平泉紀行

中尊寺
2012年、15年振りに中尊寺に。
参道がけっこう長かったことや、金色堂の輝き、昔の覆い堂自体が重要文化財ということや、途中の物見からの北上川の流れの眺めは記憶にあるが、かなり記憶が薄れている。
変わらないのはあの時と同じように人が多いこと。

←中尊寺の参道、月見坂、けっこう長く、夏だときつい。この日は33℃。

東北地方最大の知名度を有するお寺と言えば、ここだろう。
奈良京都のお寺並みに平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始めとした国宝、重要文化財のオンパレードに圧倒される。
天台宗東北大本山の寺院であり、奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来。
寺伝では嘉祥3年 (850年)、円仁 (慈覚大師) が関山弘台寿院を開創したのが始まりとされ、その後貞観元年 (859年) に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。
しかし、これは伝説の域を出ない。

確実なのは開基したのが藤原清衡ということ。
以後、奥州藤原氏三代ゆかりの寺として知られ、「平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の一つとして世界文化遺産に登録され、「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定されている。
奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られる。

「後三年の役」の勝者となった清衡は、奥州奥六郡の領主となり、「清原」から父の姓である「藤原」に替え、嘉保4年 (1094) 頃、居館を江刺郡豊田館から、平泉に移す。
藤原清衡は戦乱で多くの一族の死を見て、菩提を弔うため都の大寺院にも劣らぬ寺院を建立したが、その背景には「砂金」による莫大な経済力が背景にあったという。
そして、この「砂金」を頼朝に狙われ、4代目に滅ぼされてしまう。

中尊寺のシンボルはやはり金色堂だろう。でも撮影禁止。

現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年 (1124) という。
清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体 (ミイラ)と4代泰衡の首が安置されている。
奥州藤原氏4代 (清衡、基衡、秀衡、泰衡) 約100年にわたって平泉には華やかな文化が栄えたが、戦乱、失火により、当時のものは金色堂、紺紙金銀字経など。
文治5年 (1189)、頼朝の侵略で奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は無事であった。

頼朝も「鳥羽法皇御願」の寺とされ、庇護した。『吾妻鏡』に、当時の中尊寺から頼朝に提出された「寺塔已下注文」 という文書が記載され、当時の堂宇が書き出されている。
これによれば、当時の中尊寺には金色堂のほかに、釈迦如来・多宝如来を安置した「多宝寺」、釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」、両界曼荼羅の諸仏の木像を安置した「両界堂」、高さ三丈の阿弥陀仏と丈六の九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂」 (大長寿院) などがあったという。
しかし、中尊寺は、南北朝期建武4年 (1337) 大火災で、金色堂以外はほぼ全焼してしまったという。
江戸時代は仙台藩領内であり、伊達氏が堂の補修を行ったが、かなり寂れていたようであり、元禄2年 (1689年) に『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が、中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いた。

昭和25年(1950) に金色堂須弥壇が調査され、藤原四代のミイラの学術調査が実施された。
この結果、中央壇に清衡、右壇 (向かって左) に2代基衡、左壇 (向かって右) に3代秀衡の遺体が安置され、右壇にはさらに4代泰衡の首級が納置されていることが判明した。
昭和37年(1962)、金色堂の解体修理が行われ、6年後、復元がなる。

本堂→

本堂は普通は一番奥とか、参道正面に置かれるが、中尊寺では参道である月見坂を登った右手の中尊寺本坊内にある。参道の脇に位置する。明治42年の建築。
金色堂旧覆堂 (重文)

昭和37年、金色堂の解体修理工事が始まるまでの約500年間、金色堂を収め風雨から守ってきた堂。

1964年に100メートルほど北西の現在地に移築された。
室町時代中頃の建築。
それ以前は金色堂は露天だったようである。


経蔵 (重文)

金色堂の近くにある。
国宝の一切経を納めていた建物で、一部平安時代の古材が使用されているが、建築年代は鎌倉末期と推定されている。

内部には国宝の螺鈿八角須弥壇 (実物は讃衡蔵へ移動) が置かれ、壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる文殊五尊像 (重文) を安置していた。

