仙台市内の城
仙台市の城と言えば、青葉城こと仙台城をすぐに思い浮かべるだろう。
しかし、青葉城ばかりが仙台の城ではない。
伊達氏以前のこの地の領主、国分氏や留守氏の城も良く残っている。
そう言えば、青葉城も元は国分氏の城であったものを伊達氏が改修したものだった。

岩切城(仙台市宮城野区)
この地の豪族留守氏が代々の居城としていた城である。
仙台駅から東北本線を北上、2駅目の「岩切駅」の西にある標高106m、比高90mの高森山一帯が城址である。
高森山公園となり、山一帯は浸食により深い谷が形成され、残った尾根上に多数の曲輪や堀が展開する。

しかし、2011年3月11日の東日本大震災で大きな被害を受け、城址の各地で崩落が起きてしまった。
2012年にようやく復旧工事が始まったが、重機が城内に入り、傷だらけの状態であった。
また、管理もできる状態ではなく、訪れたのが7月ということもあり、草茫々状態であった。
宮城県内では有数の中世城郭にも関わらず、極めて悲惨な状態であり、そこら中、危険なため立入禁止であり、さらに草に阻まれ遺構を十分に見ることはできなかった。

留守とは変わった姓であるが、元は伊沢氏と称した。
源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、この地を与えられた伊沢将監家景が、文治年間(1185〜90)、陸奥国留守職に任じられた。
平安時代はだいたい国主は現地にはおらず、都に常駐していたので代理者に統治させていたことによる役職が留守職である。
伊沢氏は国府である多賀城近辺に居住し、役職を姓とし留守姓を名乗った。
しかし、留守職は鎌倉時代中期には形骸化し、役職の機能はなくなり、留守氏も役職を姓とした一土豪にすぎなくなったようである。

岩切城を居城にしたのは、戦乱がこの地にも及んできた南北朝時代、山城で要害性の高い点をかったのである。
元弘3年(1333)、鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が始まると、陸奥国へは北畠顕家が義良親王を伴って、陸奥守として多賀国府に入る。留守家任も当初、北畠顕家に従ったが、後に足利氏側に付くようになった。

貞和2年(1346)、足利尊氏は奥州管領、吉良貞家・畠山国氏の2人を多賀国府に送るが、尊氏と弟直義の対立にこの地の豪族も巻き込まれ、尊氏側に畠山国氏・留守氏・宮城氏らが付き、直義側には吉良貞家・和賀氏・結城氏らが付き戦闘状態となる。
そして正平6年(1351)、岩切城は吉良側に攻められる。
岩切城合戦である。

岩切城には畠山氏・留守氏・宮城氏が立て籠もり、余目城とともに吉良側に対抗、吉良側の和賀氏が岩切城の太田口(地点不明)に陣を置き、結城氏で余目城を抑え、岩切城を攻撃。
その結果、岩切城は落城、留守氏も没落、所領は八幡氏や国分氏に取られる。

しかし、応永7年(1400)以降、大崎氏が奥州管領職を世襲するようになると、留守氏は大崎氏について勢力回復に努め、復活、さらに伊達氏とも連携する。
伊達氏から養子を迎えることで留守氏内では大崎派と伊達派に分裂して抗争となるが、伊達派が勝利し、伊達晴宗の三男政景が入嗣する。
しかし、村岡兵衛が反発し、反乱を起こす。
そして元亀元年(1570)、政景は村岡氏を滅亡させ、村岡氏の居城、村岡城(利府城)に居城を移し、この時点で岩切城は支城となり、留守氏が奥州仕置で改易になると廃城となった。

@西尾根の曲輪群に沿って歩道がある。 A西尾根の曲輪群、15くらいの小曲輪が展開する。 B本郭西下の堀切は重機が入って破壊状態
C本郭内部、草茫々に重機の傷が・・ D本郭の南東尾根に展開する二郭、三郭方向 E東郭との間の尾根にある堀切

山城ではあるが、公園となっているので車で行くことができる。
南西側の西郭の先端部から歩道が延びている。
この尾根状の歩道@の西側尾根が曲輪群Aであり、15程度の小曲輪が約200mにわたり段々に展開している。
尾根の幅は15m程度だろうか、切岸は鋭く、途中に堀切もある。

その付け根部に堀切Bで仕切られた曲輪があり、東側が本郭Cである。
高森山の頂上部に位置する本郭は南北に細長く東西30m×南北70mの広さ、さらに南東に二郭、三郭Dが200mにわたり尾根状に展開する。
北東側には曲輪と堀切Eが展開し、その先に東郭がある。

こちらは平場中心の曲輪ではあるが、行ける状態ではなかった。
さらに多くの支尾根に曲輪が展開する。
城としては巨大な複合尾根式城郭である。
谷が鋭くかつ深く谷沿いからの攻撃は不可能。
尾根沿いからの攻撃しかできない。きわめて要害性の高い城である。
この城は秋から冬場に訪れるべきだろう。

