笠間紀行

笠間稲荷神社(茨城県笠間市)

別名、胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)、紋三郎稲荷ともいう。
この笠間の町のシンボルである。
一応、笠間は笠間藩の城下町でもあるのだが、実質的にはこの町は笠間稲荷の門前町といった方がよい。

日本三大稲荷の一つとされている。
祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)で五穀豊穣、商売繁盛の神として古くから厚く信仰され、関東はもとより日本各地から年間350万人の参拝客が訪れ、正月の初詣は茨城県初詣参拝者数第一位だそうである。
伝承では白雉2年(661年)に創建されたとされるが、近世までの沿革は詳である。

↑山門、神社なのだがお寺でお馴染みの山門、江戸時代の寺社混合時の名残である。

常陸国風土記には「新治の郡より東五十里に笠間の村あり」と記され、その頃には笠間のこの地で「古事記」や「日本書紀」に描かれる宇迦之御魂神への信仰が深く根ざしていたと考えられているという。
鎌倉時代から戦国末期にかけてこの地を支配した笠間氏が崇拝。
笠間氏滅亡後、江戸時代には歴代笠間藩主が崇敬する。
初代松平氏をはじめ松平(戸田)氏、永井氏、そして忠臣蔵で有名となる浅野氏、井上氏も移封先にも分祀しているほどである。

最後の藩主牧野氏も笠間稲荷神社を牧野家の祈願所と定め保護した。
ここは藤棚や菊人形でも有名である。

この神社は正面の拝殿が写真に載るが、この建物↑は昭和35年建築のもの。
建築物で素晴らしいのは、その裏手にある本殿である。

本殿は、江戸時代 安政・万延年間(1854-1860)の建築であり、国の重要文化財。
銅瓦葺、総欅、権現造である。特に一面に施された木彫りの彫刻が見事である。
これらには後藤縫之助作「三頭八方睨みの龍」
「牡丹唐獅子」弥勒寺音八(上野国)、諸貫万五郎(武蔵国)作の「蘭亭曲水の図」があるそうである。

↑は2009年の菊祭りのシーンです。

笠間陶炎祭(茨城県笠間市)
GW期間に茨城県笠間市で開催される「陶炎祭」は、「陶炎祭」と書いて「ひまつり」と読む。
開始は昭和57年、個人作家、製陶所、販売店の垣根を越えて有志が集まり出展者36名でスタート、当時の祭りは完全な手造りであり、質素なものだったと言う。
出展者自からブルを運転して道を広げ、ジャリを敷いてU字溝設置、トイレ作りまで造って会場を整備したという。
会場は芸術村という場所だった。

祭りの目的は、陶芸家の知名度と地位向上、販売促進、笠間市の知名度アップ等だったという。
始めは同業者の文化祭のような感じであり、第一回陶炎祭のメインイベントは、延命地蔵菩薩像の野焼きだったという。

現在では陶炎祭は笠間芸術の森公園のイベント広場で、毎年4月29日〜5月5日に開催される。
この会場は平成5年の第12回から使用しているという。

現在では200人以上の笠間焼の陶芸家、窯元が出品しており、その個性を競う。勿論、直接販売もする。
オークションやライブコンサートなども催され、多くの人で賑わう。

その2013年の陶炎祭に行ったのだが、会場までのアクセス道はそれほど広くなく、大勢が押し寄せるには駐車場はとても間に合わない。
そこに多くの車が押し寄せるので周囲は大渋滞。至る所で違法駐車が。
その渋滞列に巻き込まれたが、途中でUターン、離れた場所の駐車場に車を置き、無料シャトルバスで。
これなら確実。
でも15時過ぎなら、道路は隙、帰る車が多いので簡単に駐車場まで行ける。

ちなみに駐車場の車の半分は県外ナンバーである。
はるばる朝早くからここまで出かけて来るのだ。
当然、北関東自動車道で容易にアクセスできるようになった効果であろう。

