伊豆紀行(附 富士・箱根)

江川邸(伊豆の国市韮山)
韮山高校の東側にある。江戸時代の代官(奉行)所跡である。
中世韮山城の江川曲輪の跡でもあり、裏山が江川砦である。
ここは普通の代官・奉行所とは違う。
天領の統治を任された代官と言えば、任命制であるが、ここの代官は世襲代官である。
それが江川家である。

江川家は大和奈良出身で、始祖が清和源氏源経基の孫であることもはっきりしているので源氏の正統である。
初めは宇野氏を名乗った。
伊豆に平安末期にこの地に移住し、その後、ここに源頼朝が流される。
同じ源氏ということで当主、宇野治長が頼朝の挙兵を助けた。その功で、頼朝が天下を取ると江川荘が正式が領地となり、支配が確定した。
その後、戦国時代になると韮山は後北条氏の本拠地となり、その家臣となる。
この前後、江川を名乗ったらしい。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際には、28代英長は韮山城に篭城するが、不利を悟り、開城降伏の調整を行い、韮山城を開城に導く。
その功で、徳川家康に従うこととなり、以降、江川家は、伊豆代官として、一時期を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領5万4千石分(後26万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たった。
代官といってもほぼ大名と同等であり、江戸にも屋敷があったほどである。

江川家当主は代々「太郎左衛門」を襲名し、名君を多く輩出した。
中でも36代の江川英龍、通称「坦庵」が著名である。例の東京湾のお台場の設計監督は彼である。
その他、農兵による近代的な兵制の建議と訓練、西洋の砲術の研究と訓練、測量技術の研究と実施、韮山の反射炉、銃砲鋳造のための溶鉱炉、パン(兵糧としての)最初の製造なども手がけている。
教育にも熱心であり、佐久間象山も弟子である。
この教育所が後の韮山高校である。

まったく、時代劇のお奉行様のイメージとは異なるものであり、かなり質素な生活をしていたという。
領内巡検の際には、宿泊する庄屋などに、一切の改築は禁じる、食事は一汁一菜、宿泊料は支払うなどの誓約をさせている。
また、高齢者には高齢年金を支給し、難民や貧民の救済を実施している。現代においてもこれだけの行政を行う政治家はいないであろう。
まさにスーパーマン、こういう人が現在、日本の政治家にいれば・・・・。
その江川家の屋敷が韮山城の東側に残されている。
裏山が韮山城江川砦である。

ここの正門(右の写真)、もとは、江戸屋敷の正門を移築したものである。
ちなみに江戸屋敷の地が福澤諭吉に払い下げられ、現在の慶応大学である。
これは諭吉の夫人の実弟、土岐謙之助が江川太郎左衛門の門弟であった縁による。
この門、TVドラマ「仁」に登場する「医学館」の正門である。
「仁」の一部はここでロケされ、母屋内部は医学館内という設定であった。
また、西にある米蔵は大火の中で焼け残る蔵、そのものである。
母屋玄関は「篤姫」の今泉島津家の玄関としても登場する。










蛭ケ小島 (伊豆の国市韮山)

永暦元年(1160)平治の乱で平家に敗れ、幼少の源頼朝は平清盛の母池禅尼の命乞いによって、命は助けられたが、ここ韮山へ流罪になった。
頼朝が14歳から34歳の旗揚げまでいたと言われるのが、ここ蛭ケ小島である。
しかし、この付近には間違いないらしいが、この場所かどうかは定かではない。
かつて 狩野川は現在より東側のここを流れていたといい、氾濫によって作られた中州がいくつかあって、大蛭、小蛭、和田島などと呼ばれていた。
その地は東に韮山城を望む、純農村であり、昔の面影もなくのどかな田園の一角の公園になっている。
推定値には頼朝と政子が仲良く並んだ像が建っている。
しかし、北条政子と言えば、歴史上、最も有名な「猛女」。頼朝も敵わなかったとか
・・したがって、どう見てもこの像、うさんくさい。いや、若いころは純情だったのかな?


西伊豆の日没

海への日没の情景としては伊豆半島の西側で駿河湾に沈んでいく夕日の光景が有名です。

その風景を見たいがために、ちょうど日没時に西伊豆の海岸を通りました。

しかし、伊豆半島はほとんどが山、この西側を通る国道 号線は海岸からはかなり高い山部分をアップダウンしながらクネクネ通るので、自動車の運転、疲れるし、全然、先に進む感じがしない。

でもさすがに見事な情景が見られる。
写真は南伊豆町の妻良港付近。国道 号線、マーガレットラインから。波勝崎に夕日が落ちていきます。
そして、いよいよ駿河湾への日没です。






天城越え
隠しきれない 移り香がいつしかあなたに 浸みついた
誰かに盗られる くらいなら あなたを殺していいですか
寝乱れて 隠れ宿 九十九折り 浄蓮の滝
舞い上がり 揺れ堕ちる肩のむこうに あなた・・・山が燃える
何があっても もういいの くらくら燃える 火をくぐり あなたと越えたい 天城越え

