那珂紀行
茨城県の旧那珂郡の名所を記載しようとしたが、既に「東海村紀行」をアップしちゃっているので、さて、困った。
那珂川と久慈川に挟まれた地域が那珂郡なのだが、すでに那珂郡を関する市町村は現在、「東海村」のみ。
他は「ひたちなか市」「那珂市」「常陸大宮市」と市になってしまっている。
これら、市のネーミングがいただけない。みな「なか」「ひたち」が付いちゃうのである。
さらに近隣には「日立市」があり、「常陸太田市」がある。
古くから知られた「日立市」、「常陸太田市」はまだ知名度はあるが、それ以外の市は県外の人にはチンプンカンプン。
いや、同じ茨城県内でも県西、県南の人にもチンプンカンプンだろう。
この地域、水戸と常陸太田に挟まれ、歴史的にはパッとしたものが少ない。
ほとんど地味系である。
そんな旧那珂郡とその周辺(東茨城郡)など、水戸市近郊のブログなどに掲載した名所を再編集。

まず、ご挨拶に那珂市の市の花「ひまわり」。
那珂市総合公園の近くの名所「ひまわり畑」のものです。毎年、8月後半、見事な風景を演出します。
シーズンには多くのカメラマンや家族連れが訪れます。



ひたちなか海浜公園(ひたちなか市新光町)
5月と10月に茨城県で最大の観光地となるのがここひたちなか海浜公園である。
GW中だと1日8万人の入場者があり、年間では180万人(平成26年度)が訪れるという。

もちろん、5月はネモフィラ、10月にはコキアがここの売り物である。
これらはTVなどで放映されるため、休日になると凄まじい数の観光客が訪れる。
4000台以上の駐車場があるが、それも満杯になり車列が外にまで溢れ、周囲が大渋滞になる。
8月には「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」がここで開催されることでも知られる。
この時も凄い混雑になり、周辺の会社では渋滞による遅刻者が多発する。

今はそんな広大な海浜公園であるが、かつて、ここには戦国時代に塩田があり、それに付随する集落があったが江戸時代初期、大嵐で集落が砂に埋もれ、砂丘になってしまったという。
集落はもっと内陸側に移転したという伝説があった。
これは伝説なのか事実なのか謎であったが、この公園整備にともない発掘が行われて伝説ではなく事実であったことが実証された。
同様に北のJPARC施設建設でも塩田遺跡が発見されている。
おそらく、佐竹氏の資金源の1つであったのだろう。

戦前の1938年には、ここに水戸陸軍飛行学校、陸軍水戸飛行場(前渡飛行場)が建設された。
それまでは砂丘と雑木林だったようである。
第二次世界大戦でもし日本が降伏しなかった場合、ここが房総半島とともにアメリカ軍の上陸予定地点であったという。
このため艦載機による攻撃を受けている。

第2次世界大戦後、水戸飛行場の跡地は米軍水戸射爆撃場として利用され、誤爆事件、誤射事件が多く起きている。
致死事件も何度か起きているが、犯人のアメリカ軍パイロットは今の沖縄のように母国に逃げ、政府間で賠償金で幕引きを図ったという事件があった。
悪評高き日米地位協定によるものである。
これにより、返還運動が盛り上がった。
ここもまさにミニ沖縄であり、普天間などで起きていることがここでもあったのだ。
今の平和の光景から、そんな流血の歴史がここであったことは信じられないくらいである。

返還運動が実り、広大な1200haの跡地は1973年3月15日に日本に返還され、「首都圏整備計画」の一環として350haが公園として整備が行われることになった。
しかし、返還前にも多くの付近の住民は射爆場内に潜入していたという。

目的は薬きょう拾いで、真鍮などはけっこう金になったらしい。
また野鳥の宝庫であり密猟が盛んだったとか。
かなりの不発弾が埋まっていたはずであるが・・

公園整備工事は1979年に計画され、1984年に工事開始された。
この間に時間があるのは不発弾処理だったようである。

そして、1991年に約70ha分が開業、その後、何度も拡張を繰り返し、現在は191.9haが公園に利用されている。
しかし、残りの160haは手つかずの状態のままである。

公園開園直後の平成始めのころは年間60万人ほどの客数であり閑散としていたが、花の名所として活用することで集客が年々増加
4月頃のスイセン・チューリップ、5月頃のネモフィラ、10月頃のコキア(ホウキグサ)などの季節毎にキャンペーンイベントが開催されるようになり、客が増えた。
しかし、冬場がどうしても落ち込んでしまうが、さすが冬場は集客するタマがなく、難しいようである。

