宮城県大郷町の城

大窪城(大郷町大松沢字論山)
仙台市と北の古川(大崎市)の間に大郷町がある。
大窪城はその北部、大松沢地区にある。

県道16号線沿い大松沢小学校北西500mの丘陵地帯南縁部、標高80m、比高70mの山にある。
南には鶴田川、吉田川の開析する平地が広がる。
対岸4qに花楯城や築館城がある。

城址の解説によると、大松沢氏が伊達藩の有力家臣として明治まで続いていたらしいが、この解説、どうもおかしい。

「大松沢家の先祖は飯田八郎左衛門藤原吉実といって、今から約六百三十年前伊達家の一族として伊達郡宮沢を治めていたので後に宮沢を名乗ったが、この吉実の玄孫に当る宮沢時実が大松沢初代の領主で、その禄高は八百貫文であった。」
と書いてあるが、630年前と言えば室町初期である。

このころ、伊達氏はこの付近には勢力は及んでなかったはずであるが、何でこの地に来れたのか?
どうも、江戸時代の主家の伊達氏に無理やり結びつけているように思える。

大松沢氏、おそらくはこの付近の土豪であったのであろう。
戦国末期、伊達氏の勢力がここに及ぶと伊達氏に属し、北の大崎氏に対していたのは事実であろう。
以後、伊達氏に属したことで大松沢氏が明治まで続くのである。
解説には色々な戦功が書かれているが省略する。

城へは県道16号線沿いにある北に入る道を行くが、この道、けっこう狭い。
山頂部に配水場があり、そこから少し東に下ると大きな堀切@があり、そこを越えると城域である。
この堀切、竪土塁も持ち厳重な造りである。
城のある部分より標高が高い東方向をかなり意識したものである。

堀を越えた場所が二郭Aであり、土壇Bがある。
この土壇は堀切方向からの敵を迎え撃つためのものであり、当時は櫓があったのであろう。
二郭は東西40m、南北100mほどあり、西側斜面に帯曲輪がある。
南端部が非常に変わっており、腰曲輪があり、その西に枡形Eのようなものがある。
ここから大松沢小学校方面に下る道が大手道ではないかと思う。

@北西側にある大きな堀切 A二郭内部、左が本郭の切岸 B@の堀切(写真左端に橋がある。)に面した土壇
C本郭内部、
かなり広く井戸もあり、居住性も良い。
D本郭東下の土塁と腰曲輪と堀。左が搦手口。 E二郭南西先端にある枡形?

二郭の西が7mほど高く、そこが本郭Cである。
本郭は東西100m、南北40mほどあり内部は平坦、土塁はない。
内部には井戸もある。

この曲輪、切岸の急勾配と高さがすばらしい。
10mほどの深さがある。
北側下には横堀があり、東側に腰曲輪Dがある。
ここから北に下る道がある。搦手口であろうか。

城址は公園になっていて桜の名所だそうである。
明治まで使われていた城とはいうが、見た限りでは中世そのものの城であり、近世に改修を受けた感じはない。
領主、大松沢氏は不便な山の上であるここには住んでおらず山裾に居館を構えていたのであろう。

築館城(大郷町羽生字築館)
大窪城の南4q、北に吉田川を望む南側から張り出した山が平地に突き出た比高35mの岡先端部にある。
城は三陸自動車道松島大郷ICの北5q、県道241号線沿いにある。
または東北本線品井沼駅から県道241号を西に4q進んだ地点にある。

築館城は、築城年代や築城者については明確ではない。
城址解説では岡氏が城主であったという。
岡氏はこの付近を支配した土豪であったらしい。
吉田川、鶴田川付近の低地の水田開発を業として勢力を張ったのであろう。
この城の他にいくつかの小城を有し城郭ネットワークを構築していたらしい。

この付近は戦国時代は、大崎、留守(のち伊達)氏の接点であり、岡氏はその間の激しい攻防の中で滅亡してしまったらしい。

西1qの花楯城から見た築館城。
本郭の平場が良くわかる。
B東側から見た城址。
段郭が4段ほど、互い違いに構築されている。
撮影位置手前には堀があったのではないか。
@本郭から見下ろした西側の腰曲輪 A南側の山地と遮断する巨大堀切。
先に見える民家が居館跡とかいう。

しかし、この城、なかなか雰囲気が良い。
北に突き出た扇状になった岡先端部を段々に削平し、3,4段の曲輪@、Bを作り出している。
本郭は50m×40mほどの広さであり、土塁はない。

ここからの眺望は非常に良い。
曲輪間は高さ5、7mほどあり、切岸の勾配も鋭い。
南側の尾根に通じる部分は深さ8mほどある堀切Aで遮断されている。
なお、この堀切、通路になっており、加工されているようである。
この堀切の西側の民家が居館跡と言われ、土塁があるという。
岡周囲には水堀があったようである。

航空写真は国土地理院が昭和59年に撮影したものを使用

花楯城(大郷町山崎字竹の内)
築館城の東1qにある。
北に突き出た山の先端部、比高30mほどの岡にある。
この城、行き方が迷う。山の正面、側面からアクセスする道がない。
しかし、裏側にあたる山の南側からアクセスすることができる。

天文頃、金沢長門守の居城と伝えられ、北から大館、本丸、中館、小館丸と続く連郭式遺構で、各々空堀で仕切られた中世に典型的城郭である。
と標柱に書かれていた。
しかし、地理的には築館城の支城、またはその逆の関係であり、金沢氏は岡氏の家臣であった可能性もある。

城は槍状というか、二等辺三角形をしており、底辺部に本郭Aを置く。
ここが「大館」であろう。
本郭は60m×40mほどの広さがあり、背後の南側に堀切@がある。

現在、道路になっている切通しも堀切跡であろう。

本郭周囲は高さ7mほどの切岸になっており、周囲に帯曲輪があり、西側の腰曲輪には民家が建っている。
先端部に向けて堀切Bで仕切られ曲輪が続くが、これが中館、小館丸と言われる曲輪であろう。
かつては畑であったようであるが、今は耕作が放棄され、藪状態である。

←は北側県道241号線から見た城址
@本郭南側の堀切 A本郭内部は平坦、一応、公園なのであるが。 B本郭北側の曲輪(中丸)間の堀切と腰曲輪

航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを使用