イーハトーブ紀行

宮沢賢治さんて?
ご存知、わが国を代表する詩人であり、童話作家である。
岩手花巻に根ざした作品を産み、小学校、中学校の国語の教科書にも必ずいくつかの作品が掲載されている。

管理人の場合「よだかの星」とか「セロのゴォーシュ」などが教科書に載っていた記憶がある。
1896年8月27日に生まれ、1933年9月21日にわずか37歳で亡くなってしまった天才作家である。
でも生前は一部の人にしか、その作品と才能が知られず、メジャーになったのは死後のこと。

生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある程度にすぎない。
『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』などは死後、発表されたものである。

草野心平氏や弟、宮沢清吉氏の尽力・貢献が大きい。
もちろんメジャーになったのは、世に出した人の努力ばかりでなく、その作品の魅力のせいであろう。

ほとんどの作品は大正から昭和初期に書かれたものであるが、その内容は時代を超越している。
「銀河鉄道の夜」などは、SFの元祖だろう。
これが「銀河鉄道999」のヒントにもなったことも知られた話。

生活するのがやっと、というあの時代にこんな作品が書けたのも、彼が比較的裕福な家に生まれたからである。
彼自身、どの程度の生活力があったのかは、疑問。

本職は何なのか、不詳であるが、一応、農業指導家でもある。
現岩手大学農学部の前身、盛岡高等農林学校卒業というから地方のエリートである。
卒後、花巻農学校の教師として農村子弟の教育にあたり、多くの詩や童話の創作を続けたが、わずか30歳の時に農学校を退職、独居生活に入ったという。
辞めた理由が、百姓の経験がないのに、農業のあり方を生徒に説く矛盾を感じたということになっているが、せっかく得た安定した職をあっさり辞めてしまうのも、家が裕福だったためだろう。
普通はそんなことはできない。

その後、自営農民となり羅須地人協会を開き、農民講座を開設し、青年たちに農業を指導したというが、バックに生家の財力があったことは明白。
羅須地人協会の建物、土地自体、宮沢家の別荘であった。

彼の作品は、自分の裕福な出自と郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神、それから良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感が反映されているという。
どことなく夜をイメージする暗い感じがするのはそのためか?
また、仏教の献身的精神も影響を与えたというが、それに花巻の自然も取り込み、個性的な魅力を持つ作品に仕立てていった。
これは彼、天性のものであろう。
それにしても果てしない妄想の世界と言えばそれまで。
もともと文学は妄想の世界であるが、それを文章に展開させると超一級の芸術になるってことだろう。

イギリス海岸
国指定名勝「イーハトーブの風景地」の一つで、北上警察署の東側の北上川西岸は、イギリスのドーバー海峡に面した白亜の海岸を連想させる泥岩層が露出している。
ここを宮沢賢治が「イギリス海岸」と名付けた。
現在は、北上川の水位が特に下がった時期だけ泥岩層が露出する。
ここに行ってみたが、駐車場など良く管理されているが特段、珍しい光景でもなかった。
のどかな川のほとりという感じであった。
河床の洗濯板のような泥岩が露出していた。

しかし、けっこう、多くの人が来ている。さすが宮沢賢治の威光、健在である。
ここで採取したというクルミの実の化石が宮沢賢治博物館に展示されていた。
花巻農学校の夏休みの農場実習の合間に、生徒たちを引率して町の人たちの水浴場となっていた「イギリス海岸」を訪れ、校長先生と一緒に北上川で泳いだり 、動物の足跡や炭化した胡桃の化石を発見したりした。
その際の、生徒たちや町民 や自然との心の交流の経験を基に書かれたのが、「イギリス海岸」である。
「イギリス海岸」のイメージは、「銀河鉄道の夜」にも「プリオシン海岸」の名で登場する。(Wikipedia等参考)



羅須地人協会跡

1926年3月岩手県立花巻農学校(岩手県立花巻農業高等学校の前身)を退職した賢治が、実家から約1.5km離れた花巻川口町下根子桜(現・花巻市桜町)にあった宮沢家の別宅を改造して自給自足の生活を始める。
その年の夏、近所の若い農民とともに、羅須地人協会を設立した。その実態は賢治一人の私塾であった。

