第二次世界大戦 日本軍機 (海軍機)

九九式艦上爆撃機
太平洋戦争初期に活躍した日本海軍の艦上急降下爆撃機。通称「九九式艦爆」、「九九艦爆」。この機も零戦や97式艦攻など多くの日本機同様、初期の栄光と後半での悲劇・屈辱に彩られた機種である。
愛知航空機がドイツのハインケル He 70を参考に、試作、全金属製・固定脚、主翼両側下面に急降下制動ブレーキ板(ダイブブレーキ)を配置し、主翼は低翼式、楕円形の主翼が特徴。ドイツのユンカースJu87急降下爆撃機とイギリスのスピットファイアを組み合わせたような感じである。
Ju87同様、固定脚という古臭い形状であったが、急降下時の安定性には優れていたという。
昭和13年(1938年)に初飛行に成功。不具合の解消を図り、昭和14年12月16日、「九九式艦上爆撃機一一型」として海軍に正式採用。エンジンは三菱の1070馬力の金星四四型(または四三型)が搭載され、最高時速は380q、爆弾搭載量は250s、60s×2、武装として7.7mm機銃、機首に2門、旋回銃1を持っていた。太平洋戦争の中期になると低速で性能不足となったため、エンジンを金星五四型(1300馬力)に換装した二二型(D3A2)が採用され、速度は時速430qとなり、上昇力も向上したが航続性能は低下した。

九九艦爆は、零式艦上戦闘機・九七式艦上攻撃機と共に、太平洋戦争前期の日本海軍の快進撃を支え、真珠湾攻撃やセイロン沖海戦などで大活躍する。
真珠湾攻撃では78機が参加、戦艦ネバダに6発以上、戦艦メリーランドとペンシルベニアに1発、軽巡ヘレナとローリーに1発、駆逐艦カッシン、ダウンズ、ショーに1発が命中した。
続いて、南方攻略作戦に参加。
昭和17年2月19日のポートダーウィン攻撃では飛行場施設と艦船に大打撃を与え、在泊していた46隻中、21隻を撃沈、湾外で2隻撃沈、米軍水上機母艦「ウィリアム・B・プレストン」、大型貨物船9隻を大破、合計4万3429トンを撃沈。3月1日にはクリスマス島沖にて給油艦ペコス、駆逐艦エドソールを撃沈。3月5日のジャワ島チラチャップ港空襲では、商船3隻を撃沈、洋上では商船「ブーラウ・ブラス」、「ウールガー」を撃沈。
最も特筆されるのが、セイロン沖海戦である。
4月5日イギリスの重巡洋艦コーンウォールとドーセットシャーを、53機が攻撃、攻撃開始からわずか二十分足らずで撃沈。
同9日、バッティカロア沖にて空母ハーミーズと駆逐艦ヴァンパイア、コルベット ホリホック、給油船アセルステーン、ブリティッシュ・サージャントが、85機の攻撃で撃沈した。
ハーミーズは45機が攻撃、爆弾37発を命中させ、平均命中率は82%であったという。
この頃が栄光の最盛期であり、その後、敵の防御能力向上と防弾性能や速度が劣ったことから、徐々に損害も増大していく。

昭和17年5月7日の珊瑚海海戦には翔鶴と瑞鶴の艦爆隊が投入され、駆逐艦シムスを撃沈しタンカー1隻を撃破した。
翌8日には33機が攻撃に参加、空母レキシントンに250kg爆弾2発、ヨークタウンに1発の命中弾を浴びせ撃破した。
レキシントンはその後沈没、この海戦での損失は9機。
ミッドウェイ海戦では赤城、加賀、蒼龍が被爆後、飛龍から2度にわたって反撃を行い、爆弾3発を命中させヨークタウンを撃破(後、イ16の雷撃で沈没)するが、18機中13機を失う。

昭和17年8月24日の第二次ソロモン海戦では翔鶴と瑞鶴の艦爆隊27機が空母エンタープライズを攻撃、3発の命中弾を与え中破させるが、23機を失う。
昭和17年10月26日の南太平洋海戦では、瑞鶴隊21機が空母ホーネットに命中弾5発を与え、翔鶴隊19機はエンタープライズに3発を命中させ、隼鷹隊17機が軽巡サン・ジュアンと戦艦サウスダコタに命中弾1発を与えた。
さらに4機が漂流状態のホーネットを攻撃して1発を命中させたるが、。艦爆隊は合計で40機を失う。

