日本海軍 空母

隼鷹
旧日本海軍の航空母艦であり、建造中の日本郵船の豪華客船「橿原丸」(かしわらまる)を空母へ改装したものであるが、デザイン的には同時期の正規空母よりも優れている。
元はオリンピックが東京で開催されることが決定し、豪華客船の建造の気運が高まり、このため、日本郵船は昭和11年(1936)、に豪華客船の建造を計画。

この計画を知った海軍は有事には空母への改装、建造費全額政府負担という条件で建造計画を立てたが、この時には実現しなかった。
翌昭和12年に再度同様の案が計画されたが、大蔵省は建造費の政府負担を5割として譲らず、結局海軍が間に入り、政府負担6割として橿原丸、出雲丸の二隻の客船の建造が決定されたという経緯を持つ。
したがって、本来は東京オリンピックに参加する選手や観客を運ぶことが目的だったのである。
改造は昭和15年(1940)から開始されるが、客船としての工事が進んでいたため、かなり大変であったらしい。
外見上の特徴として煙突と一体化した大型の島型艦橋があげられる。


これは従来の空母のような下向きの煙突では被弾傾斜時に煙突からの浸水で沈没を促進するおそれが指摘されたための変更であり、新型正規空母として考えられていた大鳳の実艦実験の意味もあった。
結果は良好であり、大鳳、信濃にも採用され、戦後米海軍のジョン・F・ケネディ型空母に同様の艦橋を採用しているという。
ミッドウェーで主力の4隻空母が壊滅したため、第一線に立つことになるが、速力は正規空母の30kt以上に比較して26ktと遅く、装甲も元々、客船であったため薄く防御能力は見劣りしてたが、航空機搭載量は正規空母並みであり、大きな攻撃を持つ。
日本空母で初めてレーダーも本格的に搭載された。

アリューシャン列島への攻撃が初陣であり、最大の武功は南太平洋海戦での米空母「ホ−ネット」の撃沈である。
しかし、マリアナ沖海戦では2発の直撃弾と6発の至近弾を受け中破。
直撃弾は艦橋に命中し53名の戦死者を出す。
その修理や航空戦力の減退によりレイテ沖海戦には参加できなかった。
以降は搭載する航空戦力がなく、空母として使われることがないまま、輸送作戦に従事するようになる。
1944年(昭和19年)10月30日佐世保からブルネイへレイテ海戦から帰った栗田艦隊に弾薬を供給したのちマニラに寄港、航空魚雷の輸送を行い、11月17日無事に呉に帰投した。
同年12月9日再度マニラへの輸送任務から佐世保への帰投中、長崎県野母崎沖の女島付近で米潜水艦「シーデビル」と「レッドフィッシュ」による雷撃を受け、魚雷2本が艦首および右舷機械室に命中、艦首が10m吹き飛び、死者19名、浸水5000トンの被害を受けたものの、左片舷航行が可能だったため13ノットの速力でかろうじて佐世保に帰投した。

佐世保で修理・繋留され、1945年(昭和20年)3月末にドックから出渠したが、船体が修理されたのみで右側機械室は修理されないまま終戦を迎える。
戦後は引き上げに使う予定であったが、機関部の修理が完全に行われていなかったため、終戦後外洋航行ができず、11月30日除籍され、1946年(昭和21年)8月1日解体終了した。
数奇な運命に翻弄された船である。

基準: 24,140トン、全長219.32m、飛行甲板長さ:210.3m x 幅:27.3m、主機 ツェリー式オールギヤードタービン 2基2軸 56,250hp、
速力25.68 ノット、航続距離 18ノットで10,150海里(燃料: 重油 4,118トン )、
乗員 士官、兵員 1,187名、
兵装 (最終時)40口径12.7cm連装高角砲6基、 25mm3連装機銃19基、 25mm連装機銃2基、25mm単装機銃30挺(推定)、
12cm28連装噴進砲6基、
搭載機 (常用+補用)艦戦12+3機 艦爆18+2機 艦攻18+5機 合計48+10機(Wikipedia等を参考)

瑞鶴
太平洋戦争に参加した日本の軍艦の中でも最高の戦績を有する歴戦の空母である。
真珠湾のアメリカ戦艦群を仕留めた他、共同撃沈ではあるが、イギリス重巡「ドーセットシャー」、「コーンウォール」空母「ハーミーズ」、アメリカ空母
「レキシントン」「ホーネット」を撃沈。「ヨークタウン」「エンタープライズ」を大破した殊勲艦である。

