沖縄水上特攻
日本海軍の実質的に最期となった作戦である。
菊水作戦と誤って書かれることがあるが、菊水作戦は航空機による特攻作戦であり、大和以下10隻の艦艇による水上特攻作戦は、天一号作戦の一環である。
坊の岬沖で起こったため、坊ノ岬沖海戦とも言う。
この海戦は、1945年4月7日に行われた大和と護衛の9隻の艦からなる水上特攻部隊とアメリカ海軍の空母艦載機との戦闘である。
結果として大和を含む6隻が撃沈され、日本海軍は壊滅した。

この作戦実施前、1945年春、連合艦隊はすでに主力艦艇の大部分を喪失しており、大和以下、生き残った艦艇は、燃料もなく呉軍港に繋留されていた。
3月末、アメリカ軍は、沖縄進攻作戦を開始し、機動部隊、上陸舞台及び輸送部隊からなる大艦隊が沖縄沖に集結した。
これに対して日本軍は天号作戦を発動させ、航空特攻作戦である菊水作戦と並行して、大和を中心とする艦隊を沖縄沖に出撃させることとした。
この作戦は、大和以下の艦隊を沖縄に突入させ、艦を座礁させ固定砲台として砲撃を行い、弾薬が底をついた後は乗員が陸戦隊として敵部隊へ突撃をかけるという、めちゃくちゃな作戦である。
こんな構想自体が、すでに常軌を逸した狂気である。
片道分の燃料のみを搭載したと伝えられているが、これは事実ではなく、補給班は秘密裏に往復分の燃料を積載しているのである。
けして片道特攻を現場では考えていた様子はない。
帰還を前提にしているのである。まだ、末端には常識が生きていたのである。
航空機の援護のない水上部隊の特攻など失敗に終わることは目に見えていたため、第2艦隊司令長官の伊藤整一中将は最後まで作戦に反対する。
しかし、連合艦隊参謀長 草鹿龍之介中将が伊藤中将を説得、「一億総特攻の魁となって頂きたい」という言葉を聞き作戦を了承したという。
本当にこんなことを言ったのか分からないが、言ったとしたら狂気の世界に他ならない。

3月29日、大和は呉を出航し徳山沖で待機し、可燃物を陸揚げし、出撃の準備を行う。
この時のアメリカ軍の偵察写真が最近公開され、対空火器が予想以上に積載された様子がわかる。

4月1日、アメリカ軍が沖縄上陸開始。これに対して日本軍は菊水作戦発動(4月6日)。
4月6日16時、戦艦大和以下の第1遊撃部隊は徳山沖を出撃した。
アメリカ軍の潜水艦スレッドフィンとハックルバックは豊後水道を南へ向かう日本艦隊を発見し、アメリカ艦隊へ日本艦隊の出撃を通報するが、見失う。
4月7日払暁、日本艦隊は大隅半島を通過し外洋へ出て、南へ九州から沖縄へと向かう。
矢矧、大和の順でならび、その周りを1,500メートルずつ離れて8隻の駆逐艦が輪形陣を敷き、20ノットで進んだ。
鹿屋基地の第5航空艦隊の零戦計20機前後が、早朝から午前10時頃までにかけて護衛。駆逐艦朝霜が機関故障で落伍。
アメリカ軍の偵察機が日本艦隊を追跡。10時、日本艦隊は西に向きを変え、佐世保に向かうように見せかけたが、11時30分に再度、沖縄へ向けて進路を変更。
アメリカ第5艦隊司令長官スプルーアンス大将は戦艦同士の決戦を求めたが、艦隊の進路が不明なため最終的にミッチャー中将の第58機動部隊による航空攻撃を許可。

4月6日 15:20 大和以下第1遊
撃部隊が徳山沖を出撃。
4月7日、外洋に出た艦隊は矢矧、大和の順に並び、周囲に
駆逐艦が円陣をつくる。
米艦隊からはヘルキャットが索敵に出るが雲が厚く
なかなか発見できない。10時過ぎに艦隊を発見。