この海戦後、運用できる空母は隼鷹のみとなり、空母の艦爆隊は陸上基地から出撃、78機が参加し、多数の輸送船を撃破・撃沈したものの21機を失う。
この時点で真珠湾以来のベテランパイロットのほとんどは戦死してしまった。
このころから、旧式化した99式艦爆に代わり、彗星が登場するが、数がそろわず、昭和19年6月19日と20日のマリアナ沖海戦に38機が参加するが、大半を喪失。
以後、フィリピン島、沖縄では特攻機として使われフィリピンでは駆逐艦アブナー・リードを撃沈。
沖縄では特攻に103機が使われ、駆逐艦トウイッグス(損傷)、リトル(沈没)、アーロン・ワード(大破)程度と戦果は少なく、命の無駄使いであった。

一方、旧式化した機体でも哨戒・索敵・攻撃には有用であり、特に潜水艦攻撃で活躍した。
ライバルはSBD ドーントレス急降下爆撃機であったが、九九艦爆より強力なエンジンを持ち、搭載爆弾が500kg、速度も速く、防弾装甲を持っていた点が勝っていた。
この機も初期の日本機共通の防弾軽視と後継機開発の遅れで戦局が悪化した末期まで使わざるを得なく、初戦の栄光にも係らず、多くの悲劇を招いた機であった。
現場からは損害の多さから、「九九式棺桶」「窮窮式艦爆」と揶揄されていたという。
愛知で一一型が476機(増加試作機を含む)、二二型が816機生産され、昭和飛行機で二二型の後期生産型が220機生産された。終戦時に残存していたのは135機だった。
(Wikipedia等を参考)

九七式艦上攻撃機
日本海軍の艦上攻撃機で真珠湾に襲い掛かりアメリカの艦船に大損害を与えた主役がこの機であるが、何と終戦後も戦い続けた記録が残る。
日本海軍初の全金属製の低翼単葉機であり、国産単発機初の引込脚を採用した先進機であり、乗員は3名。
可変ピッチプロペラや蝶型フラップ、密閉式風防などの新機構も採用している。


一号機の完成は昭和11年12月31日、翌年1月8日(1937年)に初飛行している。
この一号の発動機を「光」三型から「栄」11型に変更したものが九七式三号艦上攻撃機(後に九七式艦上攻撃機一二型と改称)1250機ほどが、中島飛行機の小泉工場で生産されている。
速力は377 km/hと遅く、兵装は800 kg 魚雷または爆弾×1、防御は7.7mm機銃×1と貧弱であった。
まず、中国大陸方面の作戦に投入され、真珠湾攻撃では143機が出撃、内訳は水平爆撃隊103機、航空魚雷改を搭載した雷撃隊40機。
雷撃隊はアメリカ海軍太平洋艦隊の艦艇に魚雷36発を命中させている。

大戦中期ごろまで航空母艦で運用されているが、鈍足、低装甲、低防御という日本機共通の欠点から損害も増え、旧式化、後継機の天山が登場してからは主に陸上基地などから運用されたり、レーダーを追加装備して対潜哨戒や輸送船団護衛にも就き、潜水艦攻撃に活躍。
大戦末期には一部が特攻に出撃している。
最後の登場は1945年8月下旬、北千島へ侵攻してきたソ連軍上陸船団に対し、占守島の北東航空隊所属の数機が陸軍機とともに出撃して爆撃を加えており、これが日本海軍艦上攻撃機最後の戦闘になった。
(Wikipedia参考)


陸上攻撃機 南山
伊400と言えば、日本海軍の潜水空母、あの時代にこんなもの開発していたのは驚きである。
現在でさえ、潜水艦時代製造できる国は限られるのに70年も前に。
どこぞの国の潜水艦など、潜ったきり浮上しない正真正銘の潜水艦を造ってしまったけど・・・。

その潜水空母に搭載した攻撃機が、晴嵐である。
設計生産は愛知航空機。
浮上した潜水艦からカタパルトで射出される特殊攻撃機で最大速度時速474km(フロート投棄時560km)、単発、複座、双フロート装備。
92式改3航空魚雷による雷撃、または250キロ爆弾(4個まで搭載可能)、または800キロ爆弾による水平および急降下爆撃が可能という高性能機であった。

