アメリカ海軍

空母レキシントン

レキシントン ( Lexington) は、アメリカんの第二次世界大戦時の空母。通称「レディ レックス」。
1942年5月8日珊瑚海海戦で日本空母翔鶴艦載機の攻撃で沈没する。
姉妹船にサラトガがある。当初は巡洋戦艦として、1921年1月8日にマサチューセッツ州クインシーのフォアリバー造船株式会社で建造を開始されたが、ワシントン海軍軍縮条約に基づき、サラトガとともに巡洋戦艦としての工事は中止され、1922年7月1日に空母へと改造が決定され、1925年10月3日進水、1927年12月14日から就航し太平洋艦隊に配属された。
この経緯は日本の「赤城」、「加賀」と同じである。
空母としてのレキシントンおよびサラトガの排水量33,000トンと公表されてはいたが、実際の満載排水量は40,000トン以上あったという。

終戦時のサラトガは各種装備を追加したため50000tを超えていたという。
日本空母信濃出現までは、世界最大の空母であった。

レキシントンの特徴は、現在の空母にまで通じる一段飛行甲板(赤城、加賀などは3段甲板を採用していたころもあった。)やアイランド式艦橋構造、エンクローズド・バウなどの形式が始めから採用していた。
このため、大きな改造を行う必要もなかたった。

さらに母体が高速を売り物にする巡洋戦艦であったため、時速34ノットという空母としても十分な速度を有し、270mの飛行甲板を持つ大型であったため、90機以上の搭載能力を持っていた。

ただし、密閉構造の船体であったため、これがのちに珊瑚海海戦で惨劇を招くことになる。
また、巡洋戦艦の陰を引きずり、副砲である20センチ連装砲4基を持ち、巡洋艦程度の艦船との砲戦も可能であった。(赤城、加賀も同じである。)

真珠湾攻撃の1941年12月7日、レキシントンは真珠湾にはいなく、ミッドウェイへの航空機輸送中であった。
攻撃の連絡を受け日本艦隊捜索のため偵察機を発艦させ、エンタープライズ と合流、12月13日に真珠湾に帰港し、何の戦闘も行っていない。
1942年1月11日、真珠湾を出撃しラバウルの攻撃へ向かったが、2月20日に日本軍機の攻撃を受け攻撃断念。

3月6日ヨークタウンと合流し、3月10日にサラモアとラエを攻撃し3月26日、真珠湾に帰投した。
そして、運命の珊瑚海海戦に参加。この海戦では5月7日、空母ヨークタウンとともに日本空母祥鳳を撃沈し、翌日には同翔鶴を中破させる。
しかし、翔鶴艦載機の攻撃で魚雷2本、爆弾2発を受け、中破。

漂流修理中に被弾によって漏れ、気化した航空用ガソリンに引火して大爆発が発生、大火災が起き鎮火不可能となったため、駆逐艦の魚雷により処分された。
装甲化された飛行甲板が裏目に出て火災の被害を増大させた訳である。
これ以後の空母は日米とも側舷を開放した形とし、爆発性のガスが充満しない構造にしている。
まったく同じ原因で沈んだ空母にマリアナ海戦での「大鵬」があるが、大鵬の場合は故意に損傷箇所を密閉した結果、ガソリンが気化して爆発に至ってしまったという。


アイオワ級 戦艦 「ニュージャジー」
日本の大和型戦艦に対して対抗するべくアメリカ海軍が建造した戦艦であり、排水量45000t、全長270m、最大幅32.97m、最大速力33ノット。
40.6cm砲9門を搭載する。(大和は排水量64000t、全長263m、最大幅38.9m、最大速力27ノット。46cm砲9門)
アイオワ、ニュ−ジャジー、ミズーリ、ウィスコンシンの4艦が建造され、さらに終戦時2艦が建造中であった。(終戦でキャンセルされた。)
先行したサウスダコタ型戦艦、ノースカロライナ型戦艦のデザインを踏襲し、艦首に40.6cm2連装砲塔を2基、艦尾に一基を配し、中央部に艦橋と煙突、後橋、高角砲を集中配備した形となっている。
副砲はなく、高角砲で代用する。

注目すべきはおびただしい対空火器であり、前身ハリネズミのようである。
パナマ運河の通行を前提としたために幅は33mと細く、艦長が長く非常に細身である。
艦長が長いのは2本煙突にせざるを得なかったことも要因である。