2013年は32回目、初日だけで5万人の人出だった。
さて会場はと言うと、まあ、なんて凄い人。
どれくらいの人がいるのか?ほとんどは半分ピクニック気分、完全な行楽である。
芝生にシートを敷いたりテントを張ったりして弁当を食べたりしている。
出店も凄い人。各店には個性的な作品が並び、その個性に感心するばかり。
やはり感性がないと芸術家は無理だ。
どうしてこんな発想ができるのだろう。
どこも何らしかのテーマを持っている。動物をメインにしたものも多い。

イヌ、ネコ、サカナなどもある。メルヘンチックなものも、ハリポタ調のものもあるし、色ではブルーをメインにしたものや、白と黒だけのものも。
値段もピンからキリまで。
ちょっと訳あり品などは安価で売っている。

芸術品もあれば量産品もある。見て歩くだけでも楽しい。
しかし、多くの陶器を買っているかというとそうでもない。
手にぶら下げている袋は皆、少なめ。
気に行ったものだけを少量買うのだろうか?
大人買いである。

感心するのは会場通路、これだけの人が来ているのにゴミがほとんど落ちていないのである。
こういうの余り気にしていなかったのだが、ゴミ箱を置かないのが返っていい結果となるようだ。
これじゃあ、ゴミのポイ捨て、恥ずかしくてとてもできない。
そんな勇気がある日本人はいるか?


笠間つつじ祭り
笠間城のある佐白山の北の山、標高143m富士山は笠間城の出城があった場所。
今では7haの公園に霧島、日の出、久留米、ヤマツツジなど様々な種類、8500株のつつじが、咲き誇こる。


笠間稲荷と陶芸だけではジリ貧となるのを感じた笠間市がここを昭和41年に観光開発の一端として、5か年計画で「つつじ公園」として造成し春の観光資源とする計画を立てた。
翌昭和42年から整備に着手し1000株のつつじを植え、整備。
翌年から「つつじまつり」を開催され、昭和45年には佐白山の桜とつつじで「花まつり」を開催。昭和47年には「つつじ」に特化し、第1回目の「笠間つつじまつり」を開催。

当時はここで笠間焼の展示販売もしていたが、昭和57年からは、「つつじまつり期間中、芸術の村隣の広場で「陶炎祭」を開催するようになった。

その会場に2013年のGWに○△年振りに行った。
しかし、○△年前となると記憶はほとんど曖昧。
あの時、どこに車を止めてどこから登ったのか、ここがあの時と同じ場所なのか、良く分からない。

記憶が薄れているのだ。
当時、つつじの木はまだ小さかったような記憶がある。
その時撮った写真も木は小さい。
50cmもなかった。
でも、今日見た木は低くても2mはある。
30年も経てば、そりゃ木も成長するはず。
山から眺めた風景だけが見覚えがある。
今は陶炎祭とパックで観光バスがどんどんやってくる。
そして、2つのイベント会場を結んでシャトルバスが走る。

稲田神社(笠間市稲田)
笠間では笠間稲荷に次いで知名度があり、規模も大きい神社である。
国道50号線北側の比高17mの台地上にあり、南側に参道がある。
境内は鬱蒼とした森であり、保存林となっている。
社殿も大きく立派であり、特に本殿は庇が大きく元禄調と言った感じである。

北の谷津を隔てて北の丘の西側の大光寺、本宮(奥の院)がある。

いつごろ創建されたかはよく分かってはいない。
江戸時代に作られた『稲田姫宮神社縁起』によると、
「この地の住人、邑長武持の家童が稲田好井の水を汲もうとすると、泉の傍らに女性が現れた。
家童の知らせで武持が尋ねると「自分は奇稲田姫で当地の地主神である」と答え、姫の父母の宮、夫婦の宮を建て、好井の水で稲を作り祀るよう神託を下したという。
当社の北西300mの稲田山中腹には本宮(奥の院)が鎮座するが、本宮の祠左手には巨石が突き出ており、この磐座が稲田姫の降臨地と伝わっている。」

谷間のような場所にある「奥の院」 稲田姫が降臨したという太鼓石

新治国造が創建した神社と考えられている。
新治国造は古代、律令制以前に新治郡地域を治めたとされる国造で、『先代旧事本紀』「国造本紀」新治国造条には美都呂岐命の子の比奈羅布命を初代国造とする旨の記載があるという。
美都呂岐命(弥都侶伎命)は天穂日命の八世孫で出雲国造と同祖にあたる。
当社周辺には式内社として佐志能神社、鴨大神御子神主玉神社、大国玉神社があり、いずれも出雲系の神々を祀ることから出雲との関係が想定され、美都呂岐命は出雲出身と考えられる。

