第二次世界大戦 ドイツ海軍

アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee)
映画「戦艦シュペー号の最後」の主人公。
この映画で知った船である。
ドイツのドイッチュラント級装甲艦の3番艦。重巡洋艦並みの大きさに重巡洋艦の主砲20p砲ではなく、28p砲を搭載。
ポケット戦艦と言われる。
排水量を少なくするために電気溶接を多用し、同じ理由で舷側,甲板等の厚さが比較的薄く11インチ徹甲弾の防御は不能であり、防御より攻撃を重視している。


主要スペックは全長186m、全幅21.7m、重量1万トン,速力26ノット
兵装:28cm(11インチ)3連装砲2基、15cm単装砲8基、10.5cm連装高角砲3基、88mm高射砲3基、37mm連装砲4基、20mm機銃10基、533mm4連装水上魚雷発射管2基 、搭載機2機
機関はディーゼル(56000馬力、最大速力26ノット)
乗組員は士官30名、下士官、兵921〜971名

艦名は第一次世界大戦時のドイツ東洋艦隊司令官マクシミリアン・フォン・シュペーにちなむ。
1932年10月1日ヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠にて起工。1936年1月6日に就役し、数ヶ月に及ぶ完熟訓練を大西洋で行った。
翌年の1937年5月20日にジョージ6世戴冠記念観艦式に参加し注目を集めた。

第二次世界大戦が始まると、通商破壊作戦に従事し、南大西洋やインド洋で暴れ多くの商船を沈めた。
連合国は、戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦16隻という艦船を投入し、通商破壊艦の探索にあたった。そしてついに
1939年12月13日、南米ラプラタ沖でイギリス海軍G 部隊の重巡洋艦エクゼター、軽巡洋艦エイジャックス、軽巡洋艦アキリーズの3隻に捕捉され、海戦となった。
これを「ラプラタ沖海戦」という。
皮肉にもマクシミリアン・フォン・シュペー中将が戦死したフォークランド沖海戦の現場と近いのも不思議な縁である。
映画「戦艦シュペー号の最後」の最大の見どころはこの戦闘シーン、ちなみにシュペーを演じていたのは本物のアメリカの重巡洋艦だったという。

この戦闘でのシュペーの損害は比較的軽微であったが、冬季の北大西洋の激浪に耐えて本国へ帰還できる状態にはなく、艦長のハンス・ラングスドルフ大佐は、中立国であるウルグアイのモンテビデオ港に艦を退避させた。
一方、イギリスの重巡洋艦エクゼターはシュペーの主砲で大破した。
この重巡洋艦エクゼター、日本でもよく知られる。この船はスラバヤ沖海戦で日本海軍に撃沈され、その横転して沈没していく有名な写真が残る。

このウルグアイでのシュペーの退去を巡ってのイギリスとドイツとの駆け引きが「戦艦シュペー号の最後」に描かれるが、結果、シュペーはドイツ本国からのウルグアイからの早期退去命令もあり、修理もできないまま出航せざるをえなかった。
このやりとりの中、イギリスは本国から有力な艦隊を派遣したとかのにせ情報を流したため、ラングスドルフは、乗組員を危険にさらすことを避けるため、乗組員をドイツ商船に移乗させ、アドミラル・グラーフ・シュペーを残る40名の乗組員とともにモンテビデオ港外へ出して自沈させた。
この自沈の真の理由は、 イギリス艦隊勢力のニセ情報でも、弾薬の欠乏でもなく、船舶用ディーゼル燃料の加熱処理装置のパイプが被弾し、燃料処理システムを破壊してしまった。
その結果、燃料の大部分は加熱できず使用不能となり、燃料は16時間分にすぎず、本国帰還はもちろんのことイギリス巡洋艦隊との戦闘継続すらおぼつかない状態にあった。
この修理には約2週間が必要と考えられたが、72時間以内の出港をウルグアイ政府より通告され、不可能となった結果が自沈という選択であった。

戦艦ティルピッツ
ビスマルク級戦艦の2番艦。
38cm連装砲4基と31ノットの高速を持ち、43000tの排水量がある巨大戦艦。

主にノルウェー方面で戦ったが、船団攻撃に2回出撃し、1943年9月、シャルンホルストとともにスピッツベルゲン島を砲撃したのが唯一の実戦参加であった。
ビスマルクの持つ威圧感を引き継ぎ、存在するだけでイギリス軍の多数の艦船を引き付けるという戦略的価値を持っていたことにはなる。
このため、イギリス軍の目の敵にされ、英潜航艇(X艇)や英空母機による執拗な攻撃を14回も受け、1944年11月12日、5トン爆弾の直撃3発を受け、ノルウェーのフィヨルドで転覆した。
イギリス軍を引き付ける戦略価値はあったが、戦闘にはほとんど役にはたたなかった不運な戦艦である。
なんとなく大和や武蔵に似ているような・・。

