棚谷城(常陸太田市(旧水府村)松平町)
 棚谷城は山入(やまいり)城のある要害山の谷を隔てた南側の山上にある。
山入城(国安城)の出城の一つとして築城されたと思われる。
 応仁の乱後、京都より帰った山入義顕は文明元年(1469)この城に弟の義藤に入れ、さらに引退後は義藤を山入城に入れ、自分はこの城に引退した。
 その後の山入氏の滅亡でこの城も落城したという記録が残る。

しかし、山入城はその後も常陸太田城の詰城、北の守りの拠点として整備されているので、棚谷城も出城としての機能は果たしていたものと思われる。
 その傍証として、現在残る遺構は出城のレベルではない広大なものであり、総延長は700mを図る。
城は南北2つの部分からなり、多くの段郭が傾斜が緩い山の南斜面に展開する。
いわゆる階郭式城郭であり、この形式は主城に当たる山入城や南の和田小屋城と全く同じであり、まさに三兄弟が南北に並んでいるといった感じである。

 東側、北側は斜面の勾配が急であり郭は見られない。
段郭が中心であり、堀は明確に見られない。
 土塁は部分的に見られる程度である。
尾根には堀切が見られ、館跡と推定される平地も2箇所確認できる。
防御主体の城というよりも居住主体の城という感じである。
城の登口は出羽の部落にある。ここを登っていくと途中に大手口があり、枡形が形成され、曲輪や土塁が見られる。
 北側には塁壁が立ちはだかる。
この北側が南城であり、ここは緩斜面に郭が展開する。
 300m×200m位の城域である。郭の塁壁には岩が多いところがあり部分的に石垣で補強されていたと思える。大手道は南城の西側を通る。

南城の本郭は山入城側、北側最高高度地点にあり、櫓台と推定される盛り上がりがある。
 標高は120m程度であり、麓からの比高は80m程度。その東は尾根になるが堀切が2箇所見られる。
 南城から尾根を標高差で20mほど下り、下り再び登ると北城に至る。
ここは東と北側に物見台のような郭を配置した館跡が中心となるが、郭は明確ではなくまとまりがない。
北端の物見台の標高は140m程度であるが、その北側は低くなり、細尾根となって北方の山地につながる。
城域はこのあたりが北限と思われる。

 

城のある山は下の写真でも分かるように、周囲は急勾配であるが、山上部は比較的勾配が緩い。
その山上部に階段状に広い曲輪を展開する。
南向きの斜面であるため、日当り良好、北風も防げる。
ここに居館があってもおかしくない感じであるが、その居館に相応しい場所が北城の部分に存在するので、この段々の曲輪には居館は無かったように思える。
この広い曲輪に人を収納すればかなりの人数が収納できる。
その意味では緊急時の避難用のスペースかもしれない。
しかし、別の見方をすれば、この階段状の曲輪群は倉庫ではなかったかと思う。
戦国末期、山入城は常陸太田城の詰の城であったらしく、その支城がこの棚谷城である。
当然、常陸太田城を支える機能があったはずである。
管理人はこの曲輪には米蔵や武器などの資材保管庫があったのでないかと思う。つまりここは巨大倉庫なのじゃないかと。 

東の松平城から見た南城。 大手口の枡形虎口。 大手口の土塁。 南城南斜面の曲輪。
南城東側の尾根の堀切。 南城の北端。 南城の郭間の段差には石がある。 北城の館跡東の土壇?
北城の館跡推定地 北城東の櫓台跡? 北城から見た山入城。 南城西下の大手道。

曽目城(常陸太田市(旧水府村)中染)