実は管理人、1981年に海岸沿いに4駆車でここに潜入したことがある。
一面の雑木林と原野であった。
海岸沿いにはコンクリートの構築物があったが、あれはトーチカだったと思われる。
その中には未舗装の道が何本もあり、湧水や湿地があり、そこから川が海に流れ出ており、サワガニがいた。
そこが沢田湧水地であるが、ここは砂丘、湿地帯とともに自然が今も保全され、遊歩道が造られている。

そのひたちなか海浜公園に2015年10月に行った。
もちろんコキアを見るためである。

↑ 見晴の丘の頂上部から見た北東の「ひたちなか石炭火力発電所」と常陸那珂港

連日、TVに放映されるだけあり、多くの人が来ている。
しかし、一番近い西口ゲートからは1qもある。
こんな場所まで大陸のあの連中が来ている。ピーチクパーチク、スズメのように話してはいるがそれほどうるさくはない。
ここにはゴミ箱もないが、ゴミはまったく落ちてない。
あの連中もゴミは捨ててない。教育が行われているのだろうか。

肝心のコキア、さすがである。1本1本は大したことはないのだが、集団になると見事な赤紫の丘となる。
しかし、生憎の曇りの空、晴天時の日光がないと今1つ。
丘頂上部は標高60mほどあり、北の東海村方面、東の阿字ヶ浦方面の眺望が素晴らしい。

↑南西の水戸方面を見る。
(2015.10.27)

静神社(那珂市静)
旧瓜連町にある神社で、常陸一の宮の鹿島神宮に次ぐ常陸二の宮。
主祭神は建葉槌命(たけはづちのみこと)、相殿神は手力雄命(たじからのみこと)・高皇産霊命(たかみむすびのみこと)・思兼命(おもいかねのみこと)。
『延喜式神名帳』には名神大社と書かれる古社であるが、それほど規模は大きい訳ではなく、古い感じも受けない。
それもそのはず、江戸時代に大火に会い建物のほとんどが焼失、その後再建されたものであるからである。
創建時期ははっきりしないが、『日本文徳天皇実録』に「嘉祥3年(850)9月使を遣して静神社に奉幣せしむ」との記述があるので、それ以前には存在していたと考えられる。

織物の神であり、主祭神の建葉槌命は武神であるが、別名、名倭文神(しどりのかみ)といい日本で初めて織物を織り出された神といわれている。
また『常陸国風土記』には、この地方は『静織りの里(しどりのさと)』と呼ばれ、初めて綾織物が織られた所と記されている。

同じような由来も持つ神社に常陸太田市の長幡部神社があるが、両社とも織物技術を持った移民の神が祀られたものであろう。
門から見た拝殿 拝殿は意外に小さい。いかにも江戸建築。 奥の本殿。こちらは神宮風の建物。

以後、静神社は広く織物の祖神として崇拝されてきており、織物産業の盛んな桐生などからの参拝もあり、織物業者からの寄進物も多い。
静神社のお使いは白蛇とされているが、これは白い機織り物が長くのびる様が白蛇が這うように見えたことからと言われている。
鹿島神宮、香取神宮に準じる東国の三守護神として崇拝されたため、佐竹氏、豊臣氏や徳川氏から崇拝され、寺領などの寄進を受した。
江戸時代は、水戸徳川家の祈願所とされて重要視され、徳川光圀が本殿、拝殿、神門等を造営したが、1841年に火災にあい、社殿が焼失、この時、樹齢千年の御神木も火災で枯れ、切り株が現在も境内に残っている。
現在の社殿は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭により1842年に再建されたものである。

引接寺(那珂市額田)
 
この寺の名前は「いんしょうじ」と読む。額田城の西端がこの寺である。
昔はこの地に心岸寺という寺があったそうであるが、徳川光圀がその寺を金砂郷に移し、元禄9年(1696)、瓜連の常福寺の末寺として光圀山攝取院引接寺を建立したという。
追いだされた心岸寺がどういう寺か分からないが、佐竹氏に関係した寺であったのだろうか。
それにしても寺の山名に「光圀山」という強引さが凄い。まさに暴君、独裁者そのもの。

