高部紀行
(常陸大宮市(旧美和村)高部

茨城県常陸大宮市高部は平成の大合併で消滅したかつての美和村の中心部である。
旧美和村は茨城県北西部の栃木県境にある山村であり、常陸大宮市中心部から栃木県の馬頭町に通じる国道293号線が村内を通る。

村のほとんどが山であり、国道293号線やその旧道であった県道29号線が通る緒川等の谷部の狭い平坦地に集落がある。
ここも例により過疎の村であり、別名、「茨城のチベット」と呼ばれる。

小中学校も廃校、統合が進み、空家も多く、耕作が放棄され藪に戻ってしまった田畑も多い。
でも、ここを通る国道293号線、現在は幅広い良い道路となり、ドライブも快適である。
信号も少なく、カーブ、アップダウンが多くスピードも出るので事故も多い。
茨城北部の住人が那須や日光に出かける幹線道路であり、栃木県民にとっては海水浴には欠かせない重要道路である。

現在は東関東自動車道を利用することも多いが、東関東自動車道は大きく南に迂回する感じであり、茨城北部と栃木県北部との連絡は国道293号線の方が圧倒的に便利である。
このため、この国道293号線もかなり利用される。
その証拠にこの国道沿いにある「道の駅 美和」は繁盛している。
美和の産物である山菜やきのこ類が販売されているが、休日ならお昼に行ったらもう売り切れ、車の駐車スペースを探すのにも苦労する。
水戸ナンバー、宇都宮ナンバー以外のナンバーの車も多い。

この国道293号線、かつては緒川に沿った今の県道29号線であったが、この道は狭く、集落も多く自動車向きに拡張するのも容易ではなかった。
このため、花立トンネル開通により緒川沿いのルートをバイパスするようにした。
これにより、旧道沿いの地区は時代から増々取り残されることになった。

そんな旧美和村の中心部が高部であり、ここに村役場(現、支所)もあった。
この高部地区も旧道沿いであり、時代から取り残された地区になってしまっている。
確かにここは狭い谷間に集落があるところであり、この状態では道を拡張するなど住宅の移転も必要となるため、コストがかかると思われる。

でも、その高部地区、別の意味で凄いのである。何が凄いって?ここはタイムカプセルの中の世界なのである。
どこか懐かしい昔の町並みが残っているのであるが、ただのレトロな街並みということでもない。

そこに当時のモダンという要素と文化という要素が加わるのである。昭和レトロの世界ばかりでなく、明治の世界も残っているのである。
だいたい昭和30年代以前の世界そのままと存在すると言った感じである。
ここ高部は戦国時代、佐竹一族高部氏が本拠を置いた地であり、佐竹氏の下野方面への侵攻ルート上にあった。
また、塩の道でもあり、交易路でもあった。
そのため軍勢宿営や通商用の宿が形成され、水戸など常陸北部と下野を結ぶ街道として江戸時代になっても繁栄したという。

山間の谷間であり、米作りには向かなかない土地であるが、和紙、木材で繁栄し、明治以降はさらにたばこや養蚕などが加わり繁栄したという。
それらの販売に係った家はかなり裕福であり、明治時代には都会の文化をこの地に導入、驚くようなモダンな建物が建てられた。
これは郷土愛の現れでもあり、心意気でもあったのだろうが、裕福な家同士がお互いライバルとして、そのモダン振りを競い合った「見栄」の張り合い結果でもあったのだろう。
その見栄の張り合い、ず抜けていたようであり、かなりのレベルである。

この付近の街にはここほどの街並みと建物は残っていない。
それらの建物はすでに使命は終えているが、いくつかのものは取り壊されることなくそのままになっている。
これは高度成長の波はここまで及んでいなかった証拠でもある。そのころにはもう時代からとり残されつつあったのだろう。
でも、廃墟化した悲しげな建物も結構見られる。看板等も昭和レトロのものが多く残っている。
マニアは堪らんだろう。
電話番号が書いたものがあったが、番号が1桁、2桁なのである。驚き。

それが逆に今ではこの地区の財産になっている。
旧美和村役場に車を置いて、少し歩けば、容易にそんなレトロな世界に会えるのである。
ただし、旧国道293号線、現県道29号線、車も行きかうので狭くて歩くのには注意が必要である。

それから、ここは谷間の地である。南側にも高い山がある。
冬場は午後になると山影に入ってしまい日光が届かないのである。
とても寒く、どこかジメジメした感じがするのである。
ここ高部は城マニアにとっても魅力の地である。
高部集落の北側の山には高部城が、南の山には高部向館が手付かずの完存状態で残り、地元が藪を払ってくれているので、豪快な堀を持つ完存の中世城郭にも会えるのである。

