日本海軍 戦艦

航空戦艦 伊勢
発売される模型の種類数を見ると日本の戦艦で大和の次に人気のある戦艦が伊勢、日向だろう。
何と言っても、伊勢、日向の魅力は前が戦艦、後ろ半分が空母という姿だからである。
小学生のころ、扶桑に続いて作ったプラモデルが伊勢だった。当然、「航空戦艦」だからである。

航空戦艦、今で言う「ハイブリット」である。
巨砲の砲撃力と航空機によるアウトレンジ攻撃力の2つの機能の組み合わせは非常に魅力的である。
一石二鳥の欲張ったものであるが、逆から見れば中途半端であり二兎を追うもの・・って、やつである。

結果として伊勢、日向も航空戦艦として活躍することはできなかった。
余りに欲張ったこともあるだろうが、もともと航空戦艦構想、昔からあったのであるが現在に至ってもどこも実現できていない。構想自体に無理があるのだろう。

実際、伊勢、日向は第1次世界大戦以前の世代の鈍足の旧式艦であり、欠陥を持った扶桑型の改設計版に過ぎなく、改装を重ねたが性能的には既に限界。第二次世界大戦時、日本海軍も使用先もなく持て余していた艦である。
改造しなければ、扶桑、山城のような悲劇で終わった艦となったかもしれない。
しかし、航空戦艦に改造されたことで、現在も高い人気を得ている。
また、実戦においては対空火器を満載し、後部の航空甲板にも対空火器を大量に搭載したことで、エンガノ岬沖海戦で航空攻撃から身を守ることが可能となり、多数の敵機を撃墜している。


伊勢は伊勢型戦艦の1番艦。艦名は三重県の旧国名、その名は海上自衛隊のひゅうが型護衛艦の2番艦「いせ」に引き継がれている。
当初は扶桑型戦艦の3番艦として建造が予定されていたが、扶桑型に砲力や防御力、運用面等で欠陥があったため、設計変更が行われた。
これが伊勢であり、姉妹艦が日向である。
1915年(大正4年)5月川崎重工業神戸造船所で「第五号戦艦」として起工。
1916年(大正5年)11月12日に進水。1917年(大正6年)12月1日就役した。
しかし、ほぼ同時期に38cm砲を搭載したクイーン・エリザベス級戦艦が出現し、完成時に既に旧式になってしまった。

順次、主砲仰角角度拡大工事を始め、近代化改装を実施し、水平防御力や主機の出力向上と煙突の統合、注排水装置を増設、艦尾の7.3m延長、バルジ装着による水中防御力の強化などの改修が行われた。
これにより、老艦ながら総合能力では太平洋戦争開戦時でも世界標準を保っていた。
しかし、鈍足であり、旧式なため乗組員を多く必要とし、燃費が悪いなどコストパフォーマンスが悪く、日本海軍は本艦を持て余している状態であった。
太平洋戦争では真珠湾攻撃を行った機動部隊の空母が損傷した場合の曳航用に出航したり、波長1.5mの試作レーダーを装備し、アリューシャン諸島方面に進出したが、戦闘を交えることはなかった。

しかし、ミッドウェー海戦で主力空母4隻を喪失したことが艦の運命を変える。
海軍は、空母の数を揃えるため、旧式の扶桑型戦艦と伊勢型戦艦の空母改造を検討し、予算の制約から「伊勢」と「日向」の改装を決定した。

そして、後部主砲塔二基を撤去し、航空機用作業甲板、格納庫、射出機を設け、搭載機数22機という軽空母なみの航空打撃力を持つ航空戦艦へと改装された。
工事は呉工廠で1942年12月に始まり、1943年9月に完了。
改装後、格納庫を利用して主砲弾等をトラック島へ物資を輸送した。
結局、輸送船として使われた。その後も艦載機の搭載はなく、水上偵察機瑞雲14、彗星艦上爆撃機8を搭載することになったが、1944年10月の台湾沖航空戦で消耗。そして、「伊勢」と「日向」は艦載機なしで空母、瑞鶴などの機動部隊をの護衛し、10月20日にレイテ沖海戦に向かう。エンガノ沖海戦では空母は壊滅するが、対空戦では松田司令官の発案した弾幕射撃が効果を挙げ、航空機多数撃墜(30〜70機)を報告している。
特に、巡航速度で航行し、敵艦上爆撃機が降下態勢に入ると同時に急転舵する爆弾回避術も大いに効果をあげた。

