ドイツ戦車
U号戦車
マイバッハ6気筒水冷式140馬力エンジンを持ち、時速40km。9.5t。 20mm砲1、装甲35mmを持つ軽武装・軽装甲の快速戦車。 MAN 社とダイムラーベンツ社が開発された。 1936年より生産を開始。 武装は20 mm砲と非力。V号、W号戦車が不足状態であったため、開戦時の主力となった。 英仏の重戦車との戦闘は避け、迂回して敵の背後深く回りこむ戦法でフランス、ポーランドを崩壊させた。 |
しかし、出会った連合軍戦車には対抗できずV号、W号戦車の数が揃うと1線を退き、偵察戦車となったり、マーダーII等の自走砲に改造された。
マーダーU
75o 対戦車砲 ( PaK40/2 )をII 号戦車 A、B、C、F 型の車台に搭載した対戦車自走砲。
7.5cm PaK40の性能は、Pz.gr.39徹甲弾(重量6.8kg)を用いて、初速790m/秒、射距離1,000mで85mm装甲板を貫徹することが可能であった。 さらにこの値は、Pz.gr.40高速徹甲弾(重量4.1kg)を用いるとさらに高まり、初速990m/秒、射距離1,000mで97mmという性能を発揮した。 この性能は、T-34中戦車は700mで撃破することができた。 車体はMAN社、戦闘室はアルケット社、砲はラインメタル・ボルジーク社がそれぞれ担当。 V号、W号突撃砲などの本格的対戦車自走砲が揃うまでの期間、戦車部隊を支援した。 西側連合軍の戦車に対してはこの戦車とW号F型戦車で十分であった。 |
V号戦車
モデルは主砲を50o砲に交換した型。
これが限界であり、東部戦線ではT34に苦戦し、徐々に引退。
自走砲や駆逐戦車等に改造される。
試作的性格であったT号、U号戦車の後にこれらの知見を元に、ドイツが将来の戦車戦術を見越して主力戦車とすべく造った戦車である。
1940年に量産が開始され、マイバッハ12気筒水冷式300馬力エンジンを持ち、時速18〜40km。22.3t。
装甲は30mmであった。
将来 50mm 砲を搭載することを考慮したターレットリンク径が確保されていた。
また、現在の戦車では当たり前であるトーションバー式サスペンションや、無線装置を配備し、戦車間の連携を確保。砲塔にバスケットを採用し、砲塔の旋回時にも砲塔内の操作性を確保。
戦車長を独立させ、指揮に専念することが可能とするなどさまざまな新メカが盛り込まれていた。
しかし、T34に遭遇し、50o砲に交換してもこれが限界となり対抗できなくなり、徐々に現役を退き、自走砲に改造された。
生産設備は突撃砲製造に転用された。
V号突撃砲
III号F型戦車の車体にラインメタル・ボルズィク社製の28口径10.5cm突撃榴弾砲StuH42を搭載したもの。
この砲の旋回角は左右各10度ずつ、俯仰角は−6〜+20度であった。
最大有効射程は、第6種発射薬使用の砲弾で10,650m、遠距離用装薬使用の場合は12,325mであった。
砲身長は2,940mmで、携行可能砲弾数は装薬分離弾36発(26発は榴弾、10発は成形炸薬弾)であった。
総生産数は、1,211両である。1943年3月から突撃砲大隊に配備が開始された。
突撃砲大隊ごとに1個中隊9両が装備され、特に対歩兵制圧に効果を発揮した。
W号H型戦車
モデルは75o砲を搭載したバージョン。
これにより東部戦線では何とかT34に対抗できた。
米英の戦車に対してはこの戦車で十分であった。
1935年A型を試作。1939年より製造開始。当初はV号戦車支援用であり、短砲身24口径75o砲を装備していた。
しかし、この砲ではT34対抗できず、火力を強化するため43口径75mm砲搭載のF型誕生。H型からは48口径40型75mm砲に火力増強。
前面装甲80mmにアップ。
さらにシェルツエンを装着した。
砲塔が大きいため、大口径砲への交換が容易であり、砲塔は吊籠式3名乗りであったため、操作性良好。無線指揮、脱出口が多くある。
マイバッハ12気筒水冷式300馬力のエンジンを持ち、機械的信頼性も高く、タイガー戦車等が苦しめられた故障という問題は少なかった。
時速24〜38kmを有し、重量は25tであった。
基本的に応用が利く信頼できる戦車であり、III号戦車に比べ大きさの上で余裕もあったため、軍のニーズにより、多種多様な派生型を生み出すこととなった。
総計では15000台程度が製造されたという。
