足利紀行

足利学校(足利市昌平町)
栃木県足利市にあった室町時代から江戸時代にかけての学校。
特に室町時代から戦国時代にかけては、中世最高の高等教育機関として知られる。

創建年代については諸説あるが、平安時代初期、もしくは鎌倉時代には創設されてたという。
おそらく足利氏がこの地に入ったころ創設したか、あるいはそれ以前にすでにあったのかもしれない。
室町時代前期には一時的に衰退していたと言う。

東側の水堀と土塁、まるで館である。 学校の入口、入徳門、裏門を移築したものという。 裏門(通用門)と土塁越しに見た方丈

それを永享4年(1432)、上杉憲実が再興。鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(しょうしゅ、校長のこと)に招き、蔵書を寄贈したりして復興。
全国に知られる学校となった。このため、全国から生徒が集まり隆盛を極めたという。
儒学と易学が中心であり、兵学、医学も教えた。
学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入り、自給自足の生活をしたという。

戦国時代、この地も戦乱に巻き込まれるが、各戦国大名も足利学校を戦乱に巻き込むのを避け、逆に保護、支援したという。
享禄年間(1530年頃)に火災で一時的に衰微したが、再興され、学生数は3000人を越えたという。

この頃の足利学校については、フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記録し、海外にまでその名が伝えられた。
戦国末期は小田原北条氏が最大の保護者であったが、小田原の役で北条氏は滅び、スポンサーを失う。


旧遺蹟図書館、大正4年(1915)建設。市の重文。
復元された南庭園 再建された方丈、講義、接客に使われた。 廃校後の書物を保管、昭和末まで図書館として開放。

しかし、新しい支配者である徳川家康が保護。
100石の所領を寄進され、歴代の足利の領主による保護を受け、郷校として、再度、江戸時代前期から中期に繁栄する。
しかし、江戸時代中期になると朱子学が流行し、易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、兵学も平和な時代であり必要性が低下し、衰退。
貴重な古典籍を所蔵する図書館の位置付けに後退し、学校としては休校状態となる。
そして明治5年(1872)に廃校になった。

廃校後、方丈は小学校に転用され、建物の多くは撤去された。
しかし、地元の愛着・保護熱意は強く、地元足利町が1903年、足利学校の敷地内に、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館を設立し、足利学校の旧蔵書を保存した。
1921年には孔子廟や学校門などの現存する建物が国の指定史跡となり、保存が図られ、1980年代に史跡の保存整備事業を開始。
建物と庭園の復元が完了し、江戸時代中期の状態に復元された。
なお、敷地内にある足利学校遺蹟図書館には足利学校の旧蔵書が保管され、貴重な宋版(南宋時代の刊本)や室町時代の写本があり、4点77冊が国宝、8点98冊が重要文化財に指定されている。

孔子廟、寛文8年(1668)創設 孔子像

再建された建物以外の歴史的な建物としては、入徳門、学校門、杏壇門があり、いずれも国の史跡指定。
収蔵庫には国宝4種77冊、重文8種98冊が所蔵される。
入徳門 は寛文8(1668)年の創建、天保2年の火事により類焼、同11年ころ再修築、それも腐朽し、明治の中頃、通用門を移転修築したと伝えられる。

学校門は寛文8年の創建のままの状態。杏壇門は寛文8年の創建だが、明治25年に火事で類焼、同30年代に再建されたもの。
また、孔子廟(聖廟)は寛文8年に造営され、明の古廟を模したものと伝えられている。
中に孔子坐像・小野篁(おののたかむら)公像・四配などが納められており、日本最古の孔子廟という。

現在の施設は昭和57年から平成2年にかけて古図などを参考に江戸時代中期の姿に復元したもの。
当時は衰退しつつあるころであり、戦国時代の最盛期は果たしてどれほどの規模だったのであろうか?