勿論、折り畳み構造であり、組み立て作業開始後約3分以内で発進可能と言われている。
伊400型は晴嵐を3機搭載でき、潜水艦搭載時には既に雷装、爆装していた。
特殊用途で『凝った』造りであったため、製造数も少なく、一機あたりのコストも零戦50機分に相当すると言われた。
その晴嵐の機体にフロートではなく車輪を付けて陸上攻撃機化した機体が「南山」「晴嵐改」 (M6A1-K) である。
高速性能に優れるかわり、滑走距離が長かったという。

晴嵐及び南山は合わせて28機が製造されたが結局実戦には間に合わなかった。
まさに壮大な無駄であったが、無駄死を減らしたことにはなるのであろう。
以下、晴嵐のスペック

乗員: 2名、双フロート式(投棄可能)、全長: 10.64 m、全幅: 12.26 m、全高: 4.58 m
動力: アツタ32型 水冷V12エンジン、出力: 1,400 HP
全備重量: 4,250 kg
最大速度: 474 km/h(フロート投棄時560km/h)、航続距離: 1,540 km
実用上昇限度: 9,640 m
武装: 機関銃 13.0mm旋回機銃×1/800kg爆弾×1(250kg爆弾は4発まで)。または45cm魚雷×1
(WIKIPEDIA参照)

愛知 E13A1 零式水上偵察機11型

通称、零式三座水偵という。川西94式水偵の後継機種として開発された。
主に戦艦や重巡に搭載され、長距離の偵察に活躍。

特に真珠湾攻撃では「利根」搭載機が攻撃隊に先立ち湾内を偵察し、その情報をもとに攻撃が行われた。
しかし、ミッドウェー海戦では射出機が故障して発艦が遅れ、これが空母4隻喪失という致命的な結果を招いている。

大戦末期にはレーダーを搭載した11型甲や磁気探知機を搭載した対潜用の11型乙も産まれている。各型合計1423機が生産されたが、開発元の愛知で生産されたのは133機であり、広工廠で90機、渡辺鉄工所(後の九州飛行機)で1200機が生産された。

乗員は3名、全幅14.5m、全長11.5m、重量3650kg、最高速度367q/h、エンジンは金星43型(1060馬力)
モデルは重巡「愛宕」搭載機。

特攻機 桜花

戦争という狂気が産んだ特攻兵器である。
あまりに悲惨であり、取り上げたくはない航空機?である。
桜花は、正確には航空機形状をした特攻ロケット兵器というべきであろう。
何となくトマホークと形状が似る。現在なら空対艦ミサイルが相当する。
決定的な違いは、方や自動誘導であるのに対し、人間が誘導(操縦)する点である。
大きさは全長6m、幅5mに過ぎない。

機首部に大型の1トン爆弾を搭載し、ロケット(ジェットエンジン装備型も構想にあったが、実用化されなかった)の推進力と滑空で敵艦に体当たりを行うというものである。
1t爆弾といえば戦艦の主砲弾とほぼ同じであり、命中したら駆逐艦なら真っ二つである。確かに命中した場合の効果は大きい。
航空偵察員であった太田正一特務少尉の発案で開発されたものという。
設計は生産の容易性を考慮し、構造をシンプルにし、材料に木を多用、数ヶ月で開発を終了している。
推進力は水力800sのロケット3本であった。ただし各ロケットの稼働時間は9秒しかなく、航続距離は滑空状態も含めて40q弱でしかない。
速度は急降下突撃状態で1040km/h、水平時の最大速度648km/hであった。
当然、自力で離陸することはできず、航続距離も短いため、一式陸攻に吊り下げ、敵艦隊近くで切離してから発進するという方法をとった。
しかし、桜花の重量は2.2tもあり、一式陸攻の積載能力の限界近くであったため、速度を低下させ、運動能力を奪った。
昭和20年3月21日、第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊の一式陸攻18機、桜花15機、護衛30機が出撃するが、戦闘機50機に迎撃され、鈍重な一式陸攻は桜花ともども全機撃墜され、零戦隊も10機が撃墜され大失敗に終わる。

以降、夜間に1〜2機で攻撃する方法に転換し、10次にわたって攻撃を行う。
戦果ははっきりしていないが、駆逐艦マナート・L・エイベルを一瞬に轟沈させたことは確実であるが、その他数隻に損傷を与えるにとどまった。