口を開けば 別れると 刺さったまんまの 割れ硝子
ふたりで居たって 寒いけど 嘘でも抱かれりゃ あたたかい
わさび沢  隠れ径 小夜時雨 寒天橋
恨んでも 恨んでも 躯うらはら  あなた・・・山が燃える
戻れなくても もういいの くらくら燃える 地を這って あなたと越えたい 天城越え

走り水 迷い恋 風の群れ 天城隧道 恨んでも 恨んでも 躯うらはら
あなた・・・山が燃える
戻れなくても もういいの くらくら燃える 地を這って あなたと越えたい 天城越え


ご存知、石川さゆりが歌う名曲「天城越え」。演歌にあまり興味のない管理人でも
いい歌だねえって思いますわ。

しかし、天城隧道までの旧道がひでえこと。雨で道が抉れて凸凹状態。でもけっこう大勢の人が見に来ている。
「伊豆の踊り子」マニアのおじさんが解説してくれたけど、ちょっとチンプンカンプン。
あの小説読んだのいつだっだっけ?
ちっとも、面白くもなかった記憶が・・・。

天城隧道を車で走り抜けたけど、あそこ、一見、不気味。
445mもあるんだそうな。でもここは、心霊スポットじゃないらしい。
むしろパワースポットだろう。でも意外と中は幅が広い。車は十分に走れるもんだ。
もちろん、すれ違いなどできないけど。
寒天橋なんて通りすぎてから気付く有様。目立たない。名版が死角で見えない!
浄蓮の滝って、小さいかと思いきや、なかなかの大迫力で水しぶきが凄いこと。
しぶきが気化熱を奪うので寒いくらい。
滝の脇の玄武岩の柱状節理が見事。

天城隧道(旧天城トンネル)
川端康成の『伊豆の踊子』、松本清張の『天城越え』に登場するトンネル、石川さゆりの歌う「天城越え」にも登場する。
正式名は「天城山隧道」下田街道の天城峠、静岡県伊豆市と、同県賀茂郡河津町を結ぶ。
明治37年(1904)に完成。全長445.5m。

アーチや側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最長のもの。
1998年、国の登録有形文化財に登録され、2001年、道路トンネルとして初めて国の重要文化財に指定。
日本の道100選にも選ばれている。
幅員は3.50mと非常に狭く、側溝まで含めても幅は4.10mしかない。


寒天橋

浄蓮の滝
伊豆市湯ヶ島にある日本の滝百選の一つ。


滝は狩野川の上流部、天城山の北西麓を流れる本谷川にかかり、1万7000年前に鉢窪山スコリア丘が噴火した際に流出した柱状節理を伴う玄武岩溶岩流の岩肌を流れ落ちる直瀑である。
落差は25m、滝の幅は7m。

かつて滝の付近に「浄蓮寺」という寺院があったことから「浄蓮の滝」という名称がついたと伝わる。
滝の周辺は水滴が霧のように舞い気化熱で寒いくらい。
滝の下流、狩野川沿いには見事なワサビ田が続く。


富士山と忍野八海(山梨県忍野村)
山中湖から見た富士山です。いつ見ても見事なもんですねえ。
この近くに名所の忍野八海がある。

ここは、雪景色の水車小屋と富士山の写真が有名である。
凄く幻想的な写真であるが、実際は・・・残念ながら俗化が激しく、観光客目当ての店が多く、観光客ばかり、これはがっかり。
どこもかしこも人ばかり。
俗化しすぎてかつてよりは水質も悪くなっているという。
規模もそれほどのものではなかった。
まあ、観光地とか名所って、こんなもんか。
忍野八海は、富士山の雪解け水が地下で80年の歳月をかけ濾過され、8か所の泉
から湧き出ているのでこの名が付いたという。
でも、人工の池がいくつかあり、オリジナルと混同が起きている。
国指定天然記念物で名水百選に選ばれている。
延暦19年-21年(800年-802年)の富士山延暦噴火により、宇津湖が山中湖と忍野湖に分かれ、忍野湖は干上がり、湧水口が池(泉)として残ったものという。


箱根公園(神奈川県箱根町)
旧箱根離宮の跡地が神奈川県に下賜され、整備されたのがこの公園。
この地は「塔ヶ島」といい、芦ノ湖に突出した半島であり、宮内庁が皇族の避暑と外国からの賓客用の離宮造営を計画し、明治17年塔ヶ島を付近、163000平方メートルを買収し、離宮造営を開始。
明治19年7月に完成。二階建ての西洋館と日本館を中心に宮内庁の官舎や近衛兵の兵舎が建ち並んでいたという。

しかし、大正12年の関東大震災と昭和5年の北伊豆地震で建物は大損害を受け、使用不能状態になり、戦争が近くなり再建計画を断念。
戦後、昭和21年3月18日、離宮跡地は神奈川県に下賜、神奈川県はここを整備しその年の5月5日「恩賜箱根公園」として一般に開放。
その後、昭和34年4月県立都市公園に指定され、園内が整備された。
さらに、平成元年より大規模な再整備工事を行った。