水戸光圀は、やはり絶対君主、権力者でもあるのだ。
その後、ここは水戸徳川家が墓所である常陸太田の瑞竜山に葬儀や墓参りに行く際の宿寺になっていたという。
明治になると寺の統廃合が行われ、那珂市後台にあった源長寺と菅谷にあった浄運寺が廃寺となり、引接寺に統合されたという。このため檀家が増え繁盛した。
本尊は光圀が多賀郡安良川村(高萩市)の八幡宮にあったものを持ってきたという。
自分の名を冠した寺に強引に持ってきた仏像を置くなんて、これまたとんでもないばちあたりの行為である。
TVの勧善懲悪のヒーロー水戸黄門が違った一面が伺える話である。

この寺の山門辺りに額田城の西端の曲輪の堀と土塁があったらしい。
この部分は湮滅しているが、寺の北側に廻ると、その先の堀と土塁が100mに渡って少し埋まっていたりするが、ちゃんと残っている。

↑の写真の解説板に書かれている内容が以下のこと。
『額田のたっつあい』
江戸寛政期、水戸藩6代藩主徳川冶保の時代、ここ額田に「大谷達才」という頓知に長けた人物がいて、「たっつあい」と呼ばれていた。
引接寺に文政3年(1802)に没した大谷与市郎の墓があり、これが、たっつあいの墓と言われる。

当時は江戸初期で、常陸では善政を行っていた前領主の佐竹氏や小野崎氏時代を懐かしみ、水戸徳川家は嫌われていた。
しかし、それを表立っては言えないため、皮肉を込め、風刺した民話という形となった。
それらの中には『水戸の殿様から愛馬を騙し取る話』やうそ比べの中での『名だたる一本の竹(佐竹)』の話などがあり、その創作者が「大谷達才」であったという。
当時の額田村は棚倉街道の宿場であり、久慈川の渡し場であった。
街道筋であるため、これらの民話が福島地方にも広がりをみせ、旅の途中で語り継がれ、額田のたっつあいの名が広く知られることになったと言う。

毘盧遮那寺(那珂市額田)

この寺の名前はまず読めないであろう。
「るびしゃなじ」と読む。
非常に変わった響きのある名である。
額田城の北端が額田小学校付近であるが、その北側に建つ。真言宗豊山派、京都嵯峨大覚寺の末寺という。
現在の寺のある場所は額田城の城外に当たるが、この地に移ってきたのは正徳5年(1711年)というから、すでに額田城が廃城になって100年以上経ってからである。
それ以前にあった場所がどこかは分からないが、創建は建久3年(1192)、文覚上人という人の開基という。
この寺には県指定文化財の紙本墨書大般若経(附唐櫃3合600巻)がある。
本墨書 569帖からなる 横95cm縦25.7cmの折り帖 であり、全長は900cmあるという。
奉納者は額田城主の小野崎下野守善通以下50人で、巻本10本を1箱とし、唐櫃3合に入れ、明応6年(1497年)額田郷鎮守八幡宮に奉納されたが、のちにこの寺に納められたという。

阿弥陀寺(那珂市額田)
額田城の一角、阿弥陀寺曲輪に建つ寺院。
北側には堀が残存し、城内であったことが伺える。

阿弥陀寺曲輪という名前が当時から付けられていたのかは定かではないが、この地に建てられたのは額田城城主の小野崎氏によると言われる。
額田城の本郭はここから東の谷津の対岸であり、以前の額田城の本郭がこの地であったという説もある。

鐘楼、右にしだれ桜の名木が見える。 本堂

浄土真宗二十四輩十四番目の寺で、前身は健保2年(1214)、那珂西郡の親鸞聖人の開いた大山念仏道場(城里町の桂中学校前がその地)という。
上人が大山を去る時、十四番の弟子定信坊に付属させ、後に明徳3年(1392)に額田城主小野崎徒通が現在地に招聘したという。
佐竹氏の秋田移封にともなって小野崎氏とともに秋田に移ったが、まもなく常陸に帰り、旧地に再興、
元治元年(1864)に天狗党の乱の兵火により焼失し、再興される。

親鸞聖人の手により安置された三尊六高祖の御荘厳が存在する。
3代目の住職善明上人は親鸞聖人の玄孫にあたり、以来、27代の住職が続く。

寺宝に前述の御荘厳があり、本尊は寺名のとおり阿弥陀如来像(県指定文化財)。
この寺は樹齢200年のしだれ桜で有名であり、4月の上旬に桜まつりが開催され、多くの人が訪れる。
また、楼門が素晴らしい。柱に比べてトップヘビーであるが、3.11でもそれほどの被害はなかったようである。