幅に比べて長さがあるので安定性は劣り、荒れた海の波涛性と安定性(ゆれ)に問題があった 。
12万馬力の機関は、33ノットという高速を出し、空母機動部隊の随伴も可能であり、究極の巡洋戦艦ともいえる。
アイオワ級戦艦は1943年から順次、就役し、1944年から太平洋戦線に投入された。

マリアナ沖海戦、レイテ海戦、硫黄島、沖縄戦に参戦するが、空母の護衛と艦砲射撃に使われ、対艦戦闘を行うことはなかった。
神風攻撃で損害を受けるが、致命的なものとはならず小破程度に留まっている。
第二次大戦後も現役であり、朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参戦。
さらに1980年代に4隻ともトマホ−ク巡航ミサイル搭載艦に改造され、電子装備を一新し、ハープン対艦ミサイルの搭載なども行い、1991年の湾岸戦争にも参加している。

さて、アイオワ級戦艦が想定敵艦であった大和と打ち合った場合、どのような結果になるかということがよく論議される。
レーダー射撃、発射速度等の砲撃能力はアイオワ級の方が上であるが、砲弾の威力は大和の方が優れる。
防御力は46p砲弾を想定していた大和が上まわり、40p砲弾を想定しているアイオワ級の方が劣る。
(これはアイオワ級戦艦が、大和が40p砲という情報を基に設計されたため)
結果として大和はかなりの40cm砲弾を受けても耐えられるが、アイオワ級は数発の大和の砲弾で致命症を受ける。
したがって1:1の対決では、総合力で大和には勝てなかったと思われる。
アイオワ級の第二次世界大戦時のスペックは以下のとおりである。
兵装は 40.6cm3連装砲×3(計9) 12.7cm連装砲(対空対艦兼用)×10(計20)、40mm4連装機銃×20(計80)、20mm機銃×49、搭載機 水上偵察機3機、乗員1921名

戦艦ワシントン

ノースカロライナ級戦艦の2番艦。排水量35000t、40p3連装3基を持つ。
速力も28ノットと高速である。
1941年に竣工。最大の戦績は1942年11月の「第3次ソロモン海戦」で日本戦艦「霧島」に致命傷を与え、撃沈したことであり、日本海軍にとってはエンタープライズと並ぶ、忌まわしい船である。
その後は主に太平洋戦線の諸島の上陸支援任務と空母護衛に従事。
この頃になると対空火器で全身ハリネズミのようになり、130門程度の対空火器を持っていた。
1961年に解体された。

重巡洋艦 インディアナポリス
第二次世界大戦での1隻の軍艦の戦闘での喪失が大きな事件になった。
それにより、この軍艦の知名度は群を抜くことにもなり、いくつかの映画のヒントにもなっている。

1945年7月28日深夜、1隻の軍艦が西太平洋を航行していた。
すでに第二次世界大戦の先は見え、日本のみが連合軍相手に戦っていたが、戦線は遠く日本周辺に限定され、注目はいつ日本が降伏するかという点であった。
しかし、忘れてならないのは「戦争はまだ終わっていない」ことであった。
壊滅状態の日本海軍であったが、実質的な最後の反撃がこれから行なわれようとしていた。
この反撃は戦後、映画などのヒントにもなったことで知られる。
その1つが、スピルバーグ監督の「ジョーズ」、そして「真夏のオリオン」「ローレライ」である。
その主人公の2隻の船の名は、アメリカ海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」そしてもう1方が日本海軍の潜水艦「イ58」である。

大戦の最初から戦い続けた歴戦の重巡洋艦「インディアナポリス」は、、アメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦。
排水量9800t、最大速度時速32ノット、主砲は20p砲3連装3基、乗員1269名というスペックである。
戦前に建造された古いタイプに属する巡洋艦であり、1945年時点では防御能力の低い部類の船であり、魚雷攻撃には弱い点が指摘されていた。
それでもアメリカ海軍のスプルーアンス中将はこの艦を好み、第5艦隊の旗艦として使っていた。
一方のイ58は日本海軍が誇る航空機も搭載可能な大型の潜水艦、基準排水量2140t(水上)/3688t(水中)全長108.7m、乗員94名というスペックである。