この恩賜箱根公園からは富士山を正面に芦ノ湖を見下ろす絶景が楽しめる。
ここからの景観写真が多くのカレンダーを飾る。
公園のほぼ中央に、旧離宮本館の礎石が残され、その正面 に建つのが、かつての離宮を思わせる再建された「湖畔展望館」。

箱根関(神奈川県箱根町)
かつて箱根にあった関所。
一般には江戸幕府が芦ノ湖湖畔に設置した東海道の箱根関所を指すが、江戸時代以前にも存在していたらしい。
その場所は箱根山の山麓だったらしい。

設置されたのは律令期まで遡り、当時、既に箱根峠を通る箱根路が開設され、足柄峠の足柄路とともに関東防衛の役割を担ったという。

承平の乱では、平将門が箱根を抑えようとしたといい、承久の乱ではまず北条義時は積極攻撃ではなく、箱根路・足柄路で官軍を食い止める専守防衛を考えたが、結局は箱根を越えて上方に進撃させた。
室町時代になると、鎌倉府が箱根に関所を設置して関銭の徴収を行った事が知られており、戦国時代には北条氏が箱根山の西側に山中城を築き、関所機能は一時的に山中城に移したという。

北条氏滅亡後、江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を開設し東海道の本道として整備し、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、箱根峠寄りに「箱根宿」を新に設置、芦ノ湖畔に箱根関所を設置した。

これが今復元された関所である。
江戸時代、箱根関所は一時期を除いては小田原藩が管理運営していた。
「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られ、江戸に入る鉄砲(入鉄炮)と江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。

貞享3年(1686年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。
後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。
侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたったという。
箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。
旧東海道 関所の江戸側の入口 遠見番所
が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。

建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。
また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受けていた。

箱根関所以外にも箱根裏街道には仙石原関、足柄路の流れを汲む矢倉沢往還には矢倉沢関所、熱海入湯道(熱海道)に根府川関所など5ヶ所の脇往還にも関所が設置されていた。

江戸幕府の公式な箱根関所と5つの脇関所から江戸時代の箱根関が構成され、それ以外の経路を通過することは「関所破り」「関所抜け」として固く禁じられていた。

・・とは言うが、箱根関所博物館では、裏道を通る関所破りもけっこうあり、見つかっているが、ほとんどは「道に迷った」として処理され、罰せられた者はほとんどいなかったと説明されていた。

建前と本音を上手く使い分けており、江戸時代中盤以降は関所機能はかなりいい加減になっていたとか?

関所は明治2年(1869年)に明治政府が諸国の関所を全廃したときに廃止された(ただし、幕末の慶応の改革の段階で簡単な検問機能のみに縮小されていた)。
跡地は国の史跡とされ、昭和40年(1965年)になって箱根町立箱根関所資料館が開設された。

その後、江戸時代末期に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書である『相州御関所御修復出来形帳(慶応元年:1865)』が、静岡県韮山町(現伊豆の国市)の江川文庫から、昭和58年(1983)に発見されました。
箱根町でこの資料の解読を行った結果、当時の箱根関所の建物や構造物などの全貌が明らかになり、平成19年(2007)春の完成をめざして発掘調査を行ない、その成果や資料の分析結果に基づき、建物の復元や関所周辺の環境整備を行うことになった。
(Wikipedia、パンフ等を参考)


富士山麓に鸚鵡は鳴かない。
2012年6月30日 富士山麓に行ってきました。
行きつけのスーパーの福引に当たったもんで。
美味い食事付きという誘い文句にも釣られて・・・「梅雨時じゃ、リスクがあるねえ・・」とは思いましたが、スカットした晴れ間じゃなかったけど、何とか陽は照っていました。
でも肝心の富士山は時々、時々ちらりと姿を現すだけ。
傘さして、って状態でないだけラッキーってとこかな。

梅雨間の土日ですが、さすが混んでいますねえ。道も所々、渋滞してました。
5合目に行った後、河口湖に。
ここに来たのは中学生の時以来。
山中湖や箱根は昨年も含め、何度も来ていたのだが、どういう訳か河口湖はパスしていたのだ。
湖畔の八木崎公園ではラベンダーが咲き始め、人出が多い。
ここにはなぜか中国人は皆無。ラベンダー、食べれんもんなあ、花より団子か?

湖畔には色々なものがあるが、廃墟もチラリホラリ。
あの「綾小路きみまろ」さんの店も・・・・存続、大丈夫かな?余計なお世話か。
湖畔に氏が寄贈したという黄金の七福神像が点在。
なでしこジャパンを率いた佐々木監督が、
ワールドカップに行く前に河口湖にある黄金の七福神で必勝祈願をしたそうです。
その結果、見事優勝。そんな経緯で、布袋さん他七福神を撫ぜるとご利益があるとか?
信じる信じないはともかく・・・・当然、俺は撫ぜたよ。