零式艦上戦闘機 52丙型

 零戦についてはとやかく言うべきことはないだろう。
プラモデルの王様であり、零戦を作ったことのない男性は果たしているのだろうか。

太平洋戦争開始当時は、世界最優秀の艦上戦闘機であり、開戦時その強さは世界1であったと言えるだろう。
真珠湾攻撃で一躍世界中に知れ渡り、特に、敏速な運動性と長距離性能および強大な火力は、当時のいかなる戦闘機よりも優れていた。
太平洋戦争後半になると優秀な戦闘機の出現と熟練搭乗員の不足で苦戦に陥るが、後継機種の開発も十分ではなかったため、改造を重ね、終戦まで使用された。

初陣は昭和15年8月、中支戦線。昭和12年10月から九六式艦戦の後継機として開発が開始された。
そのスペックは最大速度 500km/時/ 4,000m、4,000mまで3分30秒以内、航続力は全速力で1.2〜1.5時間、空戦性能は九六式2号艦戦一並み、武装は20mm砲2門、7.7mm銃2門という厳しいものであった。
三菱重工が堀越二郎技師を主務として設計を行い昭和14年3月に試作機が完成。
小型で強力な“瑞星”13型を装備し、定回転プロペラ、引込み脚(尾輪を含む)、紡滴型閉鎖式風防の採用等の新機構を取り入れ、490km/hの高速と大きな航続力、抜群の空戦性能を実現した。

エンジンを中島の“栄”12型発動機に換えた機種では最大速度 530km/hを示し、昭和15年7月から零零式艦上戦闘機11型A6M2として制式に採用された。

中国戦線で初陣を飾って以降、改造を重ね太平洋戦争全期、海軍主力戦闘機として活躍。
防弾性能が劣り、連合軍が物量に物をいわせ始め、新鋭機を投入するようになると、苦戦に陥り、最後は特攻機として使われ、帝国海軍と運命ともにする。

左に示す52型「A6M5」は、零戦の後期量産型で最も多く量産された型で、多くの改造が加えられ、最高速度556km/hという性能を示した。
全型式をあわせて製造機数は10470機に達する。

モデルは第302海軍航空隊第1航空隊所属機(厚木基地)

下のモデルは撃墜王、岩本徹三搭乗機である。

岩本 徹三(1916年6月14日 - 1955年5月20日)は、日本海軍最高の撃墜王、「零戦虎徹」とも称される。日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ最前線で戦い続けた。
戦後、岩本の手記を夫人が保管しており、それが「零戦撃墜王」の題名で出版されている。
その中で撃墜数は202機と記録している。諸言も多く、この数字は誤認等も含まれるだろうが、日中戦争、太平洋戦争を通じてのトップであることは間違いないであろう。

彼の7年間の戦闘法は深追いはせず、一撃して離脱する「ヒット・アンド・ラン」方式の戦法、あるいは編隊から逸れた機や帰搭する機を狙うという多くの撃墜王と同じ戦法である。
1916年(大正5年)生まれ、家業の農業を継ぐのを嫌い、1934年(昭和9年)7月海軍を受験し水兵となるが、搭乗員の転科試験を受け転身、1936年(昭和11年)12月に操縦練習生過程を卒業する。

1938年(昭和13年)2月25日、一空曹として第12航空隊付として南昌攻撃参加が初陣、その初陣においてイ-15とイ-16を4機を撃墜し、さらに1機不確実撃墜の戦果をあるという天才的デビューを飾る。
さらに4月29日の漢口上空で4機を撃墜。
1938年9月日本に戻り、佐伯航空隊の所属となったが、その時点では14機を撃墜しており、すでに日本海軍戦闘機隊のトップ・エースであった。

その後空母「瑞鶴」に乗り組み、太平洋戦争を迎える。
真珠湾攻撃では空母直衛任務につき、インド洋作戦、珊瑚海海戦に参加。ミッドウェイ海戦後、搭乗員の大量養成のため大村航空教官として本土に戻り、搭乗員の育成を行うが、危機に瀕したラバウル航空隊を支援するため、11月、15機の零戦を率いてラバウルに向かい、ほぼ毎日、アメリカ軍機と空戦を交え、多くのスコアを挙げる。

11月17日、岩本飛曹長はブーゲンビル島トロキナ攻撃の際、VF-17(第17戦闘飛行隊)「ジョリー・ロジャース」所属機のF4Uコルセアと遭遇し、コルセア2機を撃墜する。
以後、コルセアが最大のお得意さんとなる。

