古河城
築城は鎌倉時代、下河辺行平というが、小山氏に滅ぼされ、家臣の野田右馬助が城主になった。
室町時代中ごろになると「永享の乱」、「結城合戦」と関東地方はいち早く戦国時代に突入、野田氏も結城合戦で結城方として古河城に篭城し滅亡する。
足利成氏が古河に公方館を移すと古河城が鴻巣御所の詰め城として整備されたという。
古河公方は次第に北条氏に実権を握られ、義氏の死で途絶えると、古河城は北条氏に乗っ取られ、北条氏家臣大石直久、間宮綱信らが城代となる。
しかし、小田原の役で落城し、北条氏滅亡後は徳川家康に与えられ家臣の小笠原秀政が城主となる。
このころから近世城郭としての整備が始められる。
古河は奥州街道と日光街道が通り、利根川、渡良瀬川の水運による物流、交通の拠点として、江戸の北の防衛拠点、宿場町として幕府から重視され、譜代の大名11家が入れ替わり配置された。
近世古河城と古河の街は、寛永10年(1633)城主になった土井利勝がほぼ完成させるとともに桃の栽培も定着させ、街を大いに栄えさせた。
城は館林城と同種の水城であり、渡良瀬川を天然の水堀とし本丸の周囲に三重の堀を回していた。 城の規模は南北1.5km、東西0.5kmと細長い形をしていたが、本丸周囲は輪郭式に近い形式であった。 本丸の西には馬出があり、その西に二の丸、その西には堤防を兼ねた西帯曲輪があり、渡良瀬川に面していた。 本丸の東にはやはり堤防兼用の東帯曲輪があり、沼を介して古河の城下があった。本丸の南には頼政曲輪、立崎曲輪があった。 北には三の丸、丸の内曲輪、観音寺曲輪があった。 大手口は観音寺曲輪の北にあった。さらに東の沼を隔てて諏訪曲輪が出城として置かれた。 将軍が日光参拝に向かう時は古河に宿泊し、将軍入城専用門として丸の内曲輪の東に諏訪曲輪から延びた道に御成門があった。 水城ではあるが、湖水を利用した城とは異なり、洪水という危険性が潜在的にあった。 特に西側を流れる渡良瀬川は城の北西で急角度で南に流れを変えるため、洪水が起きるとどうしても城が抉られることになってしまう。 事実、かなりの被害が生じた記録が残っている。 水城の堅固性は忍城や館林城での戦いが立証しているが、その反面、マイナス要素もあった訳である。 明治維新後廃城となり、ほぼ全ての建造物が破却され、水濠や沼も埋め立てられ、郭も破壊された。 大正時代には渡良瀬川の洪水対策として川の流路が変更され、本丸・二ノ丸などの主郭部は渡良瀬川河川敷になってしまい今では当時の姿を思わせるものは何もない。 |
しかし、市街地に埋もれてはいるが、諏訪曲輪はほぼ形を残しており、歴史博物館が建てられ、土塁、堀が残る。
ただし、コンクリートで固められており、庭園の一部のようになり、城郭遺構らしさは失われている。
その西の丸の内曲輪の御成門付近に残る獅子崎土塁は完存であり、高4mほどの土塁が50m位に渡って残っている。
埋め立てられた沼の跡地もくぼ地となってかつての姿は想像できる。
歴史博物館の庭園の一部となっ ている諏訪曲輪の土塁。 |
諏訪曲輪東側の堀跡。公園化して しまいこれでは何だか・・・。 |
諏訪曲輪南側、道路が堀跡。 左の林の所が土塁跡。 |
丸の内曲輪の御成門付近。 |
御成門付近、獅子崎土塁。 | 左に同じ。 | 本丸東側の沼跡。 | 河川敷になってしまった主郭部。 鉄塔の位置が頼政曲輪の場所。 |
城址北西に広がる渡良瀬遊水地、谷中湖。
古河公方館(鴻巣御所)
古河というと茨城県北部の人間にとっては非常に遠く感じる地である。
地図を見ればこの付近は茨城県、栃木県、埼玉県、群馬県4県が渡良瀬遊水地で接しており、関東平野のほぼ中心部に位置する。当然ながら完全な平地である。