主な派生型としてはIV号突撃榴弾砲戦車 「ブルムベア」、W号突撃砲、W号駆逐戦車「ラング」,自走砲「ナスホルン」、「フンメル」、対空戦車「メーベルワーゲン」「オストビント」「ヴィルベルヴィント」がある。
W号駆逐戦車ラング
W号F型のシャーシーを流用した駆逐戦車。 車高は1.86mに過ぎず、敵から発見されにくい特徴があるうえ、パンサー戦車ゆずりの傾斜した装甲を持っていた。 主砲はパンサー戦車の主砲とほぼ同性能の48口径39型75mm砲で極めて強力。 4名乗りで操作性もよかった。 しかし、長い砲身が邪魔になり移動に難あり。 待ち伏せ攻撃には抜群の強さを発揮、第2、9、116機甲師団に配備され、特にノルマンディで活躍。 「グーデリアン・ルッツ」(あひる)というニックネームを持つ。 |
W号突撃榴弾砲 ブルムベア
IV号戦車G型に、チェコのシュコダ社が生産する車載型15cm突撃榴弾砲StuH43を戦闘室を載せた。
装甲厚は前面の装甲板は100mm。
車体はニーベルンゲンベルク、戦闘室はビスマルクヒュッテでそれぞれ製作され、これをシュコダ社まで運んで最終組み立てた。
ボール・マウント式7.92mm機関銃MG34を持つタイプもある。
合計で306両が生産され、突撃砲大隊に配属され、東部、西部、イタリアの各戦線で活躍している。
W号突撃砲
IV号戦車H型の車体にV号突撃砲G型の主砲48口径75o対戦車砲Stuk40を搭載したタイプである。
ドイツの突撃砲はV号突撃砲であり、対戦車戦闘に欠かせないものであった。
しかし、生産工場のアルケット社の工場が空襲で大損害を受け、III号突撃砲の生産がストップしてしまったという事情による。
ドイツ軍にとって突撃砲は欠かすことのできない兵器であったため、ドイツは代替としてIV号戦車の車体を利用した突撃砲の生産を決定、IV号戦車の製造工場であるクルップ社のマクデブルク工場とダイムラー・ベンツ社のマリーエンフェルデ工場で製造を行うこととなった。
V号戦車とW号戦車は大きさが違うため、構造は多少異なる。
操縦室の位置が異なることや専用ハッチ、固定式のペリスコープがあること等が異なる。
製造は、1943年12月からダイムラー・ベンツ社で開始され、次いでクルップ社に移行し、1,111両が生産された。(V号突撃砲は7720両)
車体が大きいことからV号突撃砲に比べ、携行砲弾数が多く(63発対54発)、行動半径(210q/h対155q/h)も大きいことが異なる。
時速は38q、重量23t、乗員4名。
X号戦車 パンサー
「グロスドイツラント」師団所属
T34の影響を強く受けている。
長砲身75o砲を備え火力と機動性のバランスでドイツ戦車の最高傑作。
大戦後半の機甲師団の主力戦車。
ドイツ軍ではソ連が新型戦車(T34)を開発している情報を得、4号戦車の後継となる新型中戦車の開戦前に研究・開発を開始していた。
この新型中戦車構想では4号戦車の構想を踏襲し、角ばった形状の戦車であったようであり、30tクラスであったという。
しかし、独ソ戦で遭遇したT34ショックにより、火力、装甲の強化、特に傾斜装甲板の採用等、根底から設計が覆され、再設計となった。
この結果、装甲を60mmから80mmに強化し、大型砲を搭載したため、45tもの重量になった。
マイバッハ12気筒水冷式700馬力という強力なエンジンを持っていたが、重量増により予定していた最高速度は60km/hから40km/hに低下した。
急きょ製造を開始した5号戦車(D型)は前線からの強い要望で、問題を残したまま戦場に送り込まれた。
ドイツ軍はこの戦車とY号タイガー戦車を待ってクルスク戦に望んだが、重量増のため、転輪や起動輪、変速機など足回りの強度に問題が発生し、稼働率が上がらず、故障で失われた戦車の方が多かったようである。
また、新型戦車に対する訓練が不足していたことも、クルスク戦で活躍はできなかった原因といわれる。
しかし、問題点はその後、改善され信頼性は向上し、大線後半のドイツ機甲師団を支える戦車となった。
この車はドイツ軍のそれまでの戦車と違い、傾斜した装甲を持っている。
主砲は強力な長砲身70口径75o戦車砲を搭載し、ロシアのぬかるんだ台地でも走行できるように幅の広い軌道幅を広くし、千鳥型の三重の大きな転輪などを持っていた。
当時の戦車としては強力なエンジンを搭載し、機動力も高かった。
