柴小屋館(丸森町小斎)
金山城の北3q、県道28号線沿いにある小斎小学校の北東の山が城址である。
山の標高は70m、比高は50m、東西に長く全長は400mほどあると思われる。
この山は東から西に尾根状に張り出し、北と南が谷津になっている。
おそらく南側の谷津に居館があったのではないかと思われる。

城址には八重垣神社があり、そこが本郭である。そこまでの道が多分登城路だったのではないかと思われる。
神社までは何とか行くことはできるが、かなりの藪。
この藪は冬に行ってもそれほど大差はないだろう。

神社付近は何とかあるけるが、他はどうしようもない藪である。
そこに7月のくそ暑い日に行くなんて気違い沙汰である。
おかげで写真を撮ったのだけど、藪しか写っていない。
しょうがないから鳥瞰図でイメージして!

八重垣神社の地が本郭(曲輪T)@50m×30mの広さ。
北側8m下に帯曲輪があり、東側下にも腰曲輪Dがあり、堀切があり、さらに遺構が東の尾根に続く。

本郭の西は虎口があり、土塁上の道を通って、曲輪U西の帯曲輪に下りる。
その間、本郭と曲輪U間に堀切があり、南下8mに腰曲輪がある。
そこまでの切岸の勾配は急である。

曲輪Uは50m×15mほどの大きさであり、西側は北に竪土塁状に曲輪が下る。
曲輪Uの南8m下に南側に土塁を持つ腰曲輪がある。
この曲輪の土塁は曲輪Vの竪土塁に続いていく。

曲輪Uの西には幅15m、深さ8mの巨大な堀切Cがある。
曲輪Vが非常に変わっており、銃座のような直径15mほどの土塁に囲まれた円形の陣地が2つ並ぶ。
その土塁間が空きジグザグの通路になっている。南に大きな竪堀が下る。

さらに北が曲輪W、西端は2重の堀になっている。この先にも遺構があるかもしれない。
田舎の山の藪に埋もれた城であるが、コンパクトであるが、メリハリがあり、かなり技巧的である。
伊達氏のおおざっぱな感じの城とはちょっと違う。
果たしてどのような技術を取り入れて整備したものか?
南から見た城址。手前付近が居館跡か。 @本郭内部、城址碑が建つが、震災で捻じれている。 A本郭虎口から見た南下の腰曲輪
B本郭、曲輪Uの堀切 C曲輪U、V間の堀切 D 本郭東下の腰曲輪

城主は相馬氏家臣佐藤為信であったというが、どのような人物であったかは分からない。
相馬氏の家臣であったが、後に伊達政宗に従ったというので、相馬領から送り込まれた人物ではなく、この地の土豪だったのではなかったかと思われる。

この地は戦国時代、伊達氏と相馬氏が争奪戦を繰り広げられていた場所であり、地元の土豪は勢いのある方にコロコロ味方を替えた。
もちろん、一族存続が第一だからである。

伊達氏が相馬氏からこの地を奪還後、佐藤氏がこの地の支配を任され、柴小屋館を居城としたという。
その佐藤氏、伊達家臣となり、江戸時代もこの地の領主で続く。きわめて幸運な一族だったことになる。

(鳥瞰図の方位90°ずれております。ご注意ください。)

金山城(丸森町金山)
丸森城から国道113号を南東2qほど進んだ金山地区の雉子尾川東の標高117.6m、比高90mの山にある。

伊達稙宗死後、この地に侵攻した相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋紀伊が永禄年間に築城したと言われる。
その後、相馬氏と伊達氏の攻防の末、天正12年(1584)伊達氏の手に落ちる。
なお、天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾ったのがこの城という。

この金山城は伊達政宗の家臣中島宗求に与えられ2千石を領した。
江戸時代もこの地は伊達藩領であり、元和の一国一城令により金山城は金山要害と称することになる。
当然、便宜上のことだけであるが。
城は引き続き中島氏が領し、明治維新まで居住した。

明治元年(1868)戊辰戦争後、南部氏が白石藩に転封され、城も補修されたが、後に幕末に勤皇派として活動した旧城主の中島氏に払い下げられた。
現在は、「お館山公園」となっている。
城は戦国時代は対相馬氏の最前線基地であり、侵攻と防衛両面での拠点であった。
戦国時代末期は伊達氏はここを拠点に相馬領、新地、駒ヶ嶺を落としている。
江戸時代も伊達藩領の南の防衛拠点であった。
このため、城は戦闘用の山城のまま整備されおり、石垣も用いている。

城は南東から北西に延びるほぼ独立した山の3つあるピークの北端部を利用している。

山麓に城下町があり、山の裾野に米蔵跡の平坦部@がある。
山はけっこう勾配がきつく、谷のような場所を登って行く。

@北の山麓にある米蔵跡の平坦地 A三の丸埋門の土塁 B出丸と本郭間の堀切。この上に木橋があった。
C本郭内部は平坦で見晴らしが良い。 D本郭南側は一段低く、枡形状になっている。 E本郭東側は高さ5mほどの石垣である。