六国史等の正史には当社に関する記載はないが、。平安時代中期の『延喜式』神名帳には常陸国新治郡に「稲田神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
鎌倉時代初期には笠間の領主の笠間時朝が藤原光俊、泰綱ら8人を招いて当社で奉納歌会を催しており、『新和歌集』(宇都宮新和歌集)にその歌の記載がある。
笠間氏、稲田氏に崇拝されたが、室町時代末期に兵火により社殿を焼失したという。
益子氏との騒乱によるものであろう。

徳川の天下となった慶長7年(1602)、伊奈忠次が当地を検地した際に本殿等が再建された。
寛文8年(1668)には笠間藩主井上正利が除地4石を与えた。
元禄7年(1694)徳川光圀が当社に参詣し、古社の衰微する様子を嘆き、縁起等を奉納した(社宝の四神旗は元禄11年(1698)の奉納)。
社殿は弘化2年(1845)に焼失し、嘉永元年(1848)に再建されている。
明治に入り、県社に列した。

西念寺(笠間市稲田)36.3607、140.2171
国道50号線を走ると国道北側に白壁で囲まれた目立つ寺院がある。これが西念寺である。
←南側から見た西念寺、白壁が城館っぽい。
浄土真宗 別格本山。
単立寺院であり、どこの派にも属さない独立した寺院という意味という。
「稲田御坊」とも呼ばれる。

浄土真宗の宗祖親鸞がここで『教行信証』を書いたと伝えられ、浄土真宗立教開宗の聖地として、真宗門徒の崇敬を集めている。
親鸞は建永2年2月28日(1207年3月28日)、承元の法難により流罪となり、越後国国府に配流される。
建暦元年(1211)11月に赦免の宣旨が下るが赦免後も2年半ほど越後に留まる。
建保2年(1214)常陸国稲田の領主であった稲田九郎頼重の招きに応じて「吹雪谷」と呼ばれたこの地に草庵を結び、「稲田の草庵」と言われる。
なお、ここで『教行信証』を書いたのは稲田神社に多くの資料があったためと言う。
62、3歳頃に、帰京するが、東国における布教は、ここを拠点に約20年間に渡る。

山門、室町調のものと思われるが、文化財指定はないようである。 太鼓堂、鐘楼ならお馴染みだが、余り聞いたことないなあ。
平成7年建立の本堂、左の銀杏が県指定の天然記念物。 北側の丘に建つ御頂骨堂(六角堂)、この付近が稲田城というが・・。

門弟たちはここを中心とした30kmの同心円内にほぼ収まるため、稲ここを拠点に布教したと考えられる。
親鸞にまつわる伝承が残される地域の範囲からも、常陸・下総・下野の三ヶ国を中心に、広く関東から東北まで布教を行ったと考えられる。

この「稲田の草庵」は西念寺初世頼重房ヘ養(稲田九郎頼重)が、草庵を念仏道場として引き継ぎ、第四世宗慶が嘉元2年(1304)に、後二条天皇の御宇朝廷に奉達し、宇都宮泰綱の遺命により西念寺となる。
国道脇に石橋があり、そこから参道が北に延びる。

山門が迎えるが、茅葺で室町時代のものと言われる。
しかし、文化財指定はないようである。何で?

本堂は享保6年(1721)建立されたが、明治4年(1871)に焼失、その後、仮本堂を経て平成7年(1995)再建された。
本堂内陣中央の須弥壇上の宮殿内に本尊阿弥陀如来立像を安置する。
これは宇都宮氏断絶により宇都宮城内から持ち出され寄贈されたものという。
内部は単立寺院として中立性を保つため内陣に特徴があり、大谷派と本願寺両派の形式を用いる。

山門をくぐると左手の太鼓堂がある。 天保14年(1843)建立で直径2尺8寸(84cm)の太鼓が置かれる。
これも文化財指定はない。

その近くに「お葉付き銀杏」がある。
県天然記念物で 樹齢800年 親鸞のお手植えと言うが?