しかし、アメリカ軍の攻撃はさらに激化し、毎日のように空襲してくるB-24の迎撃にあたることになった。
この時に3式爆弾を編隊の上で爆発させる攻撃法を開発し、1943年12月9日の岩本らの小隊による試用攻撃で、帰途集結旋回中の編隊26機を一気に撃墜し、その後、この戦法を多用、一撃でドーントレス14機を撃墜したこともある。

また、ブーゲンビル島のタロキナ飛行場への単機で攻撃をかけ、超低空侵入で20機以上の米軍機を銃撃で破壊し、現地の陸軍が「敵飛行場は火の海になっている。」との電報を入れたという戦歴を有する。
1944年(昭和19年)6月に本土へ帰還したが、10月には台湾、フィリピンをめぐる戦いにかり出され奮闘する。

しかし、戦局はほとんど絶望的で単機夜間攻撃に出撃しすることもあった。
1945年(昭和20年)初頭、少尉となり203空付となり、沖縄戦開始初頭の夜間強行偵察で単機で慶良間諸島で上陸作業中の米軍艦艇を銃撃し、大損害を与えたことが、慶良間海洋文化館、アメリカ軍の記録と、岩本の手記とで一致している。
また、大和沈没後、アメリカ軍機の中に突っ込み、あっという間にコルセア3機を撃墜したというエピソードも残している。

そのうちの1機が海戦を記録していた撮影機であり、海戦の一部始終の映像は永遠に失われたことになる。
最後は岩国で神風特別攻撃隊に出撃する若い搭乗員の訓練任務について終戦を迎える。
末期の愛機はゼロ戦52型、胴体後部に桜の花の撃墜マークがびっしり描かれ、ピンクに見えたという。このマークを発見したアメリカ軍機が挑んできたが、ことごとく返り討ちにしたという。
戦後、敗戦に絶望した岩本少尉は、結婚はするが、時代に適合できず苦労したという。
1955年(昭和30年)、戦時中に受けた背中の傷を何度も手術した結果、敗血症にかかり、38歳の若さで世を去った。

F4Fワイルドキャット7機、P-38ライトニング4機、F4Uコルセア 48機、P-39エアコブラ2機、P-40ウォーフォーク 1機、F6Fヘルキャット 29機、P-47サンダーボルト 1機、P-51マスタング 1機、スピットファイア4機、ドーントレス48機(さらに30機のドーントレスを地上で破壊)、B-25ミッチェル8機。トータルでは202機の撃墜、B24,B29等26機を協同撃墜、22機が未確認撃墜。地上で2機を破壊、2機を大破させたという。
もちろん誤認はつきものであるが100機近い機を撃墜したのは確かであろう。

艦上攻撃機 流星
艦上攻撃機ではあるが、水平爆撃、雷撃、急降下爆撃もでき、さらに機銃掃射による襲撃も行える能力を持たせた欲張った万能攻撃機である。
しかし、量産開始時点では搭載すべき空母も壊滅状態であり、空襲等により生産もままならず、性能は優秀であったもののほとんど活躍できなかった不幸な飛行機である。

艦攻と艦爆の一元化構想は、生産ラインが多品種であったため、これを少数の機種に絞り製造を効率化しようとしたことによる。
また、運用する空母側からも運用整備面で機種が少ないほうが効率的である利点があったからである。

しかし、水平爆撃、雷撃、急降下爆撃全てが出来る航空機の開発は非常に困難であった。
海軍から愛知に出されたスペックは、急降下爆撃、水平爆撃、雷撃が可能であること。
爆弾は 800kg×1、250kg ×2、60kg×6のいずれかを装備できること。
最大速力は爆装状態で556km/h 以上、航続距離は1,852km、武装は20mm砲2門、13mmまたは17mm旋回機銃を1丁し、戦闘機並みの運動性、整備が容易で、量産に適すること。という厳しいものであった。

愛知は苦心の末、昭和16年12月に試作機を完成させたが、最大の特徴は、コルセアやJu87と同じ逆ガルウイングを持つことである。
これは爆弾庫を機体内におさめたため、これまでの艦攻より胴太で主翼を中翼配置にしたことで脚が長くなってしまうための対策であった。
重量は5t近く達したが、戦闘機並みの速力と運動性を与えるため、エンジンは中島「誉」11型とした。武装面は強力であり、戦闘機並の20mm機関砲2門を持った。
ほかに 7.7mmか13mm旋回機銃1丁を後席に、さらに機首カウリング上面に、固定 7.7mm機銃2丁を装備した。