空母壊滅後、「伊勢」と「日向」は米軍艦隊を求めて南下したが、会敵しなかった。
10月29日、「伊勢」は呉に戻り。「北号作戦」に参加する。11月9日、佐世保を出港、南方に向かい、1945年(昭和20年)2月20日、奇跡的に無傷で呉に帰還を果たす。
この後、燃料不足のため行動不能な状態のまま呉港外・音戸町坪井沖に停泊。
7月24日、28日の米軍艦載機の空襲により直撃弾11発を受けて大破着底。終戦後、引き揚げられて解体された。

航空戦艦改装後のスペックは次のとおり。
公試排水量:38,662 t
全長 219.62 m
全幅 33.83 m
吃水 9.03 m
機関 ロ号艦本式缶8基、 艦本式ギアード・タービン4基4軸 81,050hp
速力 25.31 ノット
航続距離 9,500海里/16ノット
乗員 1,660名
兵装 35.6cm連装砲4基
12.7cm連装高角砲8基16門
12cm28連装噴進砲6基
25mm3連装機銃31基、同単装11挺

扶桑

この船、現在では知名度はあまりないというか、マニアを除けばほとんどないと言った方がいい。
悲惨な最期を遂げた悲劇の船であるが、その不幸な陰の部分にどこか魅かれるのである。
この船、個性が強い。
何しろ艦橋がひょろ長く異様である。高さは50mもある。
日本の戦艦は艦橋が高いのでパゴダマストと呼ばれるが、その象徴的な艦が扶桑である。
このため、非常にアンバランスなイメージがある。

しかし、この船、管理人にとっては思い入れがある。
それは、小学校の時、始めて親にプラモデルなるものを買ってもらったのがこの船だったからである。
でも、普通は初めて買うのは、だいたいゼロ戦、大和などじゃないかと思うだろうが、なぜかこの艦なのである。
どうしてこの艦だったかは、いまだに分からない。

戦前の戦艦と言えば大和、長門など旧国名を冠しているが、この艦は違う。日本を表す別名を冠している。
この艦以前に戦艦には旧国名を冠しているが、この艦のみが違うのはある種の思い入れがあったからであろう。
何しろ完成時は世界で始めて3万トンを超えた戦艦であり、主砲数も世界一、世界最強の戦艦だったからである。


日本海軍最初の超弩級戦艦として1911年(明治44年)に呉海軍工廠で建造が開始され、1915年(大正4年)11月8日に竣工。3万t級の巨艦をドックで建造することは、世界初の試みであったという。
35.6p連装砲塔6基12門の主砲を搭載する最重武装艦であった。速力も当時の戦艦としては比較的高速の22.5ノットとなり、世界最大最武装最速の戦艦であった。

しかし主砲(火薬庫)が3か所に分散配置されたため、全長の5割に達する長大な被弾危険箇所(弾薬庫等)、6割に達する砲塔配置(金剛型は33%)という防御上の弱点が見つかった。
この問題は準同型艦の伊勢型戦艦では改善されたが、防御能力にも問題を残し、海軍も欠陥戦艦という認識を持っていた。
そして、その欠陥は解消されず、それが露呈したのがこの艦の最期の時である。
第一次近代化改装として1930年(昭和5年)4月から1933年(昭和8年)5月に工事を行い、この時に増設した艦橋の頂上までの高さは、およそ水面から50m以上にも達し印象のある艦橋形状となった。
第二次近代化改装は、第一次から僅か一年後の1934年(昭和9年)9月16日から行われ、バルジを増設等を行った。

太平洋戦争では、すでに旧式化し、練習戦艦になったりして二線級の扱いだった。
改装も予算不足のため行われず、建造当初から指摘されていた被弾危険箇所の多さは終始改善されることはなかった。
それが1944年10月25日、スリガオ海峡夜戦の時、この防御上の欠陥が魚雷4本命中ののち弾薬庫に引火大爆発という最悪の形で露呈し、艦が二つに折れ、艦長以下生存者ゼロという悲劇を生んでしまった。