そんな高部地区の建物など・・・

「岡山酒造」さんちの「御三階櫓」。
やたら目立つ建物である。高部のシンボルの1つである。
「岡山酒造」さんの建物なので、内部は酒を仕込むための三階建ての城の櫓のような建物と思ったが全然違う。なお、醸造はすでに廃業している。
頂上部に掲げられた「花の友」が酒銘という。



水戸偕楽園の好文亭を模して当時の当主が明治20年(1887)ころに建てたものという。
正式には「喜雨亭」という。

名前は杜甫の詩「春夜喜雨」から取ったという。
3階部には当時はやりの色ガラス(ステンドグラスではない。)が使われている。
茶会や歌会に使っていたというので高尚な文化が明治時代には根ついていたのだ。
1階は茶室として現在でも使用しているとのこと。


隣接して日本庭園「養浩園」がある。
ここは廃業や過疎化により維持ができなく藪状態だったそうである。
池では冬場は天然氷が切り出され、氷室に保管されていたという。
冬場は日陰になりかなり冷えると思われる。当然、酒を造るくらいであるから水質もよいはずである。
近年、地元が庭園を整備している。



国松家旧郵便局
明治41年(1908)建築、ライトブルーの外壁が今でも目立つ。
当時は郵便局として使用されていた。
運営していた大森家から国松酒造に移築されたという。


この国松酒造もすでに操業は行っていないが、近接して岡山酒造と2軒の酒屋さんがあること自体、ここの繁栄振りがしのばれる。
水も良いのだろう。
酒造りの施設も廃業時のまま残っている。かつては20人以上が住んでいたという。


平塚家見世蔵
見世蔵は商家建築の1種の様式。
重厚な耐火建築であり、ここに金目のものを収納していた。
平塚家の屋号は「米屋」。上物の呉服商であり、米、みそ、しょうゆも扱っていたという。


間宮家住宅
 明治35年(1902)の建築、3階建ての洋館と2階建ての和風建築がつながった和洋折衷建築であり、始めは馬頭銀行(現 足利銀行)として使われた。
内部にはビリヤードやダンスができるホールなどがあったという。
洋風社交場だったのだ。
この山間の地でダンスやビリヤード・・・これは昭和初期のことだろうか?
周囲の田舎の風景とはミスマッチ、金田一耕助あたりが登場しそうな雰囲気である。
どうもピンと来ない。いったいどんな連中が集まってきたのだろうか?
この地区の商店の旦那衆かな。
現在より文化的には進んでいるような?国登録有形文化財(H15.7)


大森家 江戸時代から紙問屋を営んでいた家である。
200年前の家が残っている。
幕末は天狗党に属していたため、諸生派の襲撃を受け、金を奪われたとか?
柱に恐喝による刀傷が残る。


平塚家住宅
高部城の麓にある住宅、屋根に時計塔がある。民家自体は純和風である。
この田舎には場違いのような建物である。

弥七の墓(常陸大宮市(旧緒川村)松之草)
茨城県常陸大宮市の旧緒川村の山の中に「弥七の墓」なるものがある。
「弥七」って「水戸黄門」に登場する忍者のこと。いわゆる「風車の弥七」。

弥七には、助さん、挌さんのようにモデルはいないはずであるが・・・。
でっち上げかどうかはともかく、徳川光圀に仕えたとされる実在の忍者、「松之草村小八兵衛」が弥七のモデルであると解説に書かれているが、どこか遠慮しがちに書いてある。

銘板のグレジットも市や教育委員会ではない。
無名である。
後ろめたいのかな?

この小八兵衛という人物、もともと盗賊の頭領として捕らえられた身であったが、放免後に徳川光圀の隠密として活躍したと伝えられる。
まあ、弥七のイメージに近いことは近い。
水戸藩に殺害された佐竹旧臣、車丹波猛虎の弟ともいう。
どうもこの話を強引に結び付けて、地元が弥七のモデルとし、都合よく観光スポットとして整備し地域おこしに利用したようである。

ご丁寧に小八兵衛の墓の横に妻お新の墓まである。
こういうでっち上げ事例は事欠かず、でっち上げ、捏造がいつの間にか定説、常識になっている例、歴史上、多いようである。

特に勝者の残した記録などほんどは「常識の嘘」だそうだ。まあ、弥七くらいはいいか!

そういえば、半島の歴史なんて、この手のものが多いねえ。