この足利学校付近は足利市の旧市街である。
今は市の中心部は渡良瀬川の南岸の新市街に移り、北岸の旧市街はどこか寂しげな感じである。
これは歴史のあるどこの市も似たような感じであろう。

この足利学校門前の街を「昌平町」と言う。
古い街ではあるが、どこか風格のある建物や店が多い。
そこを散歩しているだけでも楽しい。歴史が風格を醸し出している。
←昌平スクエア(大谷石で造った建物、ブティックなどが入っている。)


渡良瀬橋(栃木県足利市)

渡良瀬橋で見る夕日を あなたはとても好きだったわ
きれいなとこで育ったね ここに住みたいと言った

電車にゆられこの町まで あなたは会いに来てくれたわ
私は今もあの頃を忘れられず生きてます

今でも八雲神社へお参りすると あなたのことを祈るわ
願い事一つ叶うならあの頃に戻りたい

床屋の角にポツンとある公衆電話覚えてますか
昨日思わずかけたくなって何度も受話器とったの

この間、渡良瀬川の河原に降りてずっと流れ見てたわ
北風がとても冷たくて風邪をひいちゃいました

誰のせいでもない あなたがこの街で暮らせないこと分かってたの
何度も悩んだわ だけど私ここを離れて暮らすことできない

あなたが好きだと言ったこの街並みが今日も暮れてゆきます
広い空と遠くの山々 二人で歩いた街 夕日がきれいな街


渡良瀬橋は栃木県足利市の中央を流れる渡良瀬川に架かる下路平行弦6連ワーレントラス橋。
橋長243.27m、幅員5.5mの昭和9年に架けられ県道5号線が通る自動車用の古い橋、歩道がない
・・・のであるが、何といってもこの橋は、森高千里の歌で有名。
橋の名が曲名でもあり、この曲により橋が一躍、全国に知られ、観光名所となった。
橋の北側には「渡良瀬橋」の歌碑が2007年に建てられ、「渡良瀬橋」が流れる。

橋自体は1934年(昭和9年)9月竣工という80年前のもの。
同年11月に陸軍の大演習が足利で行われることになり、重量のある陸軍の車両を通すため行するのは困難ということで急遽架けられた橋で、総工費は9万5千円であったという。
施工業者は櫻田機械製造所(後のサクラダ)。
平成時代に1度、改修工事が行われている

「渡良瀬橋」(作詞:森高千里、作曲・編曲:斉藤英夫)は、森高が1993年発表したシングル、テレビ番組『いい旅・夢気分』のテーマ曲として使用された。
森高最大のヒット曲、はっきり言って森高の歌はヘタ。
でもこの歌だけはいい。

森高は1989年に足利工業大学でライブを行っており、大学のある足利市内に渡良瀬橋という橋があることを知り、橋の周辺を散策、そのイメージを使って詞を書いたというが、渡良瀬橋という響きが気に入ったことも大きな要因という。
この曲のヒットで足利市から「足利のイメージアップに寄与した」ことを理由に感謝状を贈られ、2007年には足利市の出資で歌碑が完成した。

歌詞に登場する「八雲神社」は、市内に同名の神社が複数あり、そのいずれであるかは明示されていない。
足利学校付近にもあり、足利公園に隣接しても所在する。
「床屋の角にぽつんとある公衆電話」も足利公園近くにあるという。
「渡良瀬橋で見る夕日」・・歩道がないので橋の上に立って夕日は見れない!

「北風がとても冷たくて」・・足利は北風はあまり吹かない。北が山地だからである。
吹くのは西風、恐怖の赤城下しである。
冬場が乾燥しているため、体感気温が低く、冷たさが半端じゃない。
刺すような寒さである。
まあ、色々ケチは付けたが、いい曲だ。
森高の足がまた良い!今も?
(Wikipedia、足利市HP等を参照。)

足利フラワーパーク
最近では冬場のイルミネーションで超有名。
シーズンになると寒い夜にも関わらず、大型バスがドンドン入り、周囲は車で大渋滞となる。
フラワーセンター自体は、それほど古い歴史がある訳ではなく、前身が1968年、栃木県足利市堀込町に早川農園として開園したが、都市開発のため、移転することになる。
そこで1996年2月に大藤4本を現在地に移植したことがここの始点。