霧島
金剛型戦艦の4番艦。
旧日本海軍の戦艦には旧国名を付ける習慣となっているが、本艦の名は、宮崎県と鹿児島県の県境に広がる霧島山にちなんで命名されている。
これは霧島は建造当初、戦艦ではなく、巡洋戦艦として誕生し、日本海軍の命名慣例で巡洋戦艦、重巡洋艦には山の名を付け、それが引き継がれたことによる。
なお、霧島の名は海上自衛隊のこんごう型護衛艦の2番艦きりしまに受け継がれている。

イギリス製の金剛の国産版が、榛名、比叡そしてこの霧島であり、三菱重工業長崎造船所で1912年(明治45年)3月17日、起工。
1913年(大正2年)12月1日進水、1915年(大正4年)4月19日、佐世保鎮守府所属として就役。
1930年に第一次近代化改装を受け、水平防御と水中防御装甲の増設及び、魚雷防御のためバルジを装着、機関出力は向上したが、速力は低下。
しかし、1936年に第二次近代化改装を受け、装甲防御並びに、機関出力が改装前の倍近くの136000馬力へと強化され、約30ノットの高速を発揮する高速戦艦に生まれ変わった。

1941年太平洋戦争開戦時には、比叡と共に第3戦隊第2小隊を編成、真珠湾攻撃、インド洋作戦、ミッドウェー海戦に参加。
当時、高速を有する空母機動部隊に随伴し、護衛できる戦艦は当時はこの金剛級のみであった。

1942年11月15日、第三次ソロモン海戦が勃発、アメリカ艦隊と至近距離での砲撃戦を展開する。
この時、霧島の主砲にはヘンダーソン基地艦砲射撃の為、三式弾が準備されていたが、霧島は対艦戦闘用の徹甲弾に変更せず、そのまま、三式弾で戦艦サウスダコタを攻撃。
サウスダコタは日本艦隊から42発の命中弾を受け、艦橋はスクラップとなり大破、電気系統の障害を起こして射撃不能となる。
しかし、機関は健全であったため戦場からの離脱に成功。

しかし、霧島はサウスダコタの後方にいた戦艦ワシントンを確認できず集中砲火を浴びる。
近距離での砲撃により、霧島は戦闘開始後わずか7分にして9発(6発説も)の命中弾を受けた。
後部の三番、四番主砲は揚弾機が破壊され使用不能となり、艦橋も大破。
艦上は大火災となった。打撃から立ち直った霧島は残った主砲で猛然と反撃を開始。
しかし、火災は消し止められたものの、舵取り室が破壊されたため操舵不能となり、左に旋回を続けて戦列から脱落した。
霧島は人力操舵で対応したが、蒸気パイプが破損して高圧蒸気が噴出し、機関科員の殆どが戦死し、艦は停止する。
艦長は総員退艦を命じ、キングストン弁を開いて自沈処理を行い、15日午前1時30分、サボ島西方で沈んだ。
乗員1300名のうち、200名が戦死し、生存者は駆逐艦などに救助された。

前日は比叡が沈没し、この2隻の沈没は日本海軍にとっても大きな衝撃となり、以降の海戦での戦艦投入に慎重になった事で、結局、大和などの戦艦を有効戦力として活かすことができなかった。
と言うより、大和を出し惜しみ、比叡、霧島の喪失に繋がったとも言える。
その一方、アメリカ海軍は新鋭艦を最前線の投入するなどしており積極的であった。
もし、この海域に大和を投入し、魚雷の欠陥がなかったら、サウスダコタ、ワシントンは撃沈されていたと思われ、ガダルカナル島は日本軍が確保し、その後の展開も違ったものになったはずである。
結局、太平洋戦争で満足な活躍した日本戦艦は、すでに老朽化してた金剛級4姉妹だけだったのである。
1993年、海底調査によって、完全に転覆している霧島の船体が発見された。
沈没地点の水深は900メートル。
排水量:36,668トン、全長222.65m、全幅31.01m、主機艦本式タービン 2基4軸 136,000馬力、最大速力29.8ノット、航続距離 9,850海里 (18ノット時)

大和
大和ほど日本人の心を捉える船はないであろう。
大和に係る本や映画がいったいいくつ存在するのか分からないが、おそらく膨大なものであろう。
なぜ、大和なのかと言えば、日本人の大好きな悲劇性をこの船から感じるからなのだろうか?