本格的な正規空母として設計、建造され、ほとんどの海戦に機動部隊として作戦に参加した、最後の空母でもあった。
1938年(昭和13年)5月25日川崎重工業神戸造船所にて起工。1939年(昭和14年)11月27日進水。
1941年(昭和16年)9月25日に就役。

基準:25,675t、公試:29,800t、満載:32,105t、全長257.5m、16万馬力、34.2kt、乗員1712名(最終時)、兵装(最終時) 40口径12.7cm連装高角砲8基、25mm3連装機銃20基、
25mm単装機銃36挺 、12p28連装噴進砲、搭載機常用72機、補用12機というスペックである。
姉妹艦の「翔鶴」とともに第五航空戦隊を編成した。

外観は姉妹艦翔鶴と区別できないため、甲板前部に「ス」と書かいて区別した。
1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃に参加、58機が出撃し未帰還機ゼロ。
岩本徹三などの後の撃墜王が乗艦している。

1942年(昭和17年)4月、セイロン沖海戦に参加。
イギリス海軍の重巡「ドーセットシャー」、「コーンウォール」空母「ハーミーズ」を撃沈。
続いて、 1942年(昭和17年)5月、珊瑚海海戦に参加。空母「レキシントン」を撃沈し、「ヨークタウン」を大破したが、受けなかったが、多数の艦載機と搭乗員を失い、再編のため日本本土へ戻った。
そのためミッドウェー海戦には参加できなかった。

1942年(昭和17年)8月、アメリカ軍のガダルカナル島上陸に呼応して「翔鶴」、「龍驤」らと共に南東方面へ進出。
10月26日にはアメリカ軍機動部隊と交戦(南太平洋海戦)し、他艦と共同で「ホーネット」を撃沈、「エンタープライズ」を大破。

しかし、その後、日本軍は敗退を続け、1944年(昭和19年)6月19日、20日マリアナ沖海戦に参加。
艦載機を多数失い、20日空襲により艦橋を小破した。
この海戦で姉妹艦「翔鶴」が潜水艦からの雷撃で沈没した。

このころ、各種電探を装備するとともに、25mm機銃が増備された。
そしてレイテ沖海戦を迎える。

瑞鶴には迷彩塗装が施されたり、対空噴進砲(対空ロケットランチャー)8基を装備した。
小沢治三郎中将が指揮する囮部隊の旗艦として出撃。

艦隊は、空母「瑞鶴」、軽空母「瑞鳳」、戦艦「伊勢」、軽巡「大淀」、駆逐艦4隻の第1群と、軽空母「千歳」、「千代田」、戦艦「日向」、軽巡「多摩」、「五十鈴」、駆逐艦4隻からなる第2群に分かれていた。

10月24日午前11時30分、「瑞鶴」から零戦16機、爆装零戦16機、彗星2機、天山1機(彗星と天山は誘導・戦果確認)が発進。
25日朝、アメリカ軍の第一波空襲を受ける。

8時35分、爆弾1発が命中。
2分後に魚雷一本が左舷に命中するが、修理により復旧、火災も鎮火。
囮の役目を果たすべく北上を継続し、アメリカ軍機動部隊の誘致に成功したことが発信されるが、その通信が栗田艦隊には届かなかった。

アメリカ軍第二波攻撃隊の攻撃では被害は少なかった。10時54分、小沢は「大淀」に旗艦を移す。

13時頃から始まった第三波攻撃は、「瑞鶴」に集中。左舷に4本、右舷2本の魚雷、爆弾も5−7発命中し、火災が発生。
迎撃継続が困難となり、最終的に傾斜が増して旋回不能となる。

13時55-58分頃総員退艦が発令された後、瑞鶴は左に傾斜してゆき、14時14分沈没。真珠湾攻撃に参加した日本の空母6隻のうち、最後まで残ったのがこの瑞鶴である。
瑞鶴の喪失で日本は空母戦力の大半を失い、ここに、事実上、日本海軍の機動部隊は壊滅した。(wikipedia等を参考)

加賀
日本海軍が計画した八八艦隊の戦艦3番艦が加賀である。
1920年(大正9年)7月19日起工されたが、ワシントン海軍軍縮条約に従い1921年(大正10年)2月5日に建造中止が決まり、廃棄処分の決定がされ、巡洋戦艦から航空母艦に改造される予定だった天城型巡洋戦艦「天城」と「赤城」の材料となる予定であった。
しかし、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災で、改装中だった「天城」が大破して破棄されることとなり、加賀を空母に改造することとなった。