ポケット戦艦  ドイチュラント
アドミラル・グラーフ・シュペー、アドミラル・シェーアと姉妹艦であるポケット戦艦である。
排水量は12000tと重巡並であるが、シャルンホルストの主砲と同じ28p砲3連装砲塔2基、6門という攻撃力を持つ。
1933年に完成。通商破壊戦を考慮し、ディーゼル機関の採用により長い航続距離を持っていた。
速力は26ノットと重巡並であり、さらに戦艦に近い打撃力を合わせ持っていたため、列強各国に衝撃を与えた。

初陣は1937年4月頃、スペイン内乱におけるフランコ軍支援であり、都市や共和国軍の施設を砲撃しているが、爆撃で損傷を受ける。
大戦が始まると通商破壊戦に従事、撃沈トン数は合計で6297tであった。
その後、「リュツオー」と改名した。この改名はドイツの名前を付けた船が万が一沈没した場合の士気の低下を考慮したものという。
その後、ノルウェー作戦、バレンツ海海戦に参加。
大線末期、本国に戻り、東部プロシアからポメラニアに向かってバルチック海沿岸を沿いを撤退する陸軍や市民を支援し、ソ連軍陣地を猛砲撃。

これがこの船の最大の戦功であり、28p砲弾の雨をソ連軍に浴びせ、撤退する陸軍に攻撃させる隙を与えなかったという。
この結果、多くの陸軍部隊や市民を無事の撤退させることに成功させている。

1945年4月16日、シュヴィーネミュンデ南方で英軍機の空襲により大破着底。
以後砲台として用いられたがソ連軍の接近に伴い自沈。
戦後ソ連が引き揚げ、再利用するため、レニングラードに曳航したが、使用されぬまま、1949年に解体された。



巡洋戦艦 シャルンホルスト

プロイセンの将軍ゲルハルト・フォン・シャルンホルストの名を冠し、初代は第1次世界大戦時シュペー中将の旗艦として大活躍した装甲巡洋艦である。
この船はその名を引き継いだ2番艦である。
再建ドイツ海軍の大型ボケット戦艦として建造され、1939年に完成したが、排水量32000tにも達し、立派な巡洋戦艦となった。

通商破壊戦用として建造されたため、32ノットの高速性能を持ち、同型艦グナイゼナウと共に大西洋を駆けめぐり、仮装巡洋艦ラワルピンディ、イギリス空母グローリアス、商船22隻等多数の艦船を撃沈、ナルヴィク揚陸支援作戦、チャンネルダッシュを始め、ドイツ海軍の係るほとんど全ての海戦に参加した。
しかし、1943年12月ノースケープ沖海戦でイギリス戦艦デューク・オブ・ヨークを中心としたイギリス海軍と交戦し、撃沈される。

この海戦では、無数の命中弾を受けるが、なかなか沈まず、ビスマルク譲りの高いダメージコントロール力と防御力を如何なく発揮したという。
アトランティック・バウと呼ばれる鋭い傾斜角の付いた艦首や上端を斜めにカットした煙突など均整の取れたスタイルを持ち、シルエットは他国の軍艦に比べ、抜きん出た美しさを持つ。
なんとなく外観がビスマルクと似る。
主砲は28cmと小さいが、38p砲に交換する予定であったという。


駆逐艦 Z級
ドイツのZ級駆逐艦は1934年計画から建造され、40隻の同型艦が存在する。
ちなみにZは ドイツ語の駆逐艦を表すZerstoererの頭文字を取っている。
基準排水量2,223tであるが、後期の艦は2600tほどに達している。
日本の陽炎級にほぼ匹敵する大型駆逐艦である。

後期の艦は主砲を12.7p砲から15cm砲5門に装換し、艦首砲塔は2連装砲塔にしている。
15p砲は軽巡洋艦の標準的な主砲であり、砲数は若干すくないが、軽巡洋艦と渡り合える戦闘力を持っていたことになる。
また、対空戦闘能力も高く、37o対空砲6門、20o機銃2門を装備していた。
さらに後期の艦になると15p砲は4門となったが、37o対空砲14門、20o機銃10門を備えた。

優秀な能力を持つ艦であったが、ドイツ海軍の運用能力は(ヒトラーの戦術までの介入も大きな原因であるが)イギリス海軍に劣り、十分に船の能力を活用することができなく、大きな戦果を挙げることはできなかった。

上はZ37である。艦首に軽巡の主砲と同じ15cm2連装砲塔を備え、後部に単装砲塔3基を備える。
対空火器として強力な37o対空砲6門、20o機銃2門を備える。
Z37は戦闘ではなく、事故で損傷し廃船となっている。

Z39である。1943年12月にノースケープ沖海戦にシャルンホルストを護衛して参加している。
終戦時も健在であり、戦後はフランス海軍に接収され使用された。
後部の15p単装砲を1基撤去し、対空火器を増設。 
37o対空砲は連装砲を含め14門に、20o機銃は4連装砲を含め10門に増強されている。