鱗勝院(那珂市額田)
正確には曹洞宗 義峯山 鱗勝院という。
元徳年間(1329年頃)、群馬県沼田市の名高い迦葉山龍華院彌勒護国禅寺の高僧巨舟相済和尚が開山。
開基は義峰勝公庵主による。
額田氏(佐竹氏)ゆかりの寺で初代額田義直が亡父義重のため守護寺としたという。
この額田氏は山入の乱で滅亡してしまう。

寺とは言え、ここは立派な城跡である。
城の名は「小堤館」といい、西側が台地続き、残る3方は湿地帯(または沼)に囲まれた台地突端にある。
西側に約100mにわたり土塁が残存する。
この土塁は堀を埋めるために崩され低くなっている。道路が堀跡である。
額田城の出城と言われている。出城といっても1辺100mの三角形をしており、ほぼ独立した城の規模である。
この「小堤館」、こここそが初期額田城という説もある。(もう1説が阿弥陀寺の場所)

境内は樹齢500年の杉の大木(那珂市の天然記念物)に囲まれ、閑静で落ち着いた雰囲気がある。
寺の門などには佐竹氏の「扇紋」が入っている。
小野崎氏は巴紋であるので、小野崎氏の前の城主、佐竹系額田氏に関係深いように思える。
佐竹氏が移封された秋田市にも佐竹義宣が建立した末寺鱗勝院がある。このことからも佐竹氏との繋がりが深いようである。

額田神社(那珂市額田)
正式名称は鹿嶋八幡神社。

康平6年(1063)創立、佐竹昌義が源氏の守護神である「八幡宮」として神殿を造営した。

水戸徳川の社寺改革で、那珂市の八幡宮は全て吉田神社、鹿島神社等に改められたが、この社は額田神社と改名。
寛政3年(1791)に「正名論」を著わした水戸学の祖 藤田幽谷(ゆうこく)の弟子、会沢正志斎(字は伯民)が額田神社を訪れた折り、光圀の命を重んじて「額田神宮」の額を送ったと言われている。
会沢正志斎は、文政8年(1825)、水戸学の「新論」を著わした人物である。
明治に鹿嶋八幡神社と改名されたが、地元では相変わらず額田神社と呼んでいる。

小松寺と平重盛の墓(城里町)
平重盛と言えば、清盛の長男で日本史の中の超有名人物。勇敢かつ聡明であったと伝えられる傑物である。
どういう訳か彼の墓が茨城県のこんな片田舎にある。

こんな田舎に彼の墓がある訳ないじゃないかと思って調べてみると、なんとここが最有力候補だっていうじゃないか。
これは驚き以外の何ものでもない。

普通、この手の話は有名人物に寺などの由緒をつなげる目的のでっち上げの場合が多い。

伝承によると平重盛の没後、家臣の平貞能がその遺骨を保管し、重盛夫人とその妹を伴い高野山にて出家後、北陸、上野を回り、平氏一族、大掾義幹の領土であるこの地に入ったという。

おそらく、はじめは重盛の墓は京のどこかにあったのだろう。源氏が京に入る時、墓を破壊されることを恐れた平貞能が遺骨を持って、高野山に避難し、そしてこの地に至ったということではないだろうか。

この常陸大掾一族は、将門を討った平貞盛のこの地に残った子孫であり、平重盛の系統は親戚筋である。
そして平貞能は、この地に遺骨を埋葬し、宝篋印塔を建て、自ら出家して以典と号したという。

その後、嘉慶元年(1387)領主、大掾頼幹が宥尊を招いて中興し真言宗の寺となった。
小松寺とは重盛が小松殿と呼ばれていたことによるという。

ただし、もともとは行基の開山といい当初は天台宗であったと言うので、途中で改名しているようである。ここまではどこまで真実か分からない。
話だけでは創作と思えないこともない。
しかし、この地が平氏一族、常陸大掾一族の領土であったという状況証拠に加えて、物的証拠も多い。

まずは国重文 木造浮彫如意輪観音像の存在である。
平安時代作の白檀造であり、縦8.4p、横7.6p、厚さ1.3pの方形の板面の木材一材造りの小さなものであり、四周に額縁を残し仏龕様に彫っている。
平安時代に空海が刻んだとされるが、中国晩唐時代の作で、日宋貿易による渡来品との説が有力であり、平重盛の守本尊と伝えられ、裏面に徳川光圀の陰刻した修理銘がある。