試作機の試験結果は散々であり、強度不足、重量の超過のため所定の性能が発揮できず、改造と試作を繰り返し、19年4月に量産を開始した。
生産機数は、昭和19年12月の東海大地震やB-29による本土空襲の激化、熟練工の不足などにより停滞した。

愛知航空機で82機、大村の21空廠で約20機、総計約 111機(試作機9機を含む)を製造されたにすぎなかった。
実用化までに長時間を費やし過ぎ、戦力として寄与できなかった要因は、工業技術、特にエンジン性能に対する認識が海軍に欠けていたことと要求が欲張り過ぎていたことによる。

艦上爆撃機 彗星
流線型の美しいシルエットを持つ飛行機である。
97式艦上爆撃機の後継機種として、海軍が開発した機体。
敵艦載機の行動半径外から攻撃可能な長航続力と敵戦闘機と同等以上の速力が要求され、さらに機体を小型、軽量化し、全幅を空母のエレベーターの寸法に合わせ翼の折りたたみ機構を廃止した。
空気抵抗の低減も考慮し、胴体内に爆弾倉を設け、層流翼に近い主翼断面を採用した。

エンジンはドイツ製ダイムラー・ベンツ(DB601A)の水冷倒立V形12気筒を国産化した「熱田12型」発動機を搭載し、その他、セミ・インテグラル・タンク、操作系統の全電動式など新機構を取り入れた。
急降下時の抵抗板も新方式のものに変更され、これが海軍の急降下爆撃機、銀河、流星、晴嵐などの標準となった。

試作機は昭和15年11月に空技廠で完成し、時速552kmという高速と航続距離3,890kmという抜群の性能を示した。
しかし、エンジンの調整に手間取り量産が開始できず、試作機3機が艦上偵察機としてミッドウェー作戦に参加した。
この結果、高性能が確認され、昭和17年7月から愛知飛行機で量産を開始し、昭和17年10月「彗星」11型(D4Y1)として正式採用された。

マリアナ海戦の頃より艦爆の主力となって出撃したが、戦術ミスと搭乗員の練度不足により期待された活躍はできなかった。
また、機体構造の複雑さと、飛燕等と同様、水冷エンジンの整備技能不足、エンジンの品質問題で稼動率は低かった。

昭和19年10月、エンジンを高性能化した熱田32型(AE1P)を搭載した彗星12型(D4Y2)が正式採用され、最大速度は向上に成功したが、エンジン故障の続出に悩まされ、空冷エンジンに改装された彗星33型が作られ、終戦まで使われた。
このころになると、艦上機として搭載する空母が壊滅状態であり、陸上基地から飛び立つことが多く、特攻機としても出撃した。

なお、水冷エンジンを装備し、高空性能に優れ、高速であったため、斜銃を装備して夜間戦闘機に改造され本土防空に使用された機体もある。
モデルは夜間戦闘機改造タイプである。
愛知飛行機と一部が第11航空廠(広工廠)で製造され、総製造量は 2,160機であった。 
この機も飛燕や疾風、天山など多くの日本機同様、性能は抜群であったが、十分な活躍の時と場に恵まれなかった飛行機といえる

艦上攻撃機 天山
海軍主力艦上攻撃機であった九七式艦攻の後継機種として、太平洋戦争中期より戦線に投入され、マリアナ海戦の頃に主力となった。
九七式艦攻よりやや大型で高性能であり、性能では米海軍のTBFアベンジャーも凌ぐ。
レーダーを装備した夜間攻撃型も開発されたが、搭載すべき空母が壊滅状態であり、熟練搭乗員の不足から、本来の高性能を充分に発揮することが出来なかった。本機も戦争末期には特攻機となった。
中島飛行機で1,266機が製造された。


昭和14年、海軍は九七式艦攻で実績のある中島飛行機に後継機種の開発を発注した。
そのスペックは九七式艦攻より速度及び航続距離の大幅な向上要求であった。
高速と長大な航続距離の要求のため、必然的に大馬力化と大重量化が避けられず開発は難航した。