常陸太田北消防署の南側にある標高159mの山が城址。
「林の下城」ともいう。
城のある山は500m四方の独立した山であり、周囲を車で一周することができる。
この場所は、大子、太田、金砂郷、東染の4方向に道が分岐する交通の要衝である。
城のある山は西を流れる山田川からの比高が約100m、南側には染川が崖を造る。
西側、北側は急勾配であるが、東側のみ傾斜が緩い。
山は三菱の3ダイヤモンドマークのような形をしており、4つのピークを持つ。
上から見ると「H」形に近い形状をしている。それぞれのピークに郭があり、そこを中心に郭間の鞍部に堀切が築かれる。
城域としては直径300m程度である。 
上の写真は北東側から見た曽目城である。
右のピークが郭V、中央が郭Tに当たる。
城に入るには南側の遠山神社から登るのが良いが、神社付近は道が狭くて車を置く場所がない。
北東側大越の県道沿いの空き地に結構広い空き地があるため、ここに車を留め、北東側の神社の幟を立てる2本の塔のある場所からも入ることができる。
城の遺構はほぼ完存している。
ただし、竪堀等は年月によりかなり埋まっており、良く観察しないと分かりにくくなっている。
埋まっていないとしても元々それほどの規模のものではなかったようである。
主郭は郭Tである。ここの標高は140m、東西60m、南北15mの規模があり、この城の曲輪の中では最も広い。
その西側、郭U側に櫓台がある。(中央郭にも土壇が1基ある。)郭Uまでの間の尾根は鞍部になっており、櫓台直下に堀切がある。
郭Tの南側2mに幅15mの腰曲輪があり、さらに南側の斜面に館跡または蔵跡と推定される東西30m、南北20mの平坦地があるが、果たしてここが館跡か蔵跡であるのか植林や畑作に伴うものなのかは疑問が残る。(現在、杉が植えられているが、木は若く、かつては畑であったようである。)
西側と東側が高さ2m程度の土塁で防護される。
この場所は日当たりが良く、冬でも北風が防げる館を置くとしたら絶好の場所である。
その平坦地の南は長さ37mの緩斜面になっており、さらに南に2段の曲輪がある。
大手はこの南側の遠山神社のある方面であろう。
この山下の遠山神社付近の方が平時の居館を置くのに適している場所であり、この郭T南側の平坦地は重要物資である米や武器を保管する倉庫を置いていたと考えたほうが妥当かもしれない。
郭Tの東側には堀切があるが、その先の尾根はだらだらとしており比較的傾斜は緩やかである。

防御的には弱い部分であるが、なぜかこの尾根筋には特段の防御施設はない。
郭Tの北側には5mほど下に腰曲輪があり、北東側に派生する尾根に堀切がある。

その堀切から延びる竪堀が北東からの登り道となっている。
一方、郭Tの西側の尾根を行くと郭Uに至る。郭Uはこの城で最も標高の高い場所であり、標高は159m、郭Tよりも20mほど高い。
郭T側5m下には2本の堀切があるが、規模は小さい。

東西20m、南北37mの広さがあり、南側が1段低くなっている。
ここには神社の小さな社殿が建つ。
ここは最終的な避難所であるとともに物見台、郭T防御のための砦であったのであろう。


この郭Uを中心に南北に尾根式城郭の形となる。
南の郭W、北の郭Vはいずれも尾根のピークであり、その尾根の鞍部には堀切がある。
郭V、U、W3つの曲輪の総延長は約300mである。
南の郭Wまでには大小3本の堀切があり、最後の堀切を過ぎ、5mほど登ると郭Wである。ここの標高は140mほどである。

郭は東西50m、南北30mの広さであり、東に2段、郭U側が1段低くなっている。土塁等はない。


一方、郭Vは郭Tから北に一度15mほど下り、再度5mほど登った場所の標高150mのピークである。
鞍部には土塁を持つ堀切と尾根を横断する土塁が1本ある。
広さは頂上部の曲輪が直径20mほど、東に3段、郭U側に1段の腰曲輪を持つ。総延長は60mほどである。

なお、郭T、U、Vに囲まれた谷間も段々となっているが、これも城郭遺構とは思われるが、ここにも蔵かなにかあったかもしれない。
しかし、水はけが悪く、場所的に余り良いとは思われない。

郭V、郭Wも郭Uとともに主郭である郭Tを防御する役目があったものと思われる。
館(根小屋)を尾根上の城砦群が守る小規模な複合城砦群形式の城であり、構造的には久米城と少し似る。
曲輪や堀切等は形式的に古い感じを受け、規模も小さい。

この城は、北、西、南側の要害性が良いが、東側が弱く、非常に中途半端な印象を与える。
戦国後期に使われていた感じは受けない。 

郭Tの東側の堀切 郭Tにある櫓台 郭Tの櫓台を郭U側の鞍部より見る。 郭T内部。東西50m、南北20m程。
南側から見た郭U。直径20m程度の広さ。 郭Uから北側を見る。曲輪と堀切がある。 郭U、V間の鞍部から見上げた本郭。 鞍部から見上げた郭V。
郭V内部。郭Uと同規模。直径20m程度。内部は平坦。 東から見た郭U(左)と郭V間の鞍部。 郭T南の館址と土塁。 館址内部。