現在は茨城県であるが、かつては下総に属していたという。
国道4号線、JR東北本、東北自動車道、東北新幹線が通る。また、利根川、渡良瀬川、思川が流れ、河川を利用した水運が盛んであり、江戸時代末期まで舟河岸があった。
中世においてはこの水運というのが、現在からは想像もできないくらい重要であり、物資の大量輸送に最も適した運搬法であり、その点から戦略の要衝の地であった。
この地に始めて城を築いたのは、藤原秀郷の流れを組む下河辺氏であるが、歴史上名を残すきっかけになったのは古河公方が館を構えたことによる。
室町時代、東国支配の役所として鎌倉公方が置かれるが、時代が経つに従って独立化し、京の足利将軍家と対立するようになり、ここに管領の上杉氏との対立が加わり、身の安全を確保するため、康正元年(1455)鎌倉公方足利成氏は古河に移る。
これが古河公方の始まりであり、今の古河総合公園内にある地に館を構える。
これが古河御所、鴻巣(鴻ノ巣)御所である。
一方、新たに鎌倉公方として室町幕府が任命した足利政知は、下向するが、鎌倉に入れず、伊豆の堀越に留まり、堀越公方を名乗る。
これにより両公方の対立状態となる。
その後は管領の上杉氏や各地の土豪と複雑な同盟、対立関係の中で戦国時代に突入していく。
この中で公方の地位は低下するが、その威光により完全には滅亡しない。
堀越公方が北条早雲によって滅ぼされ、川越夜戦後、古河公方は上杉氏、北条氏の対決に翻弄され、最後は北条氏に実質的に支配され、名目だけのものになってしまう。
通常ならとっくに滅亡してしまうはずであるがかろうじて存続する。
実力はともかく権威としての利用価値については、上杉氏や北条氏も一目置いていたのであろう。
しかし、晴氏の子、義氏が天正10年(1582)に亡くなるとついに断絶してしまう。
小田原の役で北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉により義氏の娘、氏姫に小弓足利家から養子を迎え、公方家を再興させる。
後に氏姫は喜連川に移り、江戸時代、喜連川家を名乗り高家として続き、明治になって足利姓に戻し、足利氏の正式な子孫として認められている。
古河総合公園から見た館跡。 | ほとんど唯一の遺構の堀切。 | 先端の郭内はだらだら下りになる。 | 館跡にたつ碑。 |
館跡には民家が移築されている。 | 東側の芋ころがし坂。 | 最後の公方、足利義氏の墓。 | 北側にある富士見塚、物見台に 使っていたのだろう。 |
古河御所は寛永4年(1627)まで使用され、以後、草木に覆われていたが、古河総合公園の一部となった。
館は沼地に東から突き出た半島状の比高5m程度の岡であり、入口の芋ころがし坂付近に堀があったようである。
ここが館の大手ではなかったかと思う。ここから先端部までは300m程度である。
西側には旧中山家住宅(茨城県指定文化財)や旧飛田家住宅(国指定重要文化財)等の歴史的建築物が移築展示され、その西側に堀切がある。
この堀切が唯一明確な城郭遺構である。
櫓台のような高まりもある。
この付近では比較的切岸も明確である。
その西側の先端部の郭はだらだら下りとなり、内部もでこぼこしている。
もし館主の住む建物があったとすれば旧宅が展示されている場所でなかったかと思う。
3方を囲む沼を水堀とした館であり、鶉小城と瓜二つの構造である。
古河城や館林城も基本的には水城として同類である。
古河城や館林城は近世城郭として整備されたが、中世時代の姿はこの館のような感じだったのであろう。
沼を挟んで北側に富士見塚古墳がある。高さ10m以上もある古墳であるが、ここは物見台として使っていたのだろうか。