全長制限い、前のめり形の垂直尾翼、ファウラー式フラップ、インテグラル・タンクの採用等、大きな苦心がはらわれ、昭和17年3月14日試作機が初飛行を行った。
結果は九七艦攻よりも速く、航続距離も長くなり、空中性能もよかったが、滑走距離が長いなどの欠陥があり、改修が行われ昭和18年8月、「天山」11型として正式採用され、終戦までに 1,268機が製造された。

昭和18年11月のブーゲンビル島沖海戦が初陣であり、大きな戦果を挙げたが、マリアナ沖海戦では搭乗員の練度不足と作戦ミスにより大損害を受けたが、これは「天山」の責任ではない。

沖縄戦では攻撃の主力として奮戦、特にレーダー装備の本機による夜間攻撃は米艦艇に大きな脅威を与えた。
この頃は空母は壊滅状態であり、攻撃は陸上基地からであった。
この「天山」も優秀な性能を持つ機であったが、華々しい戦果を残すことなく終わってしまった不運の航空機である。

零式水上観測機

日本海軍艦船搭載用の複座水上観測機。
艦隊決戦を想定し、海戦時の砲弾の命中精度を上げるため、上空から着弾を観測し、調整を加えることで向上させることを目的に開発。
観測機には敵機からの攻撃も想定し、空戦能力も持たせた。

三菱が開発製造を行い、エンジンに「光」1型(660HP)を搭載、後に「瑞星」13型(875HP)に変更されている。
昭和15年「零式1号観測機1型」として制式化された。
しかし、太平洋戦争では艦隊決戦等の海戦は起こらず、本来の目的のために使われることは少なく、偵察や対潜哨戒などに活躍した。

また、進出した島嶼の防衛のため、飛行場が整備されるまで派遣され水上機基地に待機し、対空防衛警戒任務にもあたった。
空戦性能も優秀であったため、F4Fを撃墜したこともあった。

合計で608機が生産された。戦艦、巡洋艦に搭載されたほか、特設水上機母艦にも搭載され、輸送船団の護衛も行った。 
武装は7.7o機銃2門。

試作戦闘機 震電
通常の飛行機とは全く逆のサーブ・ビゲンのような前翼型を持ち、ドルニエプファイルとも似るが、後ろにプロペラを持つ特異な形をした戦闘機であり、極めて強い印象を与える。
試作だけで終わり、実戦には使われなかった戦闘機である。
この機はシュミレーション小説に良く登場し、活躍するが、特異な形状から来る強い印象と高性能戦闘機の可能性が頻繁に登場する要因なのであろう。

元々、この戦闘機はB29迎撃用に昭和19年5月海軍が開発を九州飛行機に命じたことが開発のスタートである。
前翼型、後方エンジン、後方プロペラという画期的なデザインを採用したため、機体前部が武装のため有効に使え、大口径砲を複数搭載し、命中精度を向上させることが可能となった。

流体力学的にも空気抵抗の少ない機体となり、三菱重工業製空冷式二重星型18気筒推進式(出力2030馬力)という強力なエンジンを搭載し、高度8700mで最高速度750km/hという性能が期待できた。
昭和20年6月1号機が完成し、7月下旬に試験飛行を行ったが、滑走時、プロペラを滑走路にこすって失敗し、プロペラ交換を行い8月3日再飛行に望み、成功を収め、8月6日、8日にも試験飛行に成功したが、終戦となり、試作機2機のみで開発は頓挫し幻の戦闘機で終わった。
各国も前翼型の戦闘機の開発に取り組んだが、結果として成功したものはなく、その中でもこの震電が最も優れた性能を示したと言われる。
武装は30o砲4門が予定され、将来的にはジェット機化も考慮されていたという。

局地戦闘機「紫電改」
この機は416機しか製造されなかったが日本機の中では零戦に次ぐ知名度がある。
これは第343航空隊の戦果の印象が大きいのであろう。

特に、昭和20年3月19日、呉軍港に来襲した米機動部隊艦上機、F6Fヘルキャット、ボートF4Uコルセア等の編隊を迎撃し、52機を撃墜し、味方の損害16機という戦果を挙げている。

さらに九州に進出し、沖縄戦にも参加し、29機の損害で106機を撃墜するという戦果を挙げている。
海軍はこの機に期待し、増産を計画するが、製造能力が壊滅的であり少数の生産に留まっている。
この「紫電改」は正式には「紫電」21型(N1K2-J)という。