10時ごろ、約400機の空母艦載の攻撃隊が発進。
12時30分に第1波の攻撃を開始した。
日本艦隊は速度を25ノットに上げ対空戦闘を開始。
アメリカ軍の雷撃機は転覆を狙うため左舷に攻撃を集中したというが、太陽を背に攻撃しただけともいう。
12時46分、矢矧の機関部に魚雷が命中し、航行不能となった。
その後さらに少なくとも6本の魚雷と12発の爆弾が矢矧に命中した。
矢矧の救助に向かった磯風も攻撃を受けて大破し航行不能となった。
14時5分に矢矧沈没。
第1波の攻撃で大和には爆弾2発と魚雷1本が命中するが被害は軽微。
また、この攻撃で涼月が大破して落伍し、浜風が沈没した。

水上特攻に先立ち、航空機での特攻が行われ
るが、ほとんど効果はなかった。
12:30頃 攻撃隊の大編隊が雲間から降下し、第1遊撃部隊上空
へ殺到し始め、第一次空襲始まる。
12:35頃 大和以下の各艦が対空戦闘開始。
第二砲塔に命中。被害はほとんどなし。
12時46分、矢矧の機関室に魚雷命中。航行不能に陥る。 停止した矢矧に対し攻撃が集中。6本の魚雷と2発の爆弾が命中。矢矧の救助に向かった磯風も攻撃を受けて大破し航行不能となった。14時5分に矢矧沈没。 13:22 第二波約50機来襲。13:33 第二次空襲始まる。大和への雷撃。

13時20分から14時15分の間に第2波と第3波の攻撃隊が来襲。
攻撃は大和に集中。8本の魚雷と15発の爆弾を受け、対空射撃能力が低下、左に傾いたため、13時33分、右舷の機関室とボイラー室に注水。これにより、速度は10ノットに低下。このため、命中魚雷が増える。

爆撃を加えるコルセア。 対空砲火で撃墜されるコルセア。 8本の魚雷と15発の爆弾を受け、対空射撃能力が低下、左に傾斜

14時2分、伊藤中将は作戦の中止を命じ、乗員を退艦させる。
14時5分、大和は転覆し始め、14時20分、完全に転覆。14時23分、弾薬庫の誘爆または機関室の水蒸気爆発により大爆発を起こす。
爆発によるきのこ雲は2万フィートの高さにまで上り、200キロ離れた鹿児島でも目撃されたという。

奮闘する雪風。 14:23 大和沈没(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の
弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。

大和沈没でアメリカ軍機は引き上げたが、大和沈没の模様を撮影していたアメリカ軍機に急行してきた岩本徹三中尉指揮の日本軍機(第5航空艦隊第203航空隊所属の零戦部隊)が襲いかかり、3機を撃墜。
16時39分に第1遊撃部隊指揮官に対して乗員救助の上佐世保への帰投が命ぜられ、大和沈没海域で救助を行う。
アメリカ軍機は海上を漂流していた生存者を銃撃したと証言している者もいる。一方、駆逐艦による救助を妨害しなかったとの証言もある。

撃墜王岩本徹三殴り込み。あっという間にコルセア3機を葬る。 16:40〜18:00にかけて3隻の駆逐艦による生存者の救助。

この海戦で大和、軽巡矢矧、駆逐艦浜風、霞、磯風、朝霜が失われた。
涼月は艦首を失ったが後進で佐世保に帰還した。
被害の少なかった駆逐艦冬月、雪風、初霜は大和の生存者280名、矢矧の生存者555名と磯風、浜風、霞の生存者800名以上を救助し、4月8日、佐世保に帰還したが、結果として約3,700名がこの戦いで戦死した。
結局、この作戦はただ、3700名という生命を犬死させただけであった。
これが、戦争という狂気なのだろう。
こんなことが、イラクでもアフガニスタンでも今日も行われているのである。

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