東を登って行くと、太子堂と御頂骨堂(六角堂)がある。

御頂骨堂は大正14年(1925)の建立で親鸞の遺骨を収納している。(Wikipedia等を参考にした。)


岩谷寺(いわやじ)(笠間市来栖) 36.3654、140.2298
真言宗 智山派の寺院で正式名は「醫王山 護命院 岩谷寺(いわやじ)」
JR水戸線「笠間駅」の南西約2q、フルーツラインの西、山に囲まれた谷間の最奥部にある。すぐ南は三峰山(177.8)であり、その裾野にあたる。
谷間の奥にあるが、そこまでの道が狭い。しかし、その道、杉並木なのである。かなり立派であり、大きな寺院であったことが分かる。
しかし、明治初期の火災でほとんどの建物は焼失してしまい、山門等、一部を残して再建された建物である。
境内の庭園や石仏はそのままのもの。かなり格調が高く、歴史を感じさせるものである。

岩谷寺は、笠間市栗栖にある真言宗智山派の寺院。
大同4年(809)に平城天皇の勅願所として弘法大師の弟子秀悦上人によって佐白山に護命山医王院岩谷寺として開創され、順徳院の御宇ぎょうに忠円が再興して、医王山護命院岩谷寺と改められる。
当時は現在の笠間市街の東側にある佐白山、その北側に寺があったとされる。
承久3年(1221)、笠間時朝が佐白山に城を築くにあたり忠圓阿闍梨を迎え、現在地に移転し再興
この際、醫王山護命院岩谷寺と改める。江戸時代の岩谷寺は、30石の朱印地を与えられ、末寺5、門徒26か寺を持ち、境内には大小14の堂宇があったという。
元禄5年(1692)、笠間藩主・本庄宗資により薬師堂改修
明和6年(1769)、山門建立。文政11年(1828)と明治16年(1883)の火災により、本堂・庫裏・諸堂などは焼失し、明和6年(1769)建立の山門だけが残る状況だった。
(岩谷寺とは/かさま文化財公開より)

山号が「醫王山」なのでご本尊は薬師如来であり、病気除けとして多くの信仰を集めた。
如来像は立像と坐像の2体が国指定重要文化財となっている。
薬師如来坐像は平安時代末の作とされ、薬師如来立像は鎌倉時代中期、建長5年(1253)に笠間時朝の発願により造られたと刻銘がある。
螺髪、肉髪、白毫をつけ、衲衣を着ています。左手は掌を上にして、薬壷をのせ、右手を曲げ、掌を前にし左足を上に結跏趺坐している。
材質は檜で寄木造り、漆箔を施している。ほぼ等身大で、面相の優しい表情とさらにおだやかな彫風は、平安時代末期の特徴を示す。
この像には、華麗な飛天雲形光背がある。

上加賀田大日堂(笠間市箱田221)36.3351、140.2443
東関東自動車道「笠間PA」南西約1qの山奥の谷間に面した山斜面の中腹にある。
尾根についた車道を進むのだが、大日堂はそこから分岐した道を進むのだが、狭い上、片側は崖、怖い!
でも車でお堂前まで行くことが出来る。

お堂のある場所は谷に面した山斜面であり、周囲は林、じめじめした感じの地である。

かつてここには吉祥院というお寺があり、大日如来像が祀られていたが、廃寺になってしまったと言う。
これを知ったこの地出身の日本画画家、「仏画の武山」といわれた巨匠、木村武山が昭和10年、総櫓造りの仏堂を建て、吉祥院のご本尊である大日如来を祀ったという。
胎蔵界大日如来坐像は市指定文化財であり、 像高38cm 、室町時代後期から江戸時代初期の作で、仏師は筑波山麓の小田に本拠を置いていた小田時知といわれる。
無人のお堂であり、如来像はお堂奥の金庫に収納されているので見ることはできない。

防犯は大丈夫か?
どこかの国のドロボーに盗まれたら、秀吉の侵攻で奪われたと言って返してくれないかもしれないぞ。
このお堂はともかく、崖に造られた岩窟も結構面白いものである。