中染要害(常陸太田市(旧水府村)中染町)
久慈川の支流山田川が流れる水府の谷には中世城館が集中する。
その代表城郭は山入城であるが、その山田川下流域の南には松平城、東和田城、棚谷城、和田小屋城、高柿城、久米城などがあり、上流域には町田城、町田御城、曽目城(林の下城)、西染城、追野平館、天下野(けがの)館、武生(たきゅう)城が存在する。

この中染要害は、その存在はうっすらとは聞いていたが、全貌は未知のままであった。
しかし、ようやくPの遺跡侵攻記で概要が紹介された。

それに基づき、確認に行った。
結果として小規模ながら横堀、土橋を持つ中世の城郭であることが確認できた。

場所は「中染消防署」の北の山の北端である。なお消防署の南の山が「曽目城」である。
北の山は東金砂神社から南西に張り出した尾根末端部であり、西端が山田川の崖となる。
川からの比高は100mほどであり、特に北側、西側は急坂、あるいは崖面である。
末端部が盛り上がりピークが南北に2つ、それ以外にもいくつかのピークがある。
南側の標高180mのピークにはNTTのアンテナが建てられているが、この山ではなく、その北の標高170mのピークである。
この山塊、車で1周することができ、東側に鞍部を横断する細いが舗装された道がある。
この道、狭いが十分、車が通れる。

その最高地点標高130mの鞍部の峠付近から尾根を西に向かうと城にたどり着ける。
直線距離としては400mほどか。この付近に何とか駐車も可能である。
なお、この峠付近自体もどうやら城の一部のような感じである。

この城、攻撃をするとすれば、もっとも弱いのは尾根伝いの東方面であり、このため、峠付近のいくつかの小ピークは見張り台のような感じである。
これはそれを想定したものであろう。

北側から見た城址 @東端にある堀切利用の旧道 A旧道は竪堀のようである。

この峠から尾根伝いに西に向かうと大きな堀切@がある。深さは10mほどある。
南側は竪堀Aのようになっているが、これは旧道の跡であるが、当然、城の防御施設としても使ったであろう。
この西側に3つほどのピークBが連続する。高さは鞍部からは10m程度、急勾配で上は平坦、あるいは大きな岩がある。
これらは見張台と見てよいであろう。ここを過ぎると尾根伝いに南に向かい、Cの平場になる。
ここは北側が土塁状になっており、南側に2段ほどの腰曲輪状の平場がある。
これは人工物と見てよいであろう。この地点の標高は150m、ここから北西の尾根を行くと主郭部である。
それまでの間の鞍部には2重堀切があるが、かなり埋没している。

B東側にはピークが連続。物見台だろう。 C主郭東下の曲輪。段々の帯曲輪がある。 D主郭西下の横堀
E主郭には3、4つの塚があるが、古墳跡? F主郭南西下の土橋(坂虎口) G主郭北下の切岸

高度で20mほど登ると主郭部Eである。主郭部は二等辺三角形をしており、長辺20m、底辺15mほどの小さなものである。
山頂には3,4個の塚のようなものがある。古墳の残骸にも思える。
広い訳でもなく、とてもここに立て篭もって戦うようなものではない。臨時的、一時的な規模である。
多分、ここに狼煙を上げる施設か、太鼓・鐘を鳴らす施設があったのではないかと思う。とは言え、まったく無防備ではない。
山頂の平場から約5m下、山の勾配が緩やかな南側から西側にかけて横堀Dが回る。かなり埋没しているが、形状はくっきりしている。
東端は竪堀となる。北端は腰曲輪となる。そして南西角部に土橋Fがきれいに残る。
その南西側に腰曲輪が2つほどあり、Cの曲輪から直接、主郭に行くのではなく、西側に一度迂回してこの土橋から主郭に入ったのではないかと思われる。

主郭の北西側に尾根が下り、その尾根沿いに段々状に曲輪が展開し、小規模な土塁G、堀切も見られる。
北端は主郭から100mほど、高さで15mほど下がった曲輪あたりと思う。
この城についての伝承はないようである。しかし、北方向を監視する城であることは明らかである。(南は見えない。)
当然、南に運用者がいるはずである。と、すれば曽目城の出城か、さらに南の山入城の出城と思われる。
しかし、横堀を巡らす点で曽目城よりは新しい感じであり、戦国後期の感じがする。
山入城に山入氏が健在な戦国中期ころ、横堀を持つような城がこの地区に存在したのか疑問である。いずれにせよ謎の城と言えるだろう。

追野平館(常陸太田市(旧水府村)天下野町)
この城もPの遺跡侵攻記で最近、存在が紹介された。
でも、城郭遺構であることは間違いないが、城というほどの規模ではなく、物見台程度のものである。
場所は旧水府村天下野の東の山である。
ここに最近造成された墓地(天下野第二墓地)があり、その裏の山にある。


北から見た館跡。右側の山の中腹に墓地が見える。
その左の山が左の図のUの曲輪。
左側の松が生えた場所が曲輪T。

この墓地も結構高い場所にあり、標高は130m、山田川の標高が80mであるので比高が50m。
城郭遺構のある場所は標高170m。墓地からも比高は40mである。
山田川を挟んだ対岸の山が天下野館、北には武生城が見える。南に中染要害が見える。
この城のある尾根筋、かなり急勾配であり、登るのが結構大変である。
尾根上には明らかに物見台Aと思われる高さ5mほどで頂上が直径5mほどの人工が加えられた曲輪Tがあり、その前後に堀切、西側にU@、Vの2つの曲輪、その間に高さ4mの差があり、堀切がある。
さらに西に下る尾根に小曲輪WBを配置するだけのものである。
堀切はいくつかあるがかなり風化埋没しており、堀切と言えるか微妙なものである。
全長も50mほどに過ぎない。尾根は平坦に加工されているが、その幅は3m程度である。

@曲輪Vから見た曲輪Uの切岸。
手前に堀切があるのだが。
A 主郭に当たる曲輪Tを東側から見る。
ここにも手前に堀切があるのだが・・。
B西下に延びる尾根末端の曲輪。

この城の役目であるが、2つ考えられる。
1つは、天下野館とペアで山田川の谷を両側の山から抑えるため。
この両館の存在で谷筋の侵攻は阻止できる。
この場合、天下野館が本城である。
もう1つは南の谷が東金砂神社への道。東金砂神社への入口を管理する城。
(一方、天下野館は西金砂神社への入り口、天下野道を管理する城としての役目もあったと思われる。)
城が機能していたとすれば、2つ目の可能性として、東金砂神社が登場する山入の乱の最終場面で臨時に築城され、神社に立て篭もる佐竹義舜の手勢が敵である山入勢の来襲を知らせるのに使った程度のものではないかと思われる。