この場所は北上川西岸の河岸段丘の縁部、台地下からは比高j10m程度。
北上川方面と東の山々の風景が良い。
宮沢ワールドはこの風景が背景にあるのだろう。
↓現在は建物はなく、空き地であり、雨にも負けずの碑が建つだけである。この日は水沢第一高校の校外授業が行われていた。


跡地から見た東の北上川方面。正面付近が「下ノ畑」である。
賢治はここで昼間周囲の田畑で農作業を行い、夜には農民たちを集め、科学やエスペラント、農業技術などを教えた。
また、それとともに自らが唱える「農民芸術」の講義も行われた。
この講義の題材として執筆されたのが「農民芸術概論綱要」である。
さらにレコードの鑑賞会や、童話の朗読会も開催した。

賢治は楽団の結成も考えて自らチェロを購入して練習に励んだというが、賢治のチェロの技術はほとんど上達せず、ほどなく挫折。
バザーの開催、被服や食糧、工芸品の製作にも手を出したというが、結局は金持ちのボンボンの道楽のようなものだったようである。
結局、協会は翌年3月には解散状態となった。

1928年(昭和3年)夏に高温で干天が続いた中で農業指導に奔走したことから健康を害し、実家に戻って療養することとなり、結局、健康は回復せず、1933年死去する。

←死去3年後の1936年11月21日に、羅須地人協会跡に「雨にも負けず」の詩碑が建立された。
揮毫は高村光太郎。詩碑の下には賢治の遺骨の一部も納められている。


羅須地人協会の建物(宮沢家別宅)
下根子桜にあった羅須地人協会の建物は、花巻空港の北東端部にある花巻農業高校の敷地に移築させ、修理復元されている。
誰でも見学できるが、高校の敷地内にあるのでちょっと入りにくい。
何しろ生徒が実習の真っ最中で・・遠慮してしまう。

この建物は別荘だっただけあって、瀟洒な造りである。
賢治の祖父、宮沢喜助によって、1904年(明治37)隠居所として建てられた。

木造2階建てで、1階は10畳と8畳の2室、2階は床の間付き8畳の和室となっている。
妹の宮沢トシが結核に冒されて亡くなる8日前まで療養所として使用される。
その後、賢治が1階の10畳を集会場に使えるリビングに改造し、羅須地人協会として使用されている。

賢治の没後、人手に渡り、現在の場所に移築されたが、1969年(昭和44年)に花巻農業高等学校の用地の一部として買い取られ、羅須地人協会として一般公開された。

玄関横の黒板には、賢治の筆跡を模した『下ノ 畑ニ 居リマス 賢治』の文字が記されている。


花巻農学校跡地(ぎんどろ公園)
花巻市文化会館とその正面向かいにある公園が、元花巻農学校(現在の岩手県立花巻農業高等学校)の跡地。
跡地といっても学校があった雰囲気はまったくない。
ここに宮沢賢治が勤務し、教壇に立った。

現在、公園内には、宮沢賢治が大好きだったといわれる「ぎんどろ(銀白楊)」(ヤナギ科の落葉高木で、別名「ウラジロハコヤナギ(裏白箱柳)」)が植えられている。
「ぎんどろ」とは、葉の表面緑色に対し裏面に白毛が密生し、風に揺られると木が銀色になることから名づけられ、詩集「春と修羅」第二集の中に登場する。
↑ これは何?ちょっと見ると人が寝ているのかと思ったわ。

↑風の又三郎をイメージしたオブジェが公園内にあった。
← 花巻農学校跡の碑


宮沢賢治記念館
花巻市街から東に8q、東北新幹線新花巻駅の2q南、賢治の散策の地であり,「経理ムべキ山」の一つにあげていた胡四王山の頂上に建つ。
賢治の世界に親しんでもらうため、昭和57年(1982年)9月21日(9月21日は賢治の命日)に花巻市が開館。
愛用のチェロや、自筆原稿、コレクション、初版本、遺品など賢治ゆかりのものが展示されている。
直筆を見ると、丸文字に近い。

記念館前にある「山猫軒」・・売店です。

宮沢賢治童話村
平成8年10月に開館。
賢治の世界を「ファンタジックホール」、「宇宙」、「天空」、「大地」、「水」の5つのゾーンに分かれて展示。