日本人の大好きな歴史の英雄、義経、楠木正成、真田幸村、彼らも皆、最後は悲劇で終わるが、彼らと大和には何となく共通点を感じる。
ただ決定的に違うのは、義経らは最後は悲劇で生涯を閉じるが、大きな戦績を残しているのに対し、大和には戦績らしいものは特にない。
戦績なら空母「瑞鶴」、駆逐艦「雪風」の方が遥かに勝っていた。

能力は持っていた(らしい)が、結局発揮できずに生涯を閉じた点が異なる。
まるで結城秀康、松平信康、豊臣秀頼のようである。
この船について余計な解説は不要であろう。

長門

太平洋戦争開戦の「ニイタカヤマノボレ」の暗号を発信した連合艦隊旗艦であり、終戦時に稼動状態にあった唯一の戦艦。
さらに原爆実験に使われたという数奇な運命をたどった船である。


大正6年(1917)8月28日に八八艦隊計画の第一号艦として広島県の呉海軍工廠で起工、大正8年(1919)11月9日に進水。
当時世界最大の連装41cm主砲塔4基と26.5ノットの(当時としては)高速を持つ排水量32700tの戦艦として完成した。
ワシントン海軍軍縮条約において41cm(16インチ)砲搭載艦の建造が制限されたため、長門と姉妹艦の陸奥、イギリスのネルソン級2隻、アメリカのコロラド級3隻とともに世界最強の戦艦としてビッグ7と呼ばれた。
建造当初、煙突の排煙処理が問題となり、第一煙突にカバーを付けたが、効果はなく、大正13年(1924)屈曲煙突に変更した。
この姿が非常に印象的である。
この構造の煙突が後に重巡洋艦の煙突形状に影響を与えた。

昭和11年(1936)大規模な改装を行い、ボイラーの換装を行い煙突を1本とし、装甲の追加、対空機銃の増設を行っている。
この他、前檣および後部指揮所の形状も大きく変えた。

両舷にバルジを設ける等で防御能力は向上したが、排水量は39000tと大きくなり、速力は25ノットに低下した。

長い間、長門は日本海軍の象徴であり、太平洋戦争開戦時は連合艦隊旗艦であった。

しかし、太平洋戦争中は大和同様、主力艦として温存され、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦に参加はしたがそれほどの戦闘は行っていない。
長門が主砲を放ったのは昭和19年(1944)10月のサマール島沖開戦が唯一のものであるが、戦果は不明という。
この海戦では数発の爆弾を受け、多数の戦死者を出している。

11月に横須賀港に到着するが、その後は燃料不足で外洋に出られず、昭和20年6月1日には特殊警備艦に艦種変更され副砲及び、対空兵装が陸上げされ廃船状態となった。
7月18日には空襲で3発の爆弾を受け小破したが、沈没は免れ、終戦まで生き残った。
結局、戦艦としては満足に戦うチャンスが無かった訳である。
しかし、長門の数奇な運命はこれで終わらない。
日本降伏後、昭和20年(1945)8月30日にアメリカ軍に接収され、原爆実験に使うためマーシャル諸島のビキニ環礁に回航され、昭和21年(1946)7月1日の実験では沈まなかったが、7月25日の水中爆発実験の4日後の7月28日深夜から29日未明にかけての夜間に、艦内への浸水によって転覆沈没した。
現状は上下逆さまで沈没しており、海底と衝突して艦橋部分は折れている状態という。

榛名
4隻からなる金剛型戦艦4姉妹の3番艦であり、大正初期に巡洋戦艦として誕生した。
ちなみに2番艦が比叡、4番艦が霧島である。
大正末期に第一次改装が行われ、武装、防御とも強化されたが、速力は落ち、戦艦へと艦種変更された。
その後、昭和9年に第二次改装が行われ、速力30ノットの高速戦艦として生まれ変わった。
太平洋戦争ではこの4姉妹が高速性能を生かし、機動部隊の護衛や戦闘で活躍した。