平原地帯での野戦には抜群の強さを発揮したが、長い砲身は市街地や森林地帯では不自由であったという。
製造量は各種併せて5995台にも及び多くのバリエーションを持つ。
最も一般的な型がA型 とG型である。
A型は1943、44年に2,000両ほど生産され、問題があった変速機を変更するなど機械的信頼性を大幅に高めると同時に砲塔前面装甲を強化した型である。
また、前方機銃がボールマウント式に改められている。
G型 は1944年・45年に3,100両ほど生産された後期型と言われるもので、完成版といえる型である。
側面装甲が強化される他、防循追加、旋回式ペリスコープ、消炎型排気管の採用が行われている。
X号駆逐戦車ヤクートパンサー
派生型としてはヤクートパンサーと呼ばれる駆逐戦車が有名。
駆逐戦車の決定版であるが415台しか製造されなかった。
70口径 75o戦車砲 (7.5cm KwK42 L/70) をキングタイガーの主砲とほぼ同等の固定式の
71口径88o砲(8.8cm PaK43/3 L/71)に交換。
車体前面には7.92ミリMG34機関銃を装備。
車体と戦闘室が一体化し避弾性は良好。
あらゆる戦車を撃破できた。
この戦車はドイツ軍が守勢となった大戦末期では大変有効であり、待ち伏せ攻撃で活躍した。
その他、パンター指揮・観測用戦車がある。
戦車部隊の指揮用に300両ほど改造された主砲がないタイプ。
また、故障した5号戦車を回収するための強力なクレーンを持つ回収戦車が造られ、機甲師団に配属された。
また、試作だけで終わったが3.7cm連装高射砲を搭載した対空戦車「ケーリアン」やキングタイガーの主砲と搭載したパンターII型 があった。
パンサー戦車の砲塔部のみを使った砲台もあった。
これは要塞の地上部に砲塔を置き、地下に旋回装置・弾薬庫・兵員居住区を置いたタイプである。
Y号T型E タイガー
モデルは「グロスドイツラント」師団所属
プラモデル界の西の横綱であるおなじみの戦車。
ドイツ戦車伝統の角ばったシルエットを持ち、88o砲を備える。
大戦後半の全戦場で大活躍。
I型とII型があるが、実質は全くの別物である。
いずれも第二次世界大戦最強の戦車と評価されている。
T型は大戦開始前から構想されていたが、開戦後は開発が進展しない状況であった。
しかし、T34、KV1との遭遇で、これらの戦車を撃破できる戦車が求められ開発が加速された。
KV1を倒すため、この戦車には対空砲でもあり、対戦車砲としても実績のあった88mm高射砲を対戦車砲に改造し搭載した。
装甲は正面が100oにも達し、このため、56tとなった。
形状は3号、4号戦車の伝統を受け継ぎ、無骨で角ばった形状であった。
重量の割りにエンジンはマイバッハ12気筒水冷式650馬力は小さく、このため、変速機や足回りなどに負荷となり、トラブルが多発して故障は多かったという。
また、重量があったため、強度の低い橋や道路の通行が困難であった。
さらに複雑で斬新な設計とドイツが多品種の戦車を製造していたため、製造設備が分散し量産性を妨げた。
しかし、火力と重装甲は抜きん出たものであり、ミヒャエル・ビットマン等の伝説を生んでいる。
この戦車を撃破できる戦車は存在しなかった。
ソ連はこの戦車に対抗するため、T34/85、JSUを開発したが、1:1の対決では敵うものではなかった。
戦車同士の戦闘で失われた車両は少なく、ほとんどは故障や小さな損傷で回収できなく放置されたものや燃料の欠乏で放置されたことにより失われたものという。
この戦車は1354台しか製造されず、いかに優秀な戦車でも3万台以上も製造されたT34等の数を頼んだ攻撃には抗すべきことはできなかった。
Y号駆逐戦車 エレファントまたはフェルディナント
後のキングタイガーの主砲と同程度の性能を持つ71口径88o砲 (8.8cm Pak43/2 L/71) を搭載した駆逐戦車である。
この戦車はポルシェとヘンシェルのY号戦車の試作競争で不採用になったポルシェ社の車体(VK4501(P))を利用したものである。
(採用されたヘンシェル社のVK4501(H)がY号T型戦車、タイガー戦車である。)
この時。ポルシェ社は審査結果を待たずに先行発注がなされており、90台程度の資材が準備してあり、これを利用した訳である。
