新庄館(栗原市高清水影の沢)
旧高清水町中心部から県道1号線を東に進むと、東北新幹線の線路がある。
この東北新幹線が貫く北側のトンネルの上の山が館跡である。

北西はサイボク東北牧場であり、その南東に張り出した尾根先端の標高48m、比高33mの山にある。
サイボク東北牧場から行くこともできるが、防疫のため、立入禁止となっており不可能。

このため、新幹線のトンネル入口脇から直登した。
当然、道などなく、館内部は管理された状態ではないが、それほどの藪状態ではない。

凄まじいのは蚊の攻撃、集団で襲撃してくるのでたまったものではない。

トンネル脇を登ると2重堀切@、Aに出る。この西側が主郭(T)である。
北側に2重の横堀B、Cがあり、中央部に土橋がある。
西側のサイボク東北牧場側とはこの堀が延びて台地を遮断する。

堀に面して曲輪内から高さ2mほど、堀底からは4mほどの土塁Dが北側150mほどの長さを覆う。
土塁の南側が主郭であるが、数段になっているが、それだけである。
この曲輪は明らかに北に対して厳重であり、想定する敵が北方であることが分かる。

一方、2重堀@、Aを介して東側にも曲輪(U)があり、土塁と堀が存在する。
しかし、様相が異なり、こちら側はかなり曖昧な感じであり、堀も塹壕程度のものである。

この館は新幹線工事に伴い発掘調査をしたとのことであるが、出土したのは平安時代の土師器などであったという。
北方に対する備えも考慮すると、築城当初は蝦夷に対する防塁が始まりではなかったと考えられる。
古道がこの付近を通っていたというが、2重堀@、Aがそれなのかもしれない。
関所城であった可能性もある。

しかし、遺構を見ると戦国時代といった感じであり、戦国時代に大崎氏が古代柵を整備して、対葛西氏用の砦として再利用したのではないだろうか。

南から見た館跡。右に東北新幹線の架橋が見える。 @曲輪T、U間の二重堀切の東側の堀。
 竪堀となって南側斜面を下る。
A @の堀の西側の堀、南側は腰曲輪となる。
B Aの堀は曲輪Tの北側から西側を覆う。 C Bの堀のさらに北下にもう1本の横堀がある。 D 曲輪Tの北側の土塁。
堀底から4m、曲輪内から2mほど。

宮野城(栗原市築館下宮野)

旧・築館町宮野の市街地北の比高60mの山に築かれ、南東下を国道4号線が走る。
城のある山は北から南に張り出しており、その南端部を利用している。

宮野幼稚園東から登って行く道があり、車で本郭直下まで行くことができるが、道はかなり狭い。

この宮野幼稚園付近に居館があったらしく、地名が「築館」「下宮野館」である。
旧町名の築館町の「築館」とはこの宮野城を指している。

ここにある「皇大神社」の地が出城であり、南側の集落が根小屋であったらしい。

けっこう広い城域を持っていたようであるが、かつては畑となり、かなり遺構は湮滅したらしい。
現在は耕作も放棄されたようであり、藪に覆われている。

本郭は公園にはなっているが、ほとんど人が来ている感じではない。
本郭@は60m×30mほどの広さがあり、切岸は高く、勾配が急である。
@本郭内部、公園になっているが、人の気配は? A本郭北、二郭間との堀切。ほとんど藪である。

北側に土壇がある。
その北に腰曲輪を介し、深さ5mほどの堀切A、そしてその北に二郭がある。
周囲には畑として使っていたと思われる帯曲輪があるが、どうにも藪化し、草が凄くて分からない。
印象としては非常に古い感じを受ける。

藤原秀衡が築城したと伝わるが、どこまで真実か疑問。伝説の世界であろう。
戦国時代は葛西清重の四男・重信が宮野に住み、宮野を称し、代々が居城しするが、奥州仕置で葛西氏が滅亡して廃城となり、宮野氏は伊達家家臣となり存続する。

沢辺館(栗原市金成沢辺寺沢)
東北道若柳金成ICの西2qの臥牛館公園が館跡である。
鎌倉時代葛西氏の家臣二階堂常信の居館であったという。
常信は正治年間(1200年ころ)衣川よりこの地に移り、沢辺館を築き、沢辺氏と名乗り、戦国時代は葛西氏に従う。

文安5年(1448)にこの地は大崎領となり、沢辺氏は一時、一関の黒沢に逃れるが、天正4年(1576)の葛西大崎合戦で沢辺館が再び葛西領になったので沢辺氏が復帰、以後、奥州仕置きで葛西氏が滅亡するまで居館する。

葛西氏滅亡後は伊達氏に仕えた葛西家臣の小野寺氏が道行、道重、道貞3代にわたり居館した。
臥牛館とも呼ばれ、現在は臥牛公園となっている。

南西側から北東側に突き出した尾根状の台地先端部付近に築かれる。
北に三迫川が流れ、天然の水堀となる。

東西130m、南北250mほどの城域があり、北東側が本郭であり、配水場がある。
60m×30mほどの広さである。
その周囲は段々状の帯曲輪が展開する。

駐車場となっている場所付近は2重堀切が存在していたのではないかと思われる。
北側には土塁が存在する。
@本郭内部。北端部に土壇があったようである。 A二郭(左)下の腰曲輪

二郭と推定される地は直径25mほどの土壇になっており、神社がある。
ここに経塚がある。土壇の切岸は高さ7mほどあり、南側に突き出し30mほどの帯曲輪がある。
南西側には2条の横堀が存在していたようであるが、湮滅している。
その西側国道4号線付近の集落が根小屋であったという。