北茨城・高萩紀行

花園神社(北茨城市華川町花園)36.8606、140.6278
北茨城市では最も有名な神社である。
北茨城市役所からは直線距離で15q程度であるが、そこまでの道は細くてクネクネ、特の紅葉の時期などこの山間の地へ行く細い道路に車が溢れ、駐車場にも限りがあるので大渋滞する。
さすがシーズンオフなら混むことはない。

花園神社は延暦14年(795)、征夷大将軍坂上田村麻呂が創建したと伝わる。文武の神様を祀っているそうである。
花園のネーミングはこの神社の西側に位置する渓谷や湿原に花が咲き誇り、その見事さから付けられたという。

神橋を連想する赤い橋を渡って境内に入る。 神仏混合状態の名残の門

治承4年(1180)、「金砂合戦」で破れた佐竹秀義が修験者の手引きでここに逃れたというので、ここは山岳修験者の道場として平安時代から栄えていたのは確実なようである。
県道27号線から神社までは約1qほどあり、人家のある集落内を道が通るがこの道沿いは修行者の宿坊があったと思われる。

神社境内は樹齢600年を越える巨木が多く林立し鬱蒼としている。
これらの樹木が健在なことから少なくと600年間は戦火とか失火による大きな火災にはあっていないと思われる。

神社は南から北に流れる花園川に注ぐ支流が流れる渓谷沿いの谷底にある。
日当たりは余り良くなく、湿めった地であり、樹木の成長には適した場所である。

江戸時代以前、神社がどんな状態であったかは定かではないが、もっと山奥、花園山に近い奥宮の場所付近ともいう。
現在の神社は里宮だったのではないだろうか?

朱塗りの拝殿、日光東照宮同様、元禄調である。 池の中にある厳島神社。
池にはコンコンと水が湧く。ここは水が豊富な谷間である。

今の建物は江戸時代のものである。
神社は水戸徳川家により保護されていたという。

寺社混合状態であり、神社ではあるが門などはお寺調である。
建物も朱塗りであり、日光東照宮調である。
彫刻にも「見ざる聞かざる言わざる」が彫られている。
渓谷にかかる朱塗りの橋も日光の「神橋」調である。

谷間にあることもあり、境内は狭い感じである。
さすがに有名どころ境内はきれいである。
境内の雰囲気は似た環境立地である日立市にある「御岩神社」と良く似ている。
標高が414mと高いこともあるが、境内の空気はどこかピリピリした感じ。湿度が高いせいだろうか?
ここもパワースポットと言われている。この地に立地していること自体、パワースポットと言われてる何等かの理由があるのだろうか。(2019.12.14)

穂積家住宅(高萩市上手綱)
平成元年1月25日 県指定文化財 (建第675)に指定された穂積家の住宅4棟(主屋1棟、長屋門1棟、前蔵1棟、衣装蔵1棟)敷地の広さは4172.4u、持ち主は今も穂積家。
管理を高萩市が行なっている。

常磐道高萩ICから東に1分ほど走ると道路南側に見えてくる。
穂積家は豪農であるが、林業、酒造、金融、製糸も行っていたという。

酒造では明治4年に1000石を醸造し、「松乃月」というブランドで有名であった。
製糸では蒸気機関を用い、女工100人を使っていたという。
高萩市教育委員会の解説では
「江戸時代後期の民家として貴重なものであり、主屋は、五段茅葺屋根寄棟造りで寛政元年(1789)の建築である。(安永2年(1773)が正しいらしい。)
その後、多少改造はされているが、建築当時の原状が比較的良く保存されており、この地方における江戸時代の豪農住宅の代表的なもの。

長屋門・土蔵・庭園・水路等も一体的な価値を持つ。
水戸領内の特色の一つである郷土制度の実態を考えるうえでも、これらの構造物の歴史的価値は大きい。
穂積家を支えていた財政的基盤は、農耕・酒造・造林等の多角的経営、これらは、現存する屋敷絵図によっても明らかである。
屋敷の一部を流れる水路は、酒造用の水車を回転させるために用いたものである。
また、池のある庭園は、当時、各地の文人を招待して、詩や歌の会を催した風雅な生活の一端を偲ぶことができる。
この住宅は、単に、建築様式を知るうえだけでなく歴史を考えるうえにも大切な役割をもっている。」

長屋門、元は平屋、昭和初期に改築され、二階部を増築。
城門のようになった。
母屋内部。客間と事務所という感じ。
生活空間という感じがない。
衣裳蔵。母屋と渡廊下でつながる。
一階に衣裳棚があり、二階が十畳の間、客間らしい。
解説の通り、凄い規模である。
農家とはいえ、風格があり、武家屋敷でもここまでのものは少ないだろう。

「太宰治物語」や「桜田門外ノ変」などの映画やTVのロケでも使われているそうである。
豪農の経済力の一端を示している。管理も行き届いている。
現役の住宅ならここまではできないであろう。

屋内に馬小屋などがあったことが分る。
天井はない部分もあり、冬は寒いだろうが、夏は土間のスペースが広いので気化熱が奪われ涼しそうである。
なんといっても入場無料なのが嬉しい。
高萩市は寂れてビンボーだと言うが、エライ!

