関宿城(千葉県野田市(旧関宿町))

関宿城と言えば「千葉県立関宿城博物館」が城郭建築、すなわち「あやしい城」として有名であるが、この「あやしい城」の建つ場所は、関宿城のあった場所ではない。
このため、この「あやしい城」の建物には入らなかった。

しかし、ここからの眺望はよく、北に赤城、日光の山々、北東に筑波山が望まれ、北条氏が欲した地域が一望の下にある。
ここに立った北条氏政、氏照はこの風景を見て、関東制覇を夢みたのであろうか。
城自体は、この「あやしい城」の南方向に位置していた。

遺構は失われているといわれているが、そんなことはない。
本丸の東部分と三の丸間の堀跡は、水田となってちゃんと今でも残っているのである。
でも本丸の主要部分と二の丸は完全に江戸川の河川敷となって失われてしまっている。
この状況は古河城と良く似ている。

河川に囲まれた場所にある城の宿命なのであろうか。
北には利根川が流れ、両河川に挟まれた三角形の地に建てられており、関東平野にある多くの平城と同じ、沼地を堀とした城である。

逆川(江戸川)を背に東側に曲輪を展開させる梯格式城郭の典型である。
三の丸の方どうなっているのか行ってみたが、ここはなんと牧場である。
牛小屋があり、牛糞の匂が充満。

凸凹はあるが、どこが堀跡なのか分からなくなっている。
近世の大名の城として使われた城の三の丸が牧場というのはここくらいだろう。
城下町があったというもっと東の方面には堀跡らしい地形や微高地がある。

城は本丸を中心として、その東側部分が主郭であったらしいが、さらに外郭を堀と土塁で覆っていた総構えを持ち、その内部に城下町があったようである。
ただし、これは近世の姿である。

築城は室町時代、長禄元年(1457)に古河公方の家臣、梁田成助という。
この関宿城は北進する北条氏との三度の戦い、「関宿合戦」で有名。
その第一次合戦は永禄8年(1565)のことである。
上杉謙信の攻撃を退け、国府台合戦で里美氏、太田氏を破った北条氏は本格的な北進を開始し、この関宿城がターゲットにされる。
しかし、簗田晴助はこれを撃退し、和睦に持ち込む。

直ぐに和睦は破綻、永禄12年(1569)の第二次関宿合戦となる。
この時は、簗田晴助は上杉謙信と同盟を結んでおり、北条氏と上杉謙信が越相同盟を結んだことで、北条氏は簗田晴助を攻撃する名目を失い、撤退する。
あくまで北条氏に対抗しようとする簗田晴助は、今度は北条氏と敵対関係になった武田信玄と手を組み北条氏に対抗しようとする。
関宿城博物館から利根川越しに
見た日光連山。
関宿城博物館は、城址とは関係
がない。
@東側だけ残った本丸。水田が堀跡。
本丸から見た関宿城博物館。 A本丸と三の丸間の堀跡。 B東の集落内の堀跡。

このため、天正2年(1574)第三次関宿合戦が発生、簗田晴助は相越同盟が破綻し、北条氏と不仲となった上杉謙信に救援を仰ぎ、佐竹義重も動くが、利根川の増水で上杉軍が足止めされる。
また、佐竹義重は北条氏と同盟したり、敵対したり態度を変える上杉謙信に不信感を抱き、両者は連携が取れない。
結局、梁田晴助は降伏、開城し、水海城に退去したという。

3度にわたる北条氏の関宿城攻撃は、実際には武力攻撃はなかったであろう。
梁田氏城主時代には外郭の土塁と堀はなく、主郭部付近のみが城域であったのではないかと思われる。
おそらく周囲は一面の湿地帯であり、曲輪周囲には乱杭が打たれ、船での接近も困難であったと思われる。
したがって、北条氏も包囲しての兵糧攻めに終始したのであろう。

この関宿城は北条氏のものとなり、北関東進出の拠点となる。
しかし、小田原の役で戦わず開城している。
その後も城は使われる。

これは関宿が利根川、西に江戸川が流れる交通の要所であったためであり、関東平野の輸送に水運に重きがあったことの証拠である。
江戸に徳川家康が入るとここには家康の弟、松平康元が入る。
その後、藩主はめまぐるしく変わり、明治まで使われる。
江戸時代、既に河川敷となっている本丸の北西隅には、江戸城の「富士見櫓」を模した「御三層」があったというが、明治初めに破却された。
その後、河川改修、堤防建設等で城跡は姿を変え、ほとんどの遺構は失われてしまった。
この櫓が千葉県立関宿城博物館の建物のモデルである。
また、城門などは近くの実相寺に移設されている。
逆井城に移築されている門も関宿城のものである。