羽黒山紀行

羽黒山出羽神社(鶴岡市羽黒町)

出羽三山は、崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が父崇峻天皇が蘇我氏に殺害された時、出羽国に逃れ、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝えられる。
それは伝説としても、平安時代に編集された『延喜式神名帳』にも記載されるので、すでにその頃には大規模な神社が存在していたことが伺える。

由来はともかく、古来からの修験道(羽黒派修験など)の道場であったものと思われ、おそらく縄文時代からの山を神に見立てた原始信仰がそのルーツではなかったかと思う。

神社であるがお寺のものである五重塔があるのが不思議であるが、神仏習合、八宗兼学の山とされ、江戸時代には、三山とも別当寺が建てられ、仏教寺院と一体となったことによる。
羽黒山出羽(いでは)神社は、お寺としては寂光寺という名の天台宗の寺でもあったのである。
そのため、至る所に寺院や宿坊が存在し、五重塔も残されている。

江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」に数えられ、繁栄したが、明治の神仏分離で神社となった。
その際、徹底した廃仏毀釈が行われ、寺の伽藍の多くが破却されてしまった。
まるでアフガンでのタリバンと同じ蛮行である。
そして出羽神社が月山神社、湯殿山神社も管理するようになった。

入口にあたる隋神門 隋神門を入り継子坂を下ると神橋がある。

お寺の面影のためか、参道入口には隋神門がある。
この門は元々は「山門」である。
ここから山頂までは約2q、約1時間ほど。

石階段は歩幅が狭く、坂は急で周囲は樹齢300〜600年の見事な杉並木。
参道はいったん継子坂の下りになるが、この石段、けっこう怖い。

石段は合計、2446段あるという。この道を行くと祓川に掛かる神橋に出る。
その先に爺杉などがあり、そして国宝の羽黒山五重塔がある。

平安時代中期の承平年間(931 - 938)平将門の創建と伝えられているが伝説だろう。

今の塔は、『羽黒山旧記』によれば応安5年(1372)、羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられる。
慶長13年(1608)には最上義光が修理を行ったことが棟札からわかる。

この棟札によれば、五重塔は応安2年(1369)に立柱し、永和3年(1377)に屋上の相輪を上げたという。

総高約は29.2m、塔身高(相輪を除く)は22.2m。屋根は?(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木を使用している。

ここからさらに石段が続くが、とても登る時間がないので、車で山頂までバイパス。




羽黒山頂部には羽黒山信仰の中枢三神合祭殿が建つ。
月山・羽黒山・湯殿山の三神を合わせた合祭殿である。
冬季、月山や湯殿山は雪のため入山できないためここで合わせて参拝できるようにした。

国重要文化財の三神合祭殿と手前の鏡池 国重要文化財の鐘楼と大鐘

日本最大の茅葺建物であり、社殿は合祭殿造り、羽黒派古修験道独自のもの。
どことなく出雲大社の本殿に似た感じ。

高さ28m、桁行24.2m、梁間17m。杉材を使用し、内部は総朱塗り。
現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成。当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。
この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員されたという。
昭和45〜47年にかけ、開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、朱塗りの社殿に復元された。
平成12年、国の重要文化財に指定。

三神合祭殿の前には、鏡池(御手洗池)がある。
古くは御手洗池(みたらし)とも言っていたという。

平安〜鎌倉の頃に古鏡が埋納され、これは池中納鏡の信仰によるものといい、神社の博物館には190面の古鏡が収納され、国の重要文化財に指定されている。

鏡池の傍らの鐘楼と建治の大鐘があり、ともに国の重要文化財。
鐘楼は切妻造りの萱葺きで、豪壮な建物。
最上家信が元和4年に再建した国宝五重塔に次ぐ古い建物である。
鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。
鐘の口径1.68m、唇の厚み22cm、鐘身の高さ2.05m、笠形の高さ13cm、龍頭の高さ68cm、総高2.86m。
この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、元の艦船を撃退したとのことで、鎌倉幕府が羽黒山の霊威を謝し鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉納したという。


最上峡

芭蕉の名句「五月雨を 集めて早し 最上川 」の舞台である。
そして、あの「おしん」の舞台でもある。

山形県の最上川中流にある峡谷で、戸沢村の古口地区から庄内町の清川地区の区間を指し、全長は15km。

最上川の急流が、堆積岩を浸食して形成した峡谷であり、出羽山地を東西に分断する。
河床は20〜30mであるが、それに山峡の標高60m〜80mが加わるため、見かけよりもかなり深い谷間となっている。最上川は古くから急流(日本三大急流の一つ)として知られ、舟下りが親しまれていた一方で、庄内平野と内陸部の山形盆地を結ぶ河川交通の要衝でもあった。

現在、最上川は治水工事が行われ、流れは急流ではなくなり、穏やかである。
遊覧船や観光筏が周航するが、紅葉の時期が最高じゃないかと思われる。
船頭が歌う最上川舟唄は江戸時代から歌い継がれる作業唄をアレンジしたものという。