「紫電」自体は水上戦闘機「強風」を陸上戦闘機に改造したものであり、「強風」の長航続力と世界初採用の空戦フラップ機構を引き継いだ優秀な戦闘機であった。

しかし、中翼構造の水上戦闘機のフロートを取り、車輪を取り付けただけの改造であったため、車輪脚が長く、2段収縮式という複雑な車輪構造であった。

このため、川西は層流翼のみを踏襲し、中翼を低翼にし複雑な車輪と重量の軽減、視界不良問題を一機に解決した。
また、胴体も細くし、方向舵、水平尾翼と垂直尾翼も再設計した。さらに部品数も
削減し、量産しやすいようにした。
紫電改試作機は、昭和18年12月末に完成、19年1月1日に初飛行を行ったが、抜群の性能を示し、「紫電」21型(N1K2-J)として制式に採用され量産に入った。


紫電改は優秀な空戦性能は勿論であるが、防弾、燃料タンクの保護、操縦席保護など同時期の米戦闘機と同等以上の機であった。

戦線に投入された「紫電改」は、国内基地であったこともあるが、多くの日本機が悩まされた故障で稼動率が低下することもなく、性能も抜群であったため、評判良く第一線基地の防空戦に活躍した。

海軍は「紫電改」の製造1本に絞り、2000機の大増産を計画したが、資材調達にも不自由するなどで川西、愛知製作所で416機を製造したにとどまり終戦を迎えた。
ジリ貧で終わった日本機の最後の大輪の花がこの「紫電改」であったと言って良いであろう。

モデルは第343海軍航空隊戦闘301飛行隊長菅野直大尉機(昭和20年 松山基地)

局地戦闘機 雷電

グラマンに良く似た独特のシルエットを持つ海軍の局地(迎撃)戦闘機である。
大戦末期、本土でB29の迎撃で活躍した。
しかし、開発の発端は、中国戦線において中国空軍の攻撃で基地に被害を受けた海軍が、基地防衛用の戦闘機を求めたことにある。
開発は昭和14年三菱重工に発注され、「十四試局地戦闘機」という名で開発が進められた。
開発の主任は零戦の開発主任、堀越二郎技師であった。

要求性能としては、迎撃のため敵爆撃機の飛行高度に短時間で到達する上昇力と追尾できる高速そして敵爆撃機を撃墜できる火力の3点であった。
しかし、開発に当たっては他の日本機同様、多くのトラブルに遭遇した。

これも日本の工業技術力を把握しないまま、持っている技術力以上の過剰な要求を行う軍当局の姿勢も問題であり、現在に至っても余り変わっていない点である。
速度と上昇力を満足するためには大馬力エンジンが必須であるが、当時の日本の技術力では、戦闘機用の小型大馬力エンジンがなかった。
このため、1式陸攻用の大型の「火星」エンジンを選定し、これを改造して対応することになった。
このエンジンは径が大きかったため、機体の空気抵抗を減らす必要があり、紡錘形の胴体を採用、機首を絞ったことによるエンジン冷却用空気流入量の減少による冷却効率の悪化を補うため、強制冷却ファンを備えた。
さらに速度要求を満足するため、水メタノール噴射により出力向上を図った火星23甲型エンジンを採用した。
試作機は、昭和17年10月に初飛行したが、最大出力時に減速機構の振動とプロペラ強度不足による振動の共振であることが明らかになった。

プロペラ減速比の変更とプロペラブレードの剛性向上によってこの問題は、ほぼ解決したが、この対応に時間を要した。

量産は昭和18年9月より着手した。この際、エンジンは高高度性能を向上させた1400馬力の火星23丙型(雷電21型用)や1800馬力に出力がアップした火星26型(雷電32型用)に変更され、太型プロペラに変更されている。
大直径エンジンのため、空気抵抗低減を目的に紡錘形の胴体を採用したが、前下方視界が極めて悪化するという問題もあり、対応に苦慮している。

フラップは最新のファウラー式を採用している。
量産中も次々に改修指示が行われたため、量産工程が混乱する事態も招いている。
また、次期量産機の選定を巡り、紫電改との争いもあった。

性能が優れる紫電改が次期量産機となったが、こちらも多くの問題を抱え量産に乗るのに時間を要し、結局、雷電も製造が行われることとなった。
武装は21型から20mm機関砲九九式二号銃4門を備えた。
なお、一部、30mm機関砲を装備した機体もあった。