この車両に88o PaK43/2 を主砲に装備し、重駆逐戦車が造られた。
なんと前面装甲は200mmにも達したという。旋回砲塔はなく、車体後部に大きな戦闘室を設けた。
このため、エンジンは車体の前方に置かれた。
エンジンはマイバッハ12気筒水冷式320馬力2基を持ち、電動モーターを併用するハイブリッド駆動システムを採用した。 しかし、このシステムは画期的すぎ、実用レベルのものではなく、実戦ではメインテナンス性にも欠けていた。 (この駆動方式が、ティーガー(P) が不採用となった理由であったらしい。) この戦車はポルシェ博士の名に因み「フェルディナント」と名付けられ、1943年5月までに90両が生産されて第653及び第654重戦車駆逐大隊に配備された。 両大隊は第216突撃戦車大隊とともに第656重戦車駆逐連隊を構成して1943年7月のクルスク戦(ツィタデレ作戦)に投入され、強力な砲により全体で502両のソ連戦車を撃破するという活躍をしたが、68tという大重量で鈍重で低速、メカも複雑で故障が多発したという。 機銃を持たなかったための歩兵攻撃で撃破されたというが、実際は歩兵攻撃で撃破されたのは1両のみ。 ソ連軍戦車の攻撃で撃破されたものが1両。 直接戦闘で失われたのは2両のみであった。 |
ほとんどは、修理可能な損傷や故障で回収できずに放棄された損害という。
これは本来の防御用という使用方法を無視し、攻撃に投入されたことが大きな要因であったという。
しかし、その戦闘力はソ連軍に大きな衝撃を与えた。
以来、ソ連軍はドイツ軍の自走砲は何でも「フェルディナント」と読んだことからもその受けた衝撃が伺われる。
ツィタデレ作戦終了後、生き残りの48両が回収され、防御を強化されて「エレファント」と改称。
11輌がイタリア戦線へ投入され、大活躍するが消耗戦に巻き込まれほとんどは失われる。
ソ連軍の夏季攻勢・バグラチオン作戦では最も得意とする迎撃戦で大活躍。
しかし、この戦い後には生き残った戦車は14両に減ってしまった。
その後も戦いを続け、最後の戦いはベルリン攻防戦であった。
これには4両が参加している。
わずか90両製造されただけであるが、ポルシェ博士の名とともに、その特徴ある無骨なシルエットと活躍で戦史に残り、強い印象を与える。
攻撃兵器ではなく、防御戦闘では無敵の強さを発揮する戦車といえる。
Y号U型戦車 キングタイガー
モデルは第3SS機甲師団所属
ドイツ戦車で最も人気がある戦車の1つ。
長砲身の88o砲と重装甲を持つ無敵の戦車。
機動性に難あり。敵は燃料のみ。
Y号U型戦車は通称「キングタイガー」(ドイツ名「ケーニヒスティーゲル」)と呼ばれている。
マイバッハ12気筒水冷式600〜700馬力を持ち、時速は42km。正面装甲はタイガー戦車よりさらに暑く150mm。重量は68tもあった。
同じY号戦車とは言え、T型とは別の戦車であり、T34の傾斜装甲を取り入れたX号パンサーの発展型といった方が良い。
主砲は1型と同じ88oであるが、長砲身でありさらに強力な砲を搭載している。
しかし、重量の割りにエンジンは非力で、駆動系に負担が大きかった。
この戦車はわずか485台製造されたに留まり、大勢には影響を与えることはなかった。
大戦末期の戦闘に登場し、特に「バルジ大作戦」(ドイツでは「クリストローゼ作戦」)での活躍が有名。
この戦車も戦闘で撃破されることは少なく、ほとんどは燃料の欠乏で失われた。
攻撃用というよりは防御戦闘用戦車であり、もの陰に隠れて狙撃した場合、かなう戦車は皆無であっただろう。
489両が製造された。
Y号U型駆逐戦車ヤクートティーゲル
この戦車の車体を利用し、128o砲(12.8cm Pak44 L/55)を搭載した駆逐戦車がヤクートティーゲルである。
戦争末期に80両ほどが製造されたが、すでに部隊に渡せる手段がなくなり、実戦には余り投入されなかった。
レマーゲン鉄橋の攻防戦で戦闘に参加した記録があり、レマーゲン鉄橋を渡ったアメリカ軍を迎え撃ち、威力を発揮した。
装甲は最大250oもあり、まさに動く要塞であった。
主砲の55口径128ミリ対戦車砲はドイツ戦車に搭載した最大の砲である。
しかし、この戦車も大重量による故障多発と燃料不足により、撃破されるより放棄される方が多かった。
この強力な戦車でも、生産数が少なく、戦局に影響を与えることは不可能であった。