀などが各所に存在していたようだが湮滅している。
所々、若干低い場所があるが、それが堀跡と思われる。

南に諏訪三社神社があるが、その南側に堀跡があり、さらに県道256号線を横切り竪堀になるが、これは自然地形を利用したものと思われる。

丘の上が主体部であろうが、水神橋を渡った主膳地区が城下にあたるのであろう。
また、天竜川沿いに「舟渡」という地名があるため、渡しと天竜川の水運の管理をしていたことも想定される。
(デジカメの操作ミスで主郭部の画像を消してしまった。)

伊那の豪族、知久(ちく)氏は清和源氏の祖源経基の子満快の子孫為公が信濃守となり、5代後の信貞が知久に住み、知久氏を称したのが始まりとしている。

しかし、実際は諏訪氏の出という説が有力という。
源氏説は信貞の祖父、信忠が源氏の出である中津乗小太郎為貞の娘の子であり、中津氏の猶子となったので源氏を称するようになったらしい。
知久氏が知久平に移ったのは、承久の乱(1221)後であったらしい。

南北朝期は南朝方に属し、当主知久敦貞は信濃宮宗良親王の子尹良親王を助けて活躍したが、南朝の勢力は回復せず、室町幕府に帰順、応永7年(1400)の「大塔合戦」に当主頼昭が守護小笠原長秀に属して出陣し、塩崎城に立て籠って戦死をまぬがれている。
永享12年(1440)の「結城合戦」には元小笠原政康にしたがって出陣している。

その後。小笠原氏の分裂と抗争に巻き込まれ、松尾小笠原氏に加担したことから府中小笠原氏の攻撃を受けることになり、以後、諏訪氏の支援を恃んで小笠原氏と対峙する。

知久氏の本拠としては神之峰城が知られるが、ここは山城であり不便である。
平時の城が知久平城であり、戦国時代に入って大幅に整備したようである。
@城内に建つ諏訪三社神社 A 三社神社南側に残る堀跡 B Aの堀は南に折れ、竪堀となる。

戦国時代の当主頼為、頼元の時代、大きく勢力を広げる。
そして、甲斐武田氏の侵略を迎える。天文11年(1542)諏訪氏が滅ぼされ、伊那地方に進出して来ると知久頼元も武田氏に従属する。
しかし、天文22年(1553)第1回川中島の戦いが起こると、知久・座光寺氏らが叛旗を翻し、神之峰城に籠城して武田軍と戦うが落城、知久頼元父子、座光寺貞信ら主だった武将は捕虜となり、殺害され知久氏本流は滅亡する。
しかし、知久一族の一部は武田氏の家臣となったり、織田氏、徳川氏の下に逃れ、天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、知久頼氏が知久平に復帰し、天正壬午の乱、第一次上田合戦に徳川氏に従って出陣している。
そして、関ヶ原の戦いの後、旗本として3000石を与えられた。
江戸時代は下伊那郡喬木村阿島に陣屋を構え、明治維新を迎えている。 (武家家伝を参考にした。)
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)

知久平城2021
上記の記事は2019年6月に訪れた時の記録で作成したものである。
記事の中で「デジカメの操作ミスで主郭部の画像を消してしまった。」と書いている。
肝心の主郭部の写真がないのである。
2021年11月、この近くに行った。そこで上記のことを思いだした。
で、リベンジ!主郭部再突入、いやあしつこい、執念深い。
このしつこさ、K国並み!
これを仕事に発揮すれば良かったのだが・・それは結果としてなかった。
あの時と同じように、下久堅保育園に車を置かせてもらって。
あの時、断りを入れたかわいい保母さんはいなかった。結婚して辞めたのかな?
出てきたのは、ちょっと・・・・な、保母さんだった。残念!
そこからちょっと北に歩くと、主郭部である。主郭部周辺はリンゴ園である。
折から収穫期、収穫作業が行われている。名古屋から来たという家族がりんご狩りを楽しんでいた。
その主郭部、土塁、堀はあるのだが、リンゴ園、宅地になり崩されたり、埋められたりしてかなり微妙な状態になっている。
ただ、見ただけではこれが城郭遺構とは気が付かないかもしれない。

C本郭南側の堀、左手前に見えているのが土塁。 D本郭内部はリンゴ園になっている。
E本郭西側の土塁は痕跡程度の地膨れに過ぎない。 F本郭から北に突き出した出丸。


兎城(飯田市龍江)

「とじょう」と読む。JR飯田線時又駅から天竜橋を渡った天竜川の東の対岸、直線距離で東約900mの天竜川を西下に見る南から北に張り出した山の北端部にある。
北下は「イタチ沢」への急斜面である。
標高は450m、天竜川からの比高は80mである。

天竜橋を渡って東の山に登って行くと「丸山の湯」がある。
そこを通り過ぎ、道は北にカーブしながら山を登って行く、すると産業廃棄物処理場がある。
その西側が兎城址公園になっている。

地図にも公園の記載がある。
・・・が・・・ほとんどこの公園、放置状態である。
何しろ入口が鎖で閉鎖されているくらいなのである。
管理もされていない。

城址には地元の小学校の児童が作った朽ちかけた掲示物もあるが、平成8年の標記になっている。
もう、ここを訪れる児童もいないのであろうか。
過疎化と少子化が現れている。悲しくなってくる。

とは言え、この城、小さいながらも遺構はよく残っており、掘り出し物である。

規模は南北約150m程度の尾根式の直線連郭式の城である。
3つの曲輪からなり、中央部の曲輪Bが本郭であろう。

南側の大出神社@がある曲輪Vは35m×25mの大きさ、南側に堀があったが、西側が残る。
東側は廃棄物処理場になり破壊されている。

この曲輪の北側には腰曲輪があり、堀Aとなっている。
幅は腰曲輪部を入れて約20mある。
堀の北側が高さ8mの切岸になっている。
本郭南側の土塁である。


本郭B内部からは5mほどの高さがある。
本郭は約40m四方の広さ、金山社が北端にある。
本郭は曲輪Vより低いため、南側の土塁を大きくしたのであろう。
@曲輪Vの北端に建つ大出神社。 A曲輪V(左)北側の堀。 B本郭内部、荒れている。北端に金山社が建つ。
本郭のさらに北側下約7m下に曲輪UCがある。
本郭側には堀があったようである。
若干、くぼんでいる。

本郭から曲輪Uに降りる途中に木に巨岩がもたれかかっているのに驚く。
この岩が「かがり岩」らしい。
もちろんもたれかかっていたら木が強度的に持つ訳はない。
岩は自立しているのであろう。

木が岩を避けるため曲がっているので、いかにももたれかかっているように見えるのだろう。
珍風景には違いない。

場所的には知久平城の南にあたり、その支城であろう。
C本郭の北下に曲輪Uがある。 D本郭と曲輪U間東斜面にある「かがり岩」。 (宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)