戦艦としては、「長門」型が41センチ砲連装塔4基8門であったのに対して、1基砲塔数が増加して5基10門となり、完成していれば大和が出現するまでは、世界最強の火力を持つ戦艦になったはずであった。
速力の面では、「長門」型より新式で91000馬力を発揮する新式機関を搭載し、排水量が40000tになったにも関わらず、26.5ktの高速が可能な見込みであった。

空母に改造することになったが、空母の運用研究は始められばかりであり、当時の日本海軍には実験性の高い小型空母の「鳳翔」しかなく、戦艦からの改装も日本海軍初であり、模索の中で進められた。
三層の飛行甲板を持つ三段式空母案が採用されたが、運用の実際や航空機の大型化を予測しきれず数々の問題が浮上した。
1934年(昭和9年)6月より改装工事が着手され、問題の多かった排煙方式は「赤城」と同じ弯曲煙突式とし、位置を機関上部右舷に修正した。

また三段式飛行甲板から一段甲板とした。最上段の飛行甲板は船体長を上回る長さになり、離着陸の滑走距離が大幅に延長された。
中下段の飛行甲板の廃止により航空機の格納スペースも増加し、搭載機数も90機に増加している。
速力についても、機関出力の増大と艦尾延長により、それまでの実速度26.7ノットから28.3ノットまで向上した。

「加賀」の初の実戦参加は1932年(昭和7年)第一次上海事変で、これは「鳳翔」とともに史上初の空母の実戦参加でもあった。
初の機動部隊を編成し、2月22日ボーイング218を撃墜し、これが空母艦載機による初の撃墜であった。

しかし、中国軍航空隊がカーチス・ホークVを投入すると艦攻隊は大損害を受け、戦闘機を護衛につけるようになり、多くの実戦経験を積んで大東亜戦争に突入することになる。
開戦時には「赤城」とともに第一航空戦隊を編成し、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃に参加した。

この攻撃での航空隊未帰還機は計29機。うち15機が加賀機であった。
1942年(昭和17年)1月20日、ラバウル攻撃、21日、カビエン攻撃、22日、第二回ラバウル攻撃、2月19日、ポートダーウィン攻撃、3月1日、米給油艦「ペコス」、駆逐艦「エドソール」を撃沈、5日、ジャワ島チラチップを攻撃


そして運命の6月のミッドウェー海戦には、「赤城」「蒼龍」「飛龍」の3空母とともに参加。
6月5日ミッドウェー基地攻撃のための第1次攻撃隊が発進、午前5時ごろ「加賀」に戻る。
機動部隊はB-17爆撃機やSBDドーントレスの襲撃を受けたが直掩機で撃破、米軍機動部隊発見の報告で艦上攻撃機に魚雷を装着するなど出撃準備中、雲間よりSBDドーントレスの急降下爆撃で4発が命中。
艦橋の近くの給油タンク車に命中した一発は大爆発を引き起こし、格納庫内の航空魚雷や爆弾、艦載機が次々と誘爆し炎上、手がつけられない状態となる。
飛行長が総員退去を決めた。16時25分に2回の大爆発が起き、日が暮れてまもなく、沈没した。
岡田艦長以下約811人が戦死した。

鳳翔
最初から航空母艦として設計・起工され、世界で最初に完成し、世界で始めて実戦投入された空母である。

それまでの空母は巡洋艦などを改装した空母はあったが、それなりに中途半端なものであったという。
とは言え、この艦も試行錯誤の点が多く、実験艦、試作艦の域は出なかった。
排水量は基準:7,470トン、満載:10,500トンと小さく、甲板も全長が最終時で179.5mに過ぎなかった。

建造当初は3本煙突と、アイランド構造の艦橋を持っており、既に現在の空母の雛形をしていた.。
艦体が小さかったことから、アイランド式艦橋も煙突も、甲板を狭くするとともに発艦、着艦時の障害となり、どちらも運用上の障害となり、1924年(大正13年)に煙突は横から倒した状態とされ、アイランド艦橋も撤去され、フラットデッキ化された。
しかし、元来の艦型が小型で、日本海軍が艦載機用カタパルトを実用できなかったため、複葉布張りの軽量な複葉機なら問題なかったが、全金属製の太平洋戦争開戦後の大型化し重量のある新型機を運用することは不可能だった。

なお、1936年当時、「鳳翔」には航空用ガソリンタンクがなく、航空用ガソリンを石油缶に詰めて艦内に保管していたので、煙草どころかライターの持ち込みも厳禁だったというとんでもない話が残る。
でも、その後の空母設計、運用の重要なデータが得られたという。