母屋は玄関部が突出しており、屋根は正面が入母屋造りでその他は寄棟造り。
内部は西側に広い土間があり、中央部が広間という板の間、ここは事務室であったのだろうか。
東側に畳の間が4室あり、納戸、中の間、奥座敷、前座敷となっている。

接客用の間である。
北側に台所、食卓室、トイレがある。衣裳蔵は母屋と渡廊下でつながっている。
一階が名前の通り衣裳棚があり、二階が十畳の間、ここは客間のようである。
しかし、いったい家族はどこで寝たのだろうか。
生活の場はここではなかったのではないか。

長屋門は元々は平屋であったが、昭和初期に改築され、二階部が増築、城門のようになった。
農機具などが置かれていたようだ。
それに隣接する前蔵は重厚な造りであり、文字通りの倉庫であるが、米蔵だろうか。
北側に書院があったというが昭和30年に撤去されているそうである。
上の写真に示す母屋の東側にある庭園は江戸時代のもの。
屋敷の北を流れる関根川から水を引き、石造りの太鼓橋が池に架かる。

石岡第二発電所(北茨城市石岡)
大正2年に完成した我が国初期の鉄筋コンクリート造建築物で、国の登録文化財である。
大北川に面して建ち、桁行18m、梁間10m、切妻造で、小屋組はフィンクトラス、上部欠円アーチの大型窓を平側に連続させ、妻には特徴のある丸窓をあしらっている。
鉄板葺、建築面積175u 。なかなか、貫禄のある建物である。

建物も現役であるが、内部の機器も一部を除いて当時からの輸入品を使用している。
水車は ドイツ・ホイト社の製品である。

出力1300kWの自流式の小さな水力発電所であり、この日も元気に動いていた。

本当はこの上流にある第一発電所まで行きたかった。
しかし、3.11の被害で道路が崖崩れの恐れありとのことで通行止めで行けなかった。
こちらは明治44年10月運転開始したさらに古い発電所で今も現役、3700kWと1200kWを発電している。

こちらの発電機は大型がGE製、小型が佃島製作所(後の日立製作所亀有工場)製、水車はスイスエッシャーワイス製という。
しかし、3.11で水槽(全長約36m、幅約10mで鉄筋コンクリート製。水中の土砂などを除去し、発電所本館に流す水量を調節する設備)、設置された尾根ごと崩落、これにより操業を停止している。

幸い文化財に指定されている9つの建物には被害はなかったそうである。

五浦海岸(北茨城市五浦)
茨城県と福島県境付近の大小の入り江、大小の磯、高さ約50mの断崖絶壁など、波による浸食で出来た地形が続く海食崖が豪快な海岸。
冬場は、風が凄く、岩に飛び散る波しぶきも凄い迫力。
崖の上にはクロマツが生え、南から「小五浦」「大五浦」「椿磯」「中磯」「端磯」の五つの浦(磯)があり、合わせて五浦という。

岡倉天心が日本美術院をここに移したことで有名。
横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山などの日本画の大家の傑作の多くがここで生まれた。
でも、ここで一番有名なのは、平潟漁港であがる「あんこう」である。
あんこう鍋は、ここの漁民の船中料理だったという。

ついでながら、幕末、ここに外国の捕鯨船から異人が上陸し、水と野菜を求め、それが水戸藩の尊王攘夷に火を付けたというエピソードもある。
さらには 第二次世界大戦末期、ここに日本軍の秘密基地があり、ここからアメリカに向けて風船爆弾が飛ばされたという。
こんな田舎なのに、色々、あるもんだ。

ここに茨城大学五浦美術文化研究所がある。
近代日本美術の立役者、岡倉天心(1863〜1913)の住居が、遺族から岡倉天心遺跡顕彰会に寄贈され、さらに1955年茨城大学に移管され、研究所になっている。

天心は明治の美術文化行政の確立の功績者で、26歳で帝国博物館(現東京国立博物館)理事・美術部長、27歳で東京美術学校(現東京芸術大学)の校長となったというのだから凄い人物である。
明治31年(1898)博物館、美術学校を辞職し、橋本雅邦、横山大観らと日本美術院を創立。
以後、天心はインドで後のノーベル賞詩人タゴールと親交を結び、ロンドン、ニューヨークで英文著書『東洋の理想』『茶の本』を出版、ボストン美術館中国日本部長となるなど、国際的に活躍の場を広げ、明治39年(1906)には日本美術院をこの五浦の地に移し、愛弟子の横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せた。

この五浦美術文化研究所内には、長屋門、旧天心邸、六角堂、天心偉績顕彰記念碑、ウォ−ナ−像、天心記念館がある。
親交のあったインドのノーベル文学賞受賞詩人タゴールも大正5年(1916)日本を訪れたとき、ここに立ち寄り亡友を偲んだという。

ここの建物群のうち、六角堂がもっとも有名で、明治38年(1905)6月、天心は尊敬する中国の詩人杜甫の草堂に倣して、この小堂を六角形に設計。
棟札には天心の自筆で「観欄亭」と書かれてた。
前は広大な大平洋の海原が広がり、天心はアメリカから帰ると、ここで瞑想し読書したほか、雨で沖に出られない日には窓から釣り糸を垂らしたという。
(パンフレットより抜粋)。