台座は三段からなる連弁。
光背は二重円相、周囲に七個所の火焔を設け、頭光に八葉、身光内部にはさいの目形を刻む。
宝髻に群青、化仏と口唇には朱色の顔料、髪毛、口ひげなどは墨書、表面は一面に漆様のものをひく。全体的に顔付は良く生気あり、身体は太く、衣文も強く、大きさの割に精巧な技法を使い立体感が明確であるという。
国の重文だけあり、当然それなりのものである。

こんなものがこんな田舎の寺にあること自体、ただ事ではない。
これは重盛がお守にしていたものと考えるのが相応しいだろう。

小松寺唐門 平重盛の墓

また、寺の唐門、これも普通のものじゃない。
重盛の住んでいた小松御殿の門を模したものという。
平重盛墳墓は寺の裏手 、白雲山の中腹にあり、急な石段を登った杉林の中にある。
県指定名勝史跡である。(ニセモノを県指定名勝史跡にする訳がないだろう。)
平貞能は89歳まで長生きしたという。
ここには平重盛の墓と伝える宝篋印塔のほか、平貞能、重盛夫人(徳律禅尼)の墓と伝える五輪塔もある。

平磯海岸(ひたちなか市平磯町)

茨城県ひたちなか市平磯町の岩場の海岸で、茨城県指定天然記念物でもある。
天然記念物としての名称としては「平磯白亜紀層」という。
この海岸には東へ30〜40度傾斜した岩礁が連続する。「那珂層群」と総称される約7500万年前の中生代白亜紀の地層である。
岩は砂岩、泥岩、礫岩などの堆積岩が層状になっており、軟かい部分が波に浸蝕され,硬い部分が残っているので、岩が鋸の歯のようなギザギザ状になって陸から海に数列、突き出ている。
この岩の中にアンモナイトの化石が入っているのである。


その他、ウニや貝やサメの歯などの化石も。この岩のアンモナイトはちょっと変わっていて、巻き貝のようにグニャグニャした形の異常巻アンモナイトという種類が多く見られるそうである。

通称「ウンコアンモナイト」と言っているそうだ。
ここは磯遊びのメッカでもある。大潮の干潮時には、岩の間がタイトプールになって、カニ、ヤドカリ、貝、イソギンチャク、ウニ、ヒトデ、ウミウシ、カメノテ、魚など海洋生物がウヨウヨいる。子供は当然夢中になるが、大人もいつの間にか子供に返って、子供以上に熱中する。

そのうち、潮が満ちてきてズブ濡れになったり、岩場で滑って転んでズブ濡れになる。

陰陽神社(常陸大宮市山方)
茨城県常陸大宮市山方から緒川方面に向かう県道29号線沿いにある。
名前からして、いわくがありそうである。いかにもスケベそうな・・・。
多分、御神体はその手のものに違いないということを想像させる。
神社は陰陽山森林公園内にある陰陽山の山頂にあり、山の標高は233m。
ふもとの駐車場から長い石段をヘコヘコ登ると山頂の本殿に着く。
けっこう高い。比高90mもある。

本殿への長い石段、比高90m。 折れてしまった御神体の巨石

しかし、期待していたような岩ではなかった。
単なる巨石が2つに割れたものであり、その岩がご神体ではあったが、3.11で折れてしまったそうだ。
もともとは、東西2つの岩のうち、東側が陰石で、高さ10m、横2.3m、厚さ2.5m。
西側が陽石で高さ8.8m、横5.6m、厚さ1.9m。
もともと一つの大岩が縦に割れたものだったという。

陰陽石といえば、普通は縄文の石棒の流れを組む性器崇拝といった原始信仰が多いが、ここのは陰と陽を対でとらえる中国思想の太極的な陰陽論に基づいて名付けられたものらしい。
ここに神社を置いたのは、あの水戸黄門さんだそうだ。
正確に言うと置いたのではない、改称させたのだ。
寛文元年(1661)、領内巡視の際、南の上大賀村から山頂の巨岩「夫婦岩」を望み、2体の柱状石の偉観に驚嘆し、神社の創建を思い立ったといわれる。
この「夫婦岩」を「陰陽石」と改めさせたという。
黄門さん、巨石信仰に関心を寄せていたらしい。