飛騨紀行

白川郷(岐阜県白川村)
白川郷といえば「合掌造り」である。
ほとんど「白川郷」と同義語と言ってよい。

その「合掌造り」は、白川郷と五箇山地方のみに存在する民家の形式だそうで日本の他の地方には見られないものだそうである。
確かに他の日本の山間の田舎の風景とはまったく異なる建物であり、異様な感じでもある。
どこか日本ではあるが日本ではないような・・・。
どことなく縄文時代の竪穴式住居を巨大化させたような感じもする。
ほとんどの建物もいまだに住居として、店として、民宿として現役で利用されているのも凄い。
でも、住んでみれば今では不便このうえないだろう。



紹介される写真を見れば風情ある景色が広がっているが、現実は超観光地である。
集落自体が観光地、やはり観光客が凄い。
半端な数じゃない。

住民の多くは観光業に従事しているのであろうが、その中で生活もしているのである。
集落内に畑や水田もある。
これじゃあ、プライバシーもないのでは?
我が家の前、畑の横の道を大勢の人間がいつもウロウロしていたら、覗き込まれているようでやだねえ。
洗濯物も干せないじゃないか。

当然ながら、外国人も多い。
欧米人もけっこう多く「ファンタスティック!」を連発していた。
この感想、日本人でも同じ感想である。

これもまた当然であるが、大陸人(台湾人も?半島人も?見分けはつかん)も多い。
こんなところにまで進出しているのは驚きであるが、果たして大陸人にはここが理解できるのだろうか?
チベットや大都市郊外はこんな感じじゃないのか?
ここ白川郷へは岐阜から富山に抜ける東海北陸道が険しい山をトンネルで貫通しているため、今では簡単に行くことができるが、かつては険しい山が迫る谷沿いの細い道だったのでここまで行くのが大変であっただろう。
さらに昔などは完全に陸の孤島状態、生活の維持も大変だっただろう。


「合掌造り」は一軒の家屋の空間を最も合理的に利用することを追及した結果として誕生した叉首構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋であるというが、確かにこれ以上、効率的に空間を利用した建物はない。
何せこれは木造高層建築である。4階建てまであるというのが凄い。

屋根裏の空間を上手く利用したものであり、養蚕にも適している構造である。
このため江戸中期以降にこの構造が有用となり、養蚕スペースを確保するため、屋根の勾配が急になり、高層化していったという。
したがって、江戸中期以前はあまり高層化していなかったようである。

この形、当然積雪対応もあるだろう。積雪による荷重負荷低減と水はけを考慮したものという。
屋根のこう配は急であるが、45度から60度まで、傾きにはかなりの幅がある。
住居ばかりでなく、倉までが合掌造りである。
この造りなら収納効率も非常に良く、合理的である。

合掌造りの語源は小屋が叉首(サス、「ガッショウ」とも呼ばれる)による構造となっていること、あるいは、屋根が両手を合わせたような形になっていることから、合掌造りと呼ばれるようになったとも言われる。
茅葺屋根の葺き替えは、30年から40年に一度行われる。雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがあるため、補修作業は年に1、2度必要となる。
茅葺屋根の葺き替えや補修作業では、地域住民の働力提供による共同作業で行われる。
この仕組みを結(ゆい)と呼んでいる。

同じ合掌造りでも、白川郷と五箇山では土間の取り方や入口の位置が異なり、妻に庇を付ける五箇山に対して付けない白川郷など、地域によるいくつかの相違点も見られるという。

合掌造り家屋は、もともとそれほど多く建てられたものではなく、さらに戦後の経済発展と生活の近代化の中で、その数は急激に減少し、現在は150棟以下となっている。
「白川郷・五箇山の合掌造り集落」は、1995年12月ベルリン市で開催された第19回世界遺産委員会で、世界遺産として認められた。

ここ白川郷の語源は白山から流れ出る白水谷を水源とする大白川が、庄川と合流するとき白く濁ったことが地名の由来といわれる。
庄川の右岸の三日月形をした段丘にある荻町集落に合掌造りが集中、59棟が存在し、集落の全域に加え山麓の林の一部を含む約45.6haが重要伝統的建造物群保存地区として保存されている。
合掌造り家屋59棟のほか、寺院本堂、庫裏、ハサ小屋、板倉などの伝統的な建物や神社の社叢、水路などが保存すべき対象になっている。

ここ白川郷の合掌造り集落、荻町地区の写真は北側の荻町城址の高台から撮ったものがよく紹介されるが、この荻町城は戦国時代、この地を支配した戦国大名、内ヶ島氏家臣の城である。

内ヶ島氏は室町時代、金山開発のため信州松代から飛騨に移ったという鉱山技術者でもある武家で、楠氏の子孫を称している。
地震とともに金蔵ごと崩壊したという帰雲城の城主、黄金伝説の主人公としても有名である。
もともとは幕府直参の馬廻衆であったという。