艦歴としては 1932年(昭和7年)2月、上海事変に参加。
これが空母が実戦を経験した世界初のことである。
さらに搭載機が日本空母機として初の撃墜を記録。1937年(昭和12年)8月、日中戦争にも参加。
1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦では九六式艦上攻撃機6機を搭載し、戦艦部隊の直衛を行なう。
大破して漂流する飛龍の有名な写真があるが、これは鳳翔の搭載機が撮影したものである。

その後、新型機に対応するため飛行甲板やエレベーターを拡大したが、艦のバランスが崩れたため、荒い波の外洋には出れず、訓練用空母として内海で運用され、多くのパイロットを養成し、無傷で終戦を迎える。
戦後は甲板を短縮し、武装を撤去したため、外洋航海が可能となり、復員輸送艦として使われ、南方間を9往復して、およそ4万人の将兵と民間人を輸送するという大活躍をする。
役目を終えた後、1946年8月31日〜1947年(昭和22年)5月1日、大阪の日立造船桜島工場で解体され、その波乱の生涯を閉じた。(Wikipediaを参考)


信濃

太平洋戦争中に建造された世界最大の空母である。
大和型戦艦の3番艦として計画されたが、ミッドウェー海戦での空母の大量喪失を期に急きょ空母に改造され、昭和19年11月19日に空母として竣工。
全長266m、排水量62,000tと巨大であり、大和同様の強力な舷側装甲に加え、大鳳同様、500kg爆弾の直撃に耐える装甲飛行甲板を持つ重防御であったが、艤装工事に向かう途中、潮岬沖でアメリカ潜水艦の魚雷4発を受け転覆。
実戦に参加することなく沈没してしまった悲劇の空母である。
姉妹艦3隻とも悲劇に見舞われた訳である。
上甲板までは大和の船体そのものであり、その上に一層の格納庫と飛行甲板を設けた。
艦橋は大鳳同様の斜め煙突を持つ島型艦橋である。
搭載機数は大鳳同様、重装甲のため50機程度と少ない。
工事は突貫工事で進められ、資材の不足に悩み工程省略が行われた。
結局、これが命取りとなりわずか4発の魚雷でで没することになる。

突貫工事のため、密閉が不完全で浸水が止まらず、乗員も慣れておらず、処置に手間取ったという。
竣工からわずか10日の命であった。
しかし、史実どおりでなかったとしてもこの頃の日本の力では似たような運命をたどったのだろう。

大鳳

太平洋戦争中、日本が建造した唯一の大型正規空母であるとともに悲劇の空母である。
排水量は29,300t,速力33ノット、戦闘での知見を反映し、装甲甲板を持つ、今までの日本空母の概念とは異なるイギリス型の重装甲空母であった。

このため、重心を下げざるを得なく、格納スペースが犠牲となり、艦載機は53機と少ない。
同時期のアメリカが大鳳と同規模のエセックス級を量産したのに比べれば工業力の差は歴然としており、負けて当然で有ったともいえる。

従来の日本空母のような、波浪の前甲板への打ち込みを防ぐために標準的なオープン・バウではなく英空母のようなクローズド・バウを持つ。
また、右舷中央部に煙突と一体として設けられた大型の島式艦橋を持ち、傾斜煙突を採用している。
昭和19年3月、竣工するとただちに機動部隊の旗艦となり、「マリアナ沖海戦」を迎える。
しかし、この海戦で攻撃隊が発進するちょうどその時米潜水艦による雷撃を受け、右舷前部に1発被雷する。
この被雷による大きな損害はなく、作戦行動を継続していたが、この被雷によって船底の軽質油庫からガソリンが漏れて気化し、この気化ガスに引火、大爆発を起こし、竣工後わずか3ヶ月であっけなく沈没してしまった。


飛竜

蒼龍の姉妹艦として昭和14年7月に完成した17000tの排水量と222mの飛行甲板、35ノットの高速を持つ中型空母。
搭載機は73機と多い。
蒼龍の姉妹艦とは言え、別設計で実質は大きく異なる。
開戦時、蒼龍と共に第2航空戦隊を編成し、真珠湾攻撃に参加、その後インド洋作戦に従事。
昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦では赤城、加賀、蒼龍が攻撃能力を失うが、難を逃れ、アメリカ空母ヨークタウンを反復攻撃で大破させる。

しかし、急降下爆撃の攻撃を受け、装甲甲板ではないためもあり、大破炎上。味方駆逐艦の魚雷で処分される。
信濃や大鳳に比べれば、真珠湾攻撃、インド洋作戦そしてヨークタウンとの刺し違えとまだましな艦生を辿ったと言えるだろう。