鶴丸城(栗原市栗駒岩ヶ崎字裏山 )
宮城県の北辺の片田舎にこんな城があるとは!とても田舎の城なんかではない。
ここは上方風の遺構と雰囲気を持つ宮城県内屈指の大型の戦国城郭なのである。
ただし、それほど知られてはいないのが残念であるが。

東北自動車道若柳金成ICから栗駒高原方面に県道4号線を北西に約7qほど行くと、国道457号線と合流する。
そこが岩ケ崎地区であり、岩ケ崎小学校がある。

ここが鶴丸城の居館の地であり、その北側の裏山一帯が城址である。
この山、標高100m、比高70m程度、城域は広大であり、東西600m、南北最大300mほどある。

西の最高箇所に本郭を置き、東の尾根筋に曲輪を展開させる。
途中に連続竪堀群があり、ここまでの部分とその東の蛭子公園の部分に城域が大別できる。
本郭の西には深さ20mほどもある現在道路の切通しとなっている堀切Dがあり、その北西の山に出城である黒岩館がある。

本郭Aは不整形をしており、80m四方ほど。北に突起状の出っ張りがある。
その周囲の切岸@は鋭く高さ8m程度か。
南側には枡形Bがあり、その先に曲輪群が展開する。
下部には大きな竪堀状通路Cがある。
この先が居館である岩ケ崎小学校であり、この道が登城路だったのであろう。

一方、本郭の東は堀切を介して二郭があり、さらにその先に帯曲輪がある。
変わっているのはその東の斜面。7条の連続竪堀Eが緩斜面を下る。

長さは40mほどだろうか。末端は横堀となる。
あまりこの付近の城にはないものである。
この東が蛭子公園であり、4つほどの曲輪FGが段々に展開する。
また、いくつか派生した尾根筋にも曲輪群が展開している。

@本郭西下の腰曲輪から見た本郭 A本郭内部、かなり広い。 B本郭南の枡形虎口
C本郭南端部にある竪堀状通路 D城西端の堀切 E7条の堀からなる連続竪堀群
この地は仙台と盛岡を結ぶ松山街道(陸奥上街道)と栗駒経由で秋田に通じる旧羽後街道が分岐する交通の要衝であった。
城は、南北朝時代に岩ヶ崎に移り住んだ富沢道祐が築いたという。

富沢氏は葛西氏の一族であり、道祐から直景までの五代の居城であった。
しかし、主家の葛西氏に対しては独立志向が強く、大崎氏について天正7年(1579)、岩井郡流庄に攻め入ったり、伊達氏に通じたりして、半独立勢力的存在であった。

それでも、葛西氏とは断絶しているわけではなく、天正18年には葛西氏に従って佐沼城で戦っている。
F蛭子公園の曲輪 G蛭子公園末端の曲輪の虎口

奥州仕置きで葛西氏は滅亡してしまうが、南部氏の家臣となり存続。
九戸政実の乱の際にはこの城が関白豊臣秀次の陣所となり、降伏した政実は城付近の稲屋敷で切られたという。
連続竪堀群などはこの時に上方の築城技術で構築したものであろう。

江戸時代は伊達氏の領地となり、伊達政宗の五男宗綱、ついで六男宗信らが入った。
その後、石母田宗綱、田村氏が入り、元禄年間に中村氏が入り明治まで続いた。
江戸時代には麓の居館、陣屋が主体であり、裏山の城はほとんど使われていなく、整備もされていなかったのではないかと思われる。
したがって、九戸の乱のころの戦国末期の在地の城形態と上方の城の特徴が融合した感じで残っているものと思われる。

黒岩館(栗原市栗駒岩ヶ崎字裏山 )

鶴丸城の西を守る出城である。
鶴丸城の本郭からは直線で300mという近距離である。

鶴丸城よりは標高は10mほど高く、もし、木がなかったら、鶴丸城の本郭付近が丸見えである。
これじゃあ、防衛のためでもなく、出城は造るだろう。

その黒岩館であるが、藪に埋もれている。行く道などある訳がない。
ひたすら突撃するしか手段はない。で、それをやったのであるが、質素な砦であった。

戦国時代から時は止まったまま。多分、一切の手は加えられていないものと思われる。
山の周囲には林道が巡り、どこからでも突入は可能であるが、西側が緩そうであったのでこの方面から突入。

この部分、両腕で覆うような空間である。
大手曲輪と言えるかもしれない。
途中から北側は土塁となる。3mの段差@をあがると本郭南側の腰曲輪Bに出る。さらに5m上が本郭Aである。
50m×40mほどの広さ。
東の鶴丸城側には数段の段郭が構成される。
@腰曲輪の切岸 A本郭北縁部 B本郭南側の腰曲輪