日本海軍 日露戦争参加艦

戦艦富士
日本初の戦艦であり、その寿命は48年。
解体されたのが昭和23年である。その名は南極観測船に引き継がれた。日露戦争での主力戦艦であり、第一艦隊第一戦隊に所属。
旅順港閉塞作戦、黄海海戦、日本海海戦と主な作戦に参加。日本海海戦においてはロシア戦艦「ボロジノ」を一撃で撃沈するという武勲を有する。
1912年(大正元年)に海防艦へ類別変更、運用術練習艦として使用。
ワシントン軍縮条約により兵装、装甲を撤去し特務艦(運送艦)、後に練習特務艦となった。
1926年(昭和元年)より横須賀吉倉海岸に繋留、後に推進器を撤去、木造の講堂を設けて浮き校舎として使用された、戦後に解体された。

日清戦争前、清国の定遠級「定遠」と「鎮遠」の2隻のドイツ艦に対抗するため、日本がイギリスに発注した2隻の戦艦の1つがこの富士である。
当時、常備排水量7,144トン、クルップ製 30.5cm連装砲2基を持つ「定遠」と「鎮遠」に対し、当時の日本海軍の最大艦「扶桑」は常備排水量3,717トン、クルップ 24cm単装砲4基に過ぎず「定遠」と「鎮遠」に対抗できる戦艦の建造を計画した。
しかし、予算が確保できず、明治天皇が宮廷費節約、公務員の俸給1割減という勅令を出しようやく建造はイギリスに発注され、テムズ造船所で1894年に起工されたが竣工は1897年。
結局、日清戦争には間に合わなかった。艦はイギリス海軍の戦艦「ロイヤル・サブリン級」の改良型であり、当時最新の技術が用いられた。主砲はアームストロング 30.5cm(40口径)砲、この長砲身の主砲を連装式砲塔に収めた。
装甲は最大457mmと大和より厚いが、後の戦艦ではより新世代の装甲を用いる事で厚さを半分に減らすことになる。
機関は主機レシプロ蒸気機関2基、主缶石炭専燃缶10基で出力は13500hp、2軸推進で速力は18.3kt。
排水量12,649トン、全長114.2メートル、幅22.3メートル、出力13,678馬力、速力18.3ノット、航続力10ノットで7000浬、主砲300ミリ連装砲塔2基、副砲150ミリ単装砲10基、水中魚雷発射管4門、喫水線装甲457ミリ、甲板装甲64ミリ、砲廓152ミリ、乗員726人というスペックである。
主砲の30.5cm砲は386kgの砲弾を、最大仰角15度で13,700 mまでの射程を持った。
副砲の15.2cm速射砲は45.4kgの砲弾を、仰角20度で9,140mまでの射程を有し、片側4基ずつ計8基配置した。発射速度は毎分5〜7発であった。
近接戦闘用にフランス製の 4.7cm単装機砲を採用した。1.5kgの砲弾を仰角12度で5,944mまでの射程を有し、対水雷艇砲として単装砲架で20基を装備した。
発射速度は毎分20発であった。また、45.7cm魚雷発射管を単装で1基、水中装備で単装4基を装備した。

装甲巡洋艦「磐手」
「坂の上の雲」に登場する日露戦争時の軍艦。
日露戦争といえば日本海海戦、当時の軍艦と言えば当然「三笠」。でも、紹介するのは名脇役の装甲巡洋艦「磐手」。
日本海海戦では三笠等の戦艦群が第一艦隊、そして6隻の装甲巡洋艦群が第二艦隊、上村中将が司令官。
この装甲巡洋艦という艦種、第一次大戦のころまでにしか現れない。

当時の巡洋艦は速いことと武装のみが特徴であまり防御には力を入れていなかったとのことでしたが、日清戦争後、あまりに巡洋艦が非力なのでフランスが造りだしたのが、この艦種。
それを日本は日露戦争で6隻準備。
当然、まだ、日本には建造する能力はなく、外国製。
この磐手は6隻の装甲巡洋艦群の最終艦で、明治34年3月18日に姉妹艦出雲と同じアームストロング社エルジック工場にて完成。常備排水量:9773トン、主機:レシプロ機関2基・2軸、主缶:石炭専焼円缶×12 (1万4500馬力)、最大速力:20.75ノット、航続力:10ノットで7000海里という性能を持ち、武装は20.3cm45口径砲・連装×2、15.2cm40口径砲・単装×12、7.6cm40口径砲・単装×14、47mm砲・単装×8、45cm魚雷発射管・単装×4であり、装甲は舷側最厚部で178mmとなっていた。