主砲は36cm連装砲4基を持ち、3番砲塔と4番砲塔が離れた独特のシルエットで、無骨ではあるがスマートで美しいシルエットを持つ。
艦橋は巨大かつ高く、日本海軍戦艦特有のパゴダマストと呼ばれる。

機動部隊の護衛として南方作戦、ミッドウェイ海戦、マリアナ沖海戦を戦う他、ガダルカナル島の戦闘では金剛と一緒に飛行場を砲撃し、大損害を与え、サマール島沖では護衛空母部隊を攻撃し撃沈している。


日本の戦艦の中では金剛とともに最も戦績がある戦艦といえるであろう。

しかし、燃料欠乏で呉軍港に係留され、昭和20年7月28日、呉軍港で米軍機の爆撃で20発以上の命中弾を受け、大破着底し、戦後、解体された

天城型巡洋戦艦 対空兵装強化型
の船は実在しない幻の船である。
とは言え、建造途中までは存在し、そのうちの1隻は当初の姿は変えているが、太平洋戦争を戦っている。
それが空母「赤城」である。


天城型巡洋戦艦はもともとは、日本海軍が計画した八八艦隊の巡洋戦艦である。
八八艦隊とは、第一次世界大戦中のユトランド沖海戦の戦訓を元に、日本海軍が構想した戦艦8隻、巡洋戦艦(当時は装甲巡洋艦)8隻の艦隊計画である。
8隻の建造予定であった巡洋戦艦の前半の4隻が天城型巡洋戦艦であり、1917年(大正6年)に「天城」と「赤城」が、1918年(大正7年)に「高雄」と「愛宕」の建造が帝国議会で認められ、4隻の建造に着手した。

しかし途中、1922年(大正11年)ワシントン海軍軍縮条約締結で建造計画は中止となり「高雄」「愛宕」の2隻は破棄された。
「天城」と「赤城」の2隻が航空母艦に改装が検討されたが、「天城」は1923年(大正12年)9月の関東大震災で船台からキール(竜骨)が落ち大破。修復困難と判断され、そのまま解体となった。
それに代わり、八八艦隊の3番艦戦艦「加賀」が空母に改造された。
なお、八八艦隊の戦艦のうち、最初の2隻、1番艦、2番艦が「長門」「陸奥」、その後が「加賀」であった。

火力は41cm連装砲塔5基10門というので、「長門」より強力である。主砲は艦首部分に2基、中央および後部に連3基を置く。
しかも時速30ノットという高速力を持たせるため、細長い形となり、全長は250mを超える。
しかし、装甲は加賀型の戦艦よりは若干薄いが、傾斜甲鈑やバルジを採用、甲板装甲を最大95mmとするなどで、長門よりも防御力は上回ると評価される。
排水量は41000tに達する。煙突は2本であるが、煙突を上部で一本化させた集合煙突とする予定だったともいう。
機関出力は4軸合計13万1200馬力に達し、重油専焼缶と石炭混焼缶の併用であり、日本海軍の大型艦で初めて10万馬力を超えた。

この天城型巡洋戦艦、計画通り完成していたらどんな姿となり、どのように改装させ、どのような活躍を演じたかは、イフの世界である。
いくつかのSF戦記小説に登場することもある。長い全長と直立の2本煙突、どことなくイギリスの巡洋戦艦「フッド」と似る。
排水量及び全長も似た数値である。
完成したとすれば昭和初期、まだ航空機はそれほど脅威とはなっていない時期である。

しかし、10年後には航空機時代の到来は明白になり、対空兵装を充実させる必要が生じる。
写真は「フジミ」の「巡洋戦艦天城」をベースに、12.7p高角砲、25o機銃等の対空火器を付加し、水上機も搭載させてみた。
12.7p高角砲は巡洋艦搭載用の連装シールド型を採用した。
本来は艦橋自体が大きく改変されるとは思うが、あまり改装しすぎると建造時のオリジナルの姿が分らなくなってしまうので「フジミ」の模型の姿は極力、変えていない。
まあ、架空の船なのでどんな姿にも思ったように変えることができるのであるが。