弁慶堂
参道沿いにある建物で、入母屋の金属板葺きの屋根でかなり細かい彫刻が施されている。
案内板:「この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す。
弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。」
薬師堂
案内板:「この薬師堂は藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。その旧跡は現在の所ではなく、他に建立されたのであったが明暦3年(1657)に現在地に建立された。堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置される。
また薬師如来の分身または化身とも言われる十二神将が併置されているのは中尊寺山内の薬師堂としては当座しかない。・・・(中略)この薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心にさかんに行われた。
特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰されたのがこの薬師如来であり、この御堂であった。
またこの御堂には子安地蔵が安置されている。その由来は出産や育児のための信仰で、神道では木花咲耶媛を祭神としている神仏習合で、子安観音が祀られている。」
弁財天堂
弁財天堂は金色堂の向い側にある茅葺の寄棟造りの屋根で間口3間の建物。

周囲を池で囲まれた小島の上に建立され、基礎束が高くなり湿気から護る構造になっている。

案内板:「当堂は宝永2年伊達家寄進の堂宇にて弁財天十五童子像を安置。
弁財天はインドの薩羅我底河より生じたる神にて水に縁深く池、河の辺に祀られる。
又、妙音天とも称し河水の流るる響の如く能弁にして悩める衆生を救い悦ばしむる。」
峰薬師堂

間口3間の宝形造り瓦葺きの寺院。案内板:「もと経塚山(金色堂の南方)の下にあったが、天正年間(1573〜1591)に荒廃、のち元禄2年(1689)現在の地に再建。堂の面積は32.5坪、型式は桁行3間、梁行3間の瓦葺の単層宝形造りで、御本尊は丈六(約2.7m)の薬師尿来の座像でカツラ材の寄木造り、金色に漆を塗り金箔をおいたもので、藤原末期の作で現在重要文化財として讃衡蔵に安置。

現在の御堂は昭和57年の改築で、御本尊も薬師如来を中心に日光菩薩、月光菩薩の三尊とし、堂の改築を契機に昭和63年、前立本尊として仏師松尾秀麻師の謹刻になるものである。」
阿弥陀堂 観音堂 釈迦堂

毛越寺
霧に浮かび上がるシンボルの浄土庭園、雪景色も抜群である。
「平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の一つとして世界文化遺産に登録され、国の特別史跡、特別名勝。

嘉祥3年(850)、円仁が創建したというが、これは伝説ではないか?
その後、大火で焼失して荒廃したが、藤原基衡、秀衡が復興したという。
『吾妻鏡』には、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」と記載され、中尊寺をしのぐ規模だったという。

奥州藤原氏滅亡時も無事であり、鎌倉時代には鎌倉幕府にも保護されたが、嘉禄2年(1226)に火災に遭い、天正元年(1573)兵火で焼失。
土壇と礎石を残すだけとなった。
江戸時代は周辺は水田化されていた。
大正11年(1922)史跡に指定された。

昭和29年(1954)より発掘調査が行われ、『吾妻鏡』などの文献資料とよく合致することが確認された。
毛越寺のシンボル浄土庭園は、平安時代末期の遺構。苑池も橋脚は無いが、その存在した場所は分かる、
中島や庭石もかつての姿、そのもの。
旧態をよく示して、平安時代の伽藍形式を示す。
本堂は平成元年に再建されたもの。
(Wikipedia等を参考)



無量光院
藤原秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院。
『吾妻鏡』によれば、無量光院は京都の平等院を模して造られ、新御堂と号した。
(新御堂とは毛越寺の新院の意味。)
発掘調査の結果、四囲は東西約240m、南北約270m、面積約6.5万uと推定され、平等院よりも規模が大きかったと推定される。
しかし、度重なる火災で焼失し、今日では土塁や礎石が残るのみである。
跡地は水田と松林となっており、昭和27年に行われた発掘調査によって、本堂や庭園の規模や配置が『吾妻鏡』の記述と一致することが確認され、昭和30年に国の特別史跡に指定された。

本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、中堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。
本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致だが、翼廊の長さは一間分長かったという。
建物は全体に東向きに作られ、敷地の西には金鶏山が位置していた。

配置は庭園から見ると夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように設計されており、浄土思想を体現していたという。
しかし、今は草茫々の原っぱだった。
庭園の島が分かる。
そこに松の木が生えている。
訪れた日も発掘が続いていた。(Wikipedia等を参考)