第二次世界大戦では重巡洋艦に相当する船だが、日露戦争当時は戦艦自体も第二次世界大戦時の重巡洋艦程度、装甲巡洋艦の子孫は重巡洋艦ではなく、巡洋戦艦ということになる。
ただし、日本においては艦名を山の名前から取っているので、重巡洋艦が子孫となる。
第一次世界大戦で巡洋戦艦が活躍しますが、装甲巡洋艦も混在していた。
それがドイツの「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」、「ブルッヒャー」など。(第二次世界大戦でも同名の船が登場しますが、名前を引き継いだもの。)

日露戦争では「磐手」は明治37年8月14日の蔚山沖海戦でウラジオ艦隊の装甲巡洋艦と戦い、活躍、70名以上の死傷者という第二艦隊最大の損害を被りながらもウラジオ艦隊を撃滅。
そして翌38年5月27日の日本海海戦では第二艦隊の1艦として、戦艦群とともにバルチック艦隊に対し猛攻撃を加え、圧勝に貢献。
その後、第1次世界大戦では青島及び南洋群島の攻略作戦に参加、インド洋警備などに従事。
戦後、大正5年から昭和14年まで15回にわたり、少尉候補生の遠洋航海に従事し、後の太平洋戦争を戦うことになる多くの海軍将校の育成に大きな役割を果たす。
専用の練習巡洋艦香取型が就役すると、練習艦から第3遣支艦隊に所属変更、太平洋戦争開戦後は海防艦から再び一等巡洋艦に変更されるが、終戦直前の昭和20年7月24日、呉で米海軍機の爆撃により浸水着底し、翌年、解体される。まさに日本海軍の栄光から終焉までを見た艦だった。
太平洋戦争時の船に比べると35年以上の月日の差は大きく、古めかしい感じがしますし、非常に小さい。

(日本のその他の艦船)

氷川丸

横浜の山下公園に係留されている貨客船であるが、もう世界中でもほとんど存在していない戦前の船であり、存在自体が記念物・文化財であるといわれている。
それとともに戦争を生き抜いてきた輝かしい歴史を持つ船であり、チャプリンや山本五十六も乗船したという経歴を持つ。

もともとは、日本郵船がシアトル航路用に建造した12,000トン級貨客船3隻「氷川丸」「日枝丸」「平安丸」の1番船。
昭和5年(1930)に横浜で竣工建造され、船名は大宮(現 さいたま市)の氷川神社に由来する。

当時は、旅客機は存在しないので海外へ行くのは船しか手段はなく、客船文化の絶頂期であった。
当然ながら氷川丸もSOLAS条約を先取りした水密区画構造、アール・デコ(Art Deco)様式のインテリア、オーシャンライナーという船型、一流シェフによる料理などのサービスの提供など、当時の先端をいく船であった。
しかし、そんな時代は10年も続かず、戦争が近づくとシアトル航路は閉鎖され、船体と乗組員は海軍に徴用され、病院船へ改装された。戦争中は主に南方方面で活動した。病院船でも攻撃され、撃沈されることはあったが、氷川丸は幸運にも生き残ることができた。
三度にわたり触雷したという。沈没を免れたのは、荒れる北太平洋航路用に船体強度を強化していたことによる。
戦争が終わった後、日本に外洋を渡れる船は本船を含めて数隻しか存在しなかったという。
戦後は復員船に使用された後、日本郵船に復帰し、はじめは国内航路に使用され、昭和28年(1953)にシアトル航路に復帰した。

再就航したものの、船体は既に旧式化・老朽化しており、航空機の時代に成りつつあったため、昭和35年(1960)引退。
運航を終了するまでに北太平洋を238回横断、延べ25,000人余りの乗客を運んだ。
その後、山下公園に係留され、ユースホステルに改装された。
しかし、ユースホステルも衰退し営業は停止、船内の一般公開を続けていたが採算が採れず、一旦閉鎖し、改修工事後、再公開する予定という。
平成15年(2003)年に横浜市指定有形文化財に指定されたが、その指定対象として代表的な点が、内装である。
当時の流行の先端であったアールデコが採用された。
このアールデコとは、20世紀初頭に流行したアールヌーヴォーが「左右非対称の蔦のような”うねうね”デザイン」であるのに対し、科学技術(結晶構造や電波など)をイメージさせる「左右対称の”角ばったデザイン」で、ニューヨークの摩天楼に多く見られるが、日本では、氷川丸と旧朝香宮邸に見られるだけという貴重なものだという。