インディアナポリスはテニアンに最高機密の荷物、すなわち原爆の部品ウラン235を届けた後、グアムに派遣され、7月28日艦隊に合流すべく単独でレイテ島へ向けグアムを出港。
しかし、もうここは戦域ではないとの認識があったのか、潜水艦に対する回避行動であるジグザグ航行を行なわず単独航行をするインディアナポリスをイ58が発見、7月29日午前0時14分、艦長橋本以行少佐は回天を使わず、通常兵器である九九式酸素魚雷を 初回3本、数秒おいて2回目3本の計6本を発射した。
そのうち初回の2本が右舷に命中、船体を鋭く貫いた魚雷が爆発。
さらに2回目に発射した1発が命中。特に時差発射の2回目の魚雷が1発目が船体に開けた穴に入り込み奥で爆発、艦内第二砲塔下部弾薬庫の主砲弾を命中と同時に誘爆させ、同艦は夜空に大きく火柱を吹き上げると、艦前半部を海に突っ込みながら暫く浮いていたが、12分後に転覆、沈没した。

この爆発で300名の乗員が即死、残り900名が海に投げ出された。「朝になれば助けが来る」。
海に逃れた船員たち全員がそう信じて疑わなかった。しかし、夜が明けて現れたのは救助の船影ではなく、血のにおいを嗅ぎつけたサメの群れだった──。
4日後にようやく救出された時、生存者はわずか317人であったという。

インディアナポリスは、沈没寸前にSOSを発信していた。だが海軍は救助隊を派遣しなかった。
日本軍の罠だと考え、信号を無視したのだ。
また、ニミッツ提督指揮下のグアムを本拠地とする太平洋艦隊司令部と、マッカーサー将軍指揮下のフィリピン・レイテ島を本拠地とする第7艦隊司令部との間で、日本本土攻撃の総指揮をどちらが取るか(陸軍か海軍か)という主導権争いの問題や、ニミッツとマッカーサー両者の個人的な感情や意見の対立が発生したことから、互いの司令部があるグアム島とレイテ島との相互連絡はほとんど取れていない状態であった。

そのような情報の不手際が発生していた時期に沈没したことが、沈没情報の確認や乗組員の救助活動の開始が遅れた原因ともいわれている。
なお、「ジョーズ」で登場人物が語るこの事件は、サメが強調されているが、主な原因は救助の遅れに伴なう体力的限界が死亡の主要因といわれている。

この事件は戦争中に数多くあった悲劇の1つにすぎないのだが違う展開を見せる。
人命尊重のアメリカで一度に900人もの戦死を出したということもあるが、当時、厭戦気分が蔓延し、さすがのアメリカでも戦費増大に伴なう経済負担が大きく、その不満のターゲットが軍部にも向けられていた。
そこで海軍は、国民の不満の捌け口を海軍からそらすため、艦長のチャールズ・バトラー・マクベイ三世をスケープゴートにし、裁判をショーにする。
アメリカは第二次世界大戦の戦闘で約700隻の船を失ったが、戦死者が多かったとはいえ軍法会議にかけられたのはマクベイ元艦長ただ一人であったこと、これ自体が異常な対応であったことが伺える。
1945年11月、彼は軍法会議にかけられ、潜水艦からの魚雷攻撃を避けるためジグザグ航行を怠り船を危険に晒したとして有罪とされた。
しかし、軍法会議は多くの論議を呼んだ。

アメリカ海軍自体が護衛もなく、単独航行させ、危険な状態に置いたことや救助が遅れたことについては確かな事実であり、証拠もあったが無視された。
また、イ58艦長橋本以行少佐はジグザグ運動をしていても撃沈できたと証言したがこれも取り上げられていない。

有罪になったことでマクベイ元艦長の海軍での経歴は終わり、結局、彼は死んだ乗組員の遺族に責め立てられ1968年に自殺した。
撃沈から50年以上後、当時12歳で、映画ジョーズによってインディアナポリス撃沈事件に興味を持ったハンター・スコットによりマクベイ元艦長の軍法会議が誤審であるとの認識が提起され、橋本以行少佐もマクベイ艦長の名誉回復運動に協力。
2000年、アメリカ合衆国議会はマクベイ元艦長の記録は「彼はインディアナポリスの損失に対し無罪である」ことを反映すべきだという決議を可決した。
ビル・クリントン大統領もこの決議にサインした。
2001年、海軍は彼に責任がないことを正式に認め、約半世紀ぶりにマクベイ元艦長の名誉が回復された。 (Wikipedia等を参考)