築城時期ははっきりしないが、国安城の支城として山入氏により砦程度の規模の城が築かれたのが始めではないかと考えられる。
山田川対岸の西染城とともに水府の谷への北側からの侵攻に対応した城であったのであろう。
山入氏滅亡後、この城には天神林義成、義益親子が入る。
彼らは山入派であったが、義成の二男右京亮は佐竹義舜に組し、金砂山合戦に功があったため、染林下百貫文を賜ったと伝えられる。
天神林一族も一族を2つに分け、氏族の存続を図ったのであろう。
天神林氏が入った後、城が拡張整備されたのではないかと推定される。
その後、文禄年間、中染673石は佐竹義宣の蔵入地になったため、天神林義隣は他地に知行を与えられたという。
おそらくこれ以前には既に使われなくなり、この頃、あるいは佐竹氏秋田移封の頃、完全に廃城になっていたものと思われる。

松平城(常陸太田市(旧水府村)松平)
 水府の谷に東側の山系から延びる尾根の末端部の丘に築かれた城郭。
 山田川を挟んだ対岸西側には国安城と棚谷城が存在する。
 下の鳥瞰図と縄張図は現状を示したものである。 

 城のある丘の両側は侵食谷となっているが、北側は勾配がきつく、南側は緩い。
 本郭のある部分は尾根末端部の比較的広い平坦地であり、西側は山田川の低地から比高20m程度の崖面である。
 長松寺の南側が本郭と言われおり、周囲には土塁が巡らされ、西側を除く3方向には堀が掘られていたと言う。

 しかし、土塁と堀は稲荷神社側に残存するのみで他は宅地化及び畑となってしまい失われている。
 本郭の範囲であるが、これが非常にわかりにくい。南側に段々状に曲輪が存在していたことは現在でも伺い知れるが、東側が良く分からない。
 高さが高い長松寺の境内も当然城域でないとおかしい。

長松寺の境内までが本郭とすれば南側の腰曲輪まで含めて直径200mという広さとなる。
 この規模であると完全に居館といった規模である。その東の墓地となっている一段高い場所を観察すると墓地の中に堀が残存していた。
 さらに尾根の上方向に3つ程度の曲輪が段状に存在していたようである。

 ここに曲輪がないとより高い位置である東方から城内は丸見えであり、攻撃を防御することができない。
 また、西側の本郭が危うくなった場合の避難と防御が出来なくなる。

 この立地条件は茅根城とも似ている。現在、この曲輪は墓地と駐車場であるが、三段に分かれていることが分かる。
 最上段の墓地の東は切通しの道になっているが、ここはもとから切通しの道であり、これを拡張したものという。
 もともとの切通しの道はおそらく堀切であったと思われる。

 本郭の北側は稲荷神社のある曲輪となり、この方面に搦手があった。稲荷神社までの間は大きな堀切状になっている。
 稲荷神社は段々状になっており、北側には堀がある。さらにその北側は自然地形である。北側を守る拠点である。
 松平城の縄張りについての資料は少なく、完全に復元することは不可能である。
 右上の図は、現地調査、現地の人からの聞き取り及び重要遺跡報告書掲載図等から推定した鳥瞰図である。
 応永年間(1394−1428)山入一族佐竹与義の長男義郷が築城し、以後松平を名乗った。
 孫の久高は山入の乱で本家筋の山入方に組せず、佐竹宗家側に付いたため、山入勢の攻撃を受けて討死し、
一族は高柿城に移り3代に渡り高柿氏を名乗ったが、佐竹義宣の代に松平城に復帰し、松平姓に復したが、文禄4年(1561)水戸の藤井に、次いで天正19年(1591)府中城に移った。松平城の廃城は文禄年間と推定される。

西側の棚谷城から見た松平城稲荷神社の郭。 北側にある稲荷神社。城址碑が建ち、背後に
堀が残る。
長松寺駐車場から見た本郭跡。遺構はほとんど
ない。

西染城(常陸太田市(旧水府村)西染町) 