三の丸入口の埋門Aを入ると三の丸の平坦地、さらに登ると硝煙蔵の平坦地、不動堂があり、さらに登ると二の丸である。
南東部には土塁による仕切Bが存在し、その南端に高さ約1.8mの石垣を組んで埋門と枡形を形成し、その外側には空掘が設けられ木橋が架けられていたという。
城址案内図ではこの部分を出丸と書いている。

本丸Cは頂部に位置し、東西約30m×南北約60mのほぼ長方形、南側Dが約1m低くなっている。
南側は枡形状になっているが、本来は銃撃陣地のようにも思える。その正面は相馬氏来襲方向である。
本丸の虎口は東と西あり、東が大手口で幅2〜3mのつづら折にになった登城路になっており石垣がある。
西が搦手口で、ここにも石垣がある。
二の丸は本丸周囲を巡り、東側には土塀で囲まれた馬屋場があったという。
本郭からは6mほど下である。
さらに東下に家中屋敷と言う平場があった。
石垣Eは相馬氏方向が重厚であり、これは見せるためのもののような気がする。

丸森城(丸森町新町)
天文の乱に敗れた伊達稙宗が強制的に隠居させられ、天文17年(1548)から永禄8年(1565年)までの17年間、住んでいた隠居城とし有名である。
なぜこの地に隠居していたかは分からないが、娘が隣接する相馬氏のもとに嫁いでいたこともあり、相馬氏をバックに復活を意図していた可能性もある。
稙宗の死後、伊具郡を稙宗の娘が嫁いでいた相馬顕胤に所領を与えるという遺言を根拠に相馬氏が伊具郡に侵攻し、伊達晴宗と戦いとなるが、天文の乱の影響があったのか、相馬氏の勝利となる。
元亀元年(1570)、丸森城は相馬氏の城となり、相馬盛胤は門間大和を城主に置く。

しかし、天正4年(1576)伊達晴宗・輝宗父子が反撃を開始、小斎矢の目(矢の目館か?)に陣を敷いて攻撃、8年間の攻防の末、天正12年(1584)に伊具郡は伊達氏が手中に収める。

伊達政宗は丸山城に天正16年(1592)、黒木宗元を城主に置き、天正17年(1593)に相馬領の駒ヶ峰城を落とすと、宗元を駒ヶ峰城に移し、高野壱岐兼高を丸森城の城主に置く。
関ヶ原後、 慶長6年(1601)、大条実頼が城主となるが、実頼は鳥屋館に移り、丸森城は廃城となった。

城は阿武隈川の南岸、国道113号線丸森大橋の南側正面に位置する標高70m、比高50mの山にある。
この山は南から北西方向に延びる山尾根突端部にある。

南から西側、そして北側にカーブしながら阿武隈川の支流、内川が流れる。城は東西400m、南北200m位が城域であり、城址一帯は林に覆われる。
主郭部は東西に3つの曲輪が並び、本郭Bが西端に位置し、東西40m×南北15mの広さがあり、愛宕神社と、伊達稙宗の墓碑が建立されている。
神社付近が一段高く、曲輪内には巨大な岩がある。
しかし、この曲輪は居館のあった場所ではないであろう。
ここは城の鎮守のための場所であろう。

二郭とは土橋で結ばれ、幅15m、深さ7mほどもある巨大な堀Aで二郭と隔てられる。
その周囲に多くの段郭があるが、林が鬱蒼としていて確認できない。
二郭は本郭の東側に位置し、かなり細長い。
東西80mほどあるが、南北の長さが藪で分からない。
多分、居館はここにあったのではないかと思われる。

東に一段低く腰曲輪があり、東に空堀@を隔てて三郭が位置する。
@二郭東側の堀・・・草茫々で分からん! A本郭(左)と二郭間の堀 B本郭内部には愛宕神社と伊達稙宗の墓碑がある。

矢の目館(丸森町小斎)
金山城の北3q阿武隈川が大きく北にカーブする場所の東岸の平地にある。
周囲は完全な水田地帯である。
100m四方の方形館であったらしく、土塁の一部と水堀の一部が残る。

昔の航空写真を見ると堀跡がくっきりと確認できる。
かつてはさらに外側にもう1周堀があったという。
丸森城に隠居していた伊達稙宗の死後、相馬顕胤が伊具郡に侵攻し、占領する。
これに対して天正4年(1576)伊達晴宗・輝宗父子が反撃を開始、この時、陣を置いたのが、小斎矢の目という。
すなわち、この館のことだろう。
そして8年間の攻防の末、天正12年(1584)に伊具郡は伊達氏の手中に復帰する。

↑ 金山城本丸から見た館跡、直線距離で3q。
伊達氏はここから、金山城を牽制したのだろう。

→国土地理院が昭和50年に撮影した航空写真。
堀跡が明瞭に確認できる。
南端部の土塁跡、水田は堀跡 北東端に残る水堀の一部