松森城(仙台市泉区)
仙台市北部宮城野区の鶴が城公園が城址である。
この地の土豪、国分氏の居城である。
ここも東日本大震災で曲輪が崩壊し、2012年7月時点では管理もされていなく、草茫々の状態。
まともに歩くこともできなかった。

国分氏17代盛重が小泉(この城が後の「若林城」と推定される。)より居城を移し、天正年間(1573〜92)まで在城したといわれる。
多分、戦乱の時代であり、平地の城館より、防御力の高い山城を居城に選んだのであろう。

しかし、城はそれ以前から存在しており、伊達天文の乱に連動して発生した天文6年(1537)、隣接する国分氏と留守氏の合戦にその名前が登場する。
この伊達天文の乱では伊達晴宗方に留守景宗が、稙宗方には国分能登守宗政が付く。

これは味方をした訳ではなく、乱に便乗して一気に土豪間の問題・懸案を解決させようとする動きでもある。
この両者、隣同士であり、国分氏が今の仙台市付近を、留守氏がその北東、松島付近までを領土にしていた。
だいたい隣同士は仲が悪いことが多い。

特に領土が絡むとなおさらである。
乱に巻き込まれたことにより、留守氏の岩切城と国分氏の松森城が至近距離でにらみ合い、留守景宗が松森城を攻撃している。
その後、国分氏は伊達氏から伊達晴宗の五男である盛重が入嗣、留守氏にも伊達氏から政景が入り、両氏の抗争はなくなる。

しかし天正15年(1587)、伊達政宗に愛想を付かした盛重は、伊達成実に続いて政宗の下を去り、伊達氏の宿敵佐竹氏に身を寄せ、以後、秋田藩士として続く。

国分氏領は伊達氏の直轄となると、松森城は大崎氏に対する拠点として重要視され、石母田左衛門慰景頼が在城し、後に景頼に代わり、北目城主である粟野大膳宗国と助太郎国治兄弟が在城するがまもなく廃城となる。
江戸時代には、仙台藩の正月行事である「野初」の舞台となる。
@本郭南の堀切 A二郭から見た本郭草しか写ってない! B二郭西側の帯曲輪

標高90mの山にあるが、この山、ほぼ独立した感じの山である。
山上の頂部の尾根に沿って細長い曲輪を展開させ、上から見ると「鶴」が羽を広げた形をしている。
そのため「鶴が城」という別名がある。

東西に並ぶ2つの曲輪が主郭であり、西側が本郭、東西60m×南北70mの規模である。
その南側に虎口がある。二郭は本郭の東側8m下にあり、東西50m×南北100m程度の大きさ、途中から屈曲しており、1段下がって腰曲輪がある。
南に帯曲輪があり、腰曲輪に合流する。
さらに、北の尾根と南に延びる尾根に曲輪を展開させる。
いずれも居住性を十分な広さを持ち、当時は本郭に城主が盛重の居館、二郭に家臣の高平大学の居館があったという。

若林城(仙台市若林区)
現在の宮城刑務所が城址である。
しかし、刑務所に転用した着想は凄い。
外からの脅威を守るという機能を内に向ければそのまま城の機能が果たせるのである。

この城は仙台市の南東部、若林区にある単郭の方形館である。
しかし、その規模が凄い。


↑は土塁上に作られた刑務所の赤レンガの塀。
乗り越えて中を見たかったのだが・・・

曲輪は東西約420m、南北350m。曲輪面積は5万5000u、土塁と堀まであわせれば12万8000u。

堀は水堀であり、北東・南東・北西の三つの角と南辺中央に張り出しを持つ。
西が大手らしい。櫓もあったようである。

寛永5年(1628)、伊達政宗の隠居屋敷として造られたというが、戦国時代には小泉と呼ばれ、国分氏がここに城を築き、周りに町ができていたという。
江戸時代の地誌『仙台鹿の子』は、国分盛重が小泉に要害を築いて千代城(後の仙台城)から移ったという説などがあり、古くから存在していた城を再利用したものらしい。

隠居屋敷と言っても完全な城であり、土塁は刑務所の塀を造ったため上部を削っているが、高さ8mほどはあったようである。
水堀の幅は30mはあったであろう。

完全なる大城郭である。
実際のところは、ここは仙台城の南東方向を守る出城である。
しかし、寛永13年(1636)、政宗の死とともに廃城にされ、江戸時代には若林薬園となり、薬草が栽培された。
明治になり、堀跡と土塁を残したまま、土塁の上に高い塀をめぐらせ宮城刑務所として用いられている。
明治までほとんど破壊されていないことから、出城としての機能を持たせていたことは明白である。
昭和59年(1984)から8次にわたる発掘調査が行われ、平成16年(2004)に若林城の遺構が確認された。
いくつかの礎石建物跡と池の跡、多数の瓦が見つかっている。

航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを使用

東側の虎口跡は塀で塞がっている。 東側の堀跡、幅30mほどある。 南側の堀跡。