山田川が流れる水府の谷西側の山にあり、対岸東側1qの曽目城と対する。
しかし、ここに城があることを知っている者は、地元の人でもほとんどいない。
ましてはるばるこんな山城を訪れる者もいないであろう。山であった地元のおじさんもここが城であることを全く知らなかった。

城という伝承もないとのことであった。(ただし、山裾の谷間に寺の跡と伝承される平坦地があるとのことである。これが城と関係するのかは分からない。)
でも、間違いなくここは城であった。
この山は染和田小学校の西に位置し、標高190m、比高は120mと結構高く、周囲の斜面の勾配は急であり、至るところに岩が剥き出しになっている。
もっともこの山系は棚倉断層の活動で出来た山であり、勾配が急であることは不思議なことではない。
この山の数q北には武生城があり、その付近になると山の勾配は急、緩いではなく、もはや崖が連なっているといった状態である。
西染城はそのような山に築かれた尾根式の城郭である。
城へは麓から林道が延び、軽の四駆車なら城址まで行くことができるが、この林道は荒れていて行くまでが難儀である。
この林道は城址主郭部がある山頂部を1周するが、北側で大きくカーブする。
そのカーブの北側に平坦地がある。ここが曲輪Wである。50m四方の広さがあり、東西は1段低くなっている。 林道建設のため本来より若干狭くなっているようである。
北側は2mほど高く、20m×40m程度の広さがあるが、内部は平坦ではない。
ここには石の小さな社がある。どうやらこの曲輪Wが小屋等のあった場所であろう。
曲輪Wの周囲は急坂である。2年ほど前に来た時は、ここまで見て帰ってしまった。
曲輪Wの南側の山が主郭部であり、何らかの城郭遺構はあるとは思っていたが、登るのが危険でありあえて冒険はしなかった。
その主郭部である曲輪Wの南側の山であるが、林道建設で山が削られ取り付ける場所がない。
かろうじて北側から木にしがみついて登ることがそうであり、ここから意を決して登る。
5mほど登ると、もうそこは平坦な曲輪である。ここまで来る人間はいないようであり、小曲輪が数段、段々となり、山頂部まで続く。
埋没した堀切跡も確認できる。山頂部は曲輪Wより20mほど高い。
ここが本郭(T)であるが、20m×5m程度の広さしかないが、非常にはっきりしている。
東側は1段低く、腰曲輪がある。南側は尾根で下りとなり南側のピーク曲輪Uにつながる。
その間の鞍部にはお決まりの堀切がある。曲輪Uはその20m南であるが、頂上部は直径6mほどのスペースになっている。

物見の曲輪であろう。この先は林道建設による崖のため戻るしかない。
一方、曲輪Uの南東側に延びる尾根があり、ここを行くと曲輪Vがある。
ここも尾根のピークであり、頂上部は平坦化されている。ここも物見であろう。
林道建設で尾根が遮断されているが、曲輪Vから曲輪Uをとおり本郭に行く道があったのであろう。
この道は林道開通後は使われておらず、すでに藪化している。

曲輪Vの北下に平坦地があり、地元では「お寺跡」と読んでいる場所がある。
ここが城郭遺構であるかは分からない。城域としては南北200m程度ある。
この城は山入城(国安城)の支城で、物見や狼煙台程度のものと考えられている。
しかし、小さい城ながらも遺構もそれなりにしっかりしている。北にある曲輪Wの広さもかなりのものである。
単なる物見、狼煙台なら曲輪Wは不用である。

物見、狼煙台の役目も当然あったのであろうが、どちらかというと緊急時の住民の避難城という感じである。
これだけの広さがあれば、かなりの人数を収容でき、しかも周囲が険しいので攻撃を受けても安全性は高いであろう。
築城等については全く不明であるが、山入城(国安城)の支城として山入氏により築かれたものと思われる。
山入氏の滅亡でこの城も不用になったはずであるが、その本拠、山入城は山入氏滅亡後も常陸太田城の詰の城として戦国末期まで機能していたため、廃城にはならず佐竹氏が秋田に移る戦国末期まで物見や狼煙台程の役目は担って存続していたのかもしれない。

南東側の山麓から見た城址。ちょうど山
頂に見える場所が曲輪Vである。
小屋があったと思われる平坦地(曲輪W)と主郭(T)があるピーク。 曲輪Wの北端部。石造りの小さな社があった。