なお、信州松代が出身というが、松代には内ヶ島氏に係る地名も子孫と思われる者もいなく、信州出身説は疑問である。
ただし、信州は南朝方の勢力が強く、楠氏の一族が逃れていた可能性は否定できない。

それより武蔵の豪族に内ヶ島氏がおり、この一族が足利氏にしたがっていた可能性の方が強いともいう。
初代が内ヶ島為氏である。彼の父内ヶ島季氏は足利義満の馬廻衆であった。
為氏の代に足利義政(1449年 - 1457年)の命令(多分、金山開発のため?)で白川郷に入り、向牧戸城を築城、本拠とし白川郷を支配した。
しかしすぐに応仁の乱が勃発、為氏は上洛、乱の終結後、帰国した。

そこで一向宗との戦いに巻き込まれ、蓮如の仲介で本願寺と友好的関係を結び地域は安定する。
永正3年(1506年)、越後国の守護代長尾能景と越中国の一向一揆が戦いになると、内ヶ島氏は一向一揆側で参戦するが、惨敗、和睦する。

戦国時代、内ヶ島氏理の代には鉱山経営(鉄砲の火薬である硝煙生産も)で財を成し、帰雲城を拠点とした戦国大名となり全盛期を迎え、姉小路氏などの侵攻を受けるが、これを撃退。佐々成政が越中を支配するとその傘下となり、魚津城の戦いに参戦した記録が残る。
しかし本能寺の変後、成政に属して戦うが、秀吉側の金森長近が白川郷に侵攻。
帰雲城も占拠され、氏理は秀吉に降伏。
しかし、内ヶ島氏の鉱山経営の技術を重視した秀吉は内ヶ島氏を許す。
(おそらく、金山の金を上納することが条件だったのであろう。)

所領を安堵を祝うために氏理は祝宴を開こうとし、一族を帰雲城に呼び寄せた。
宴を翌日に控えた天正13年(1585)11月29日、白川郷一帯を天正地震が襲った。
帰雲山は山体崩壊し、土石流は直下にあった帰雲城とその城下を襲い、内ヶ島一族含め城下の領民のほとんどが死に絶え、内ヶ島氏は一夜にして滅亡してしまった。
この時、大量の金を蓄えた倉ごと崩壊したという話があり、これが帰雲城黄金伝説である。
内ヶ島一族には難を逃れた者もおり、天正地震の史料『経聞坊文書』を残している。
現在も白川郷周辺には内ヶ島姓が見られ、子孫を自称する人々がいる。(Wikipedia等参考)

飛騨高山
岐阜県高山市の別名は「小京都」。
山間ではあるが、名古屋方面と日本海の富山方面を結ぶ交通の要衝として栄え、中心市街地には江戸時代以来の城下町・商家町の姿が保全されている。
上一之町、上二之町、上三之町、片原町、神明町4丁目の各一部が「三町伝統的建造物群保存地区」に指定され、下二之町付近は、「下二之町大新町伝統的建造物群保存地区」に指定されている。

別名、「飛騨の小京都」と呼ばれているが、その町並みは京都に良く似ている。
高山祭りや陣屋など多くの観光資源もあり、白川郷や乗鞍方面、上高地方面への観光拠点でもあることから、観光のキーとなり、全国各地から毎年非常に多くの人が観光に訪れる。
だいたいは白川郷とパックでツアーが組まれるので相乗効果があるのだろう。

ミシュランの実用旅行ガイド「ボワイヤジェ・プラティック・ジャポン」でも必見の観光地として3ツ星を獲得し、2009年3月発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン2009」、2011年3月発行の同グリーンガイド第2版においても3ツ星を獲得していることから外国人にも知られ、多くの観光客が訪れる。
その小京都高山を象徴する上二之町に立ち寄った。

さすが観光スポットだけあり、レトロな建物が並び、多くの観光客が来ている。
一言で表すと「渋い!」。

ここにもあの騒がしい大声の連中が来ている。
欧米人もかなり多い。
果たして、ここの良さを理解できるか、知る由もないが・・。

この商家街ほとんどは土産物店、伝統工芸品の販売店、酒蔵、食べ物屋である。
これらの建物、入口が狭く、奥行きがある「うなぎの寝床」という構造であり、店舗が奥まで続き、奥にある倉なども店や喫茶店になっている。
庭もあるが典型的な箱庭である。狭く不便ではあるが、それはそれなりに楽しめる。
古い街の商店街はだいたいこんな感じであった。
どこか懐かしいような感じも受ける。
ただし、今、個々のような感じのまま残っている所は少ないのだろう。
ここは車が入って来れないような小路沿いにあり、戦災や火災等の災害も受けなかったため、時代から取り残され、さらに再開発もされる余地もなかったので昔の姿のままで残ったのだろう。
まさにこれは天遇と言えるのかもしれない。