その移植は日本の女性樹木医第1号である「塚本こなみ」によって行われ、藤の移植としては、日本で初めての成功例だったという。
そして1997年に「あしかがフラワーパーク」として発足した。

元々ここは湿地帯だったため、園内には 250トン を超える量の炭を敷き詰め、土壌の浄化、活力を高め、すべての生命体の活性化を図ったという。
その後、園内の拡張整備も進み、面積は 92,000u となっている。

その移植した藤、ノダナガフジ3本、八重黒龍1本、白フジのトンネル一式は、現在では栃木県天然記念物に指定されており、見頃の4月中旬から5月中旬に「ふじのはな物語」と称する藤まつりが開催される。

また、その頃は夜間ライトアップされ、バスツアーも多く組まれる。

また、JR両毛線富田駅や東武 足利市駅に停車する臨時列車が走る。

花が乏しい冬季(10月下旬-2月上旬)を乗り切るアイデアとして考えられたのが、イルミネーション「光の花の庭」。
スタートは2002年、年々派手になり、LEDの普及でさらに加速している。

開始直後、娘が行っているが、それほど大したことはなかったと言っていたので、今とは比較にならないのだろう。
イルミネーション「光の花の庭」は、約180万球の紫色のLED電球を使った満開の大藤を再現した演出をはじめ、合計で約300万球を使った大規模なものである。

年間で 100万人 以上が来園する。
(Wikipedia、足利フラワーパークHP等を参照。)


2014年12月13日撮影

佐野厄除け大師(栃木県佐野市)
名前のとおり、所在地は栃木県佐野市にあるお寺、お正月が近くなると、初詣のCMがバンバン流れるので有名、そのおかげで初詣の人出は凄い。
CMをこれだけ利用した寺院も珍しいのではないだろうか。
初詣に100万人も来るというので、さぞ大きいのかと思ったが、意外なほどコンパクトな寺だった。
ここに大勢の人間が来たら身動きが取れないんじゃないだろうか。

この佐野市は30年以上も前から国道50号線を何度も通り、この地の名城「唐沢山城」や佐野プレミアムアウトレッドも何度か来ている
しかし、何故か、ここには全く行ったことがなかったが、ついに2014年12月13日参拝実現。

宗派は天台宗。
正式名称は「春日岡山 転法輪院 惣宗官寺(かすがおかやま てんぼうりんいん そうしゅうかんじ)」。
創立者は平将門を倒した藤原秀郷、戦国時代のこの地の小大名、佐野氏の御先祖様である。
開山(初代住職)は宥尊という。

創建は天慶7年(944)、藤原秀郷が春日岡(今の佐野城址の地)に創建したというが、これは伝説の域を出ないものだろう。

源平の合戦の頃は衰えていたが、鎌倉時代は北条氏の後援で復興、戦国時代は佐野氏の後援を受けた。

江戸初期、慶長7年(1602年)佐野信吉が唐沢山城から春日岡に佐野城を築き移転するため、現在地に移転する。
徳川時代には御朱印五十石を拝領し、寺社奉行も置かれ、三代将軍家光公も参拝したという。

あの足尾鉱毒事件で有名な田中正造の本葬が1913年(大正2年)10月12日にここで行われた。
本堂に上がり、護摩を見たが、盛大に火を焚く密教作法の世界はある意味、迫力満点、圧倒される。

しかし、このお寺、商売が上手い。
さすがである。お寺の住職さんは是非、見学すべきだろう。
(Wikipedia、佐野厄除大師HP等を参照。)


足利氏館(鑁阿寺) (栃木県足利市家富町)
鑁阿寺は真言宗大日派の本山で大日如来が本尊。
境内は「史跡足利氏宅跡(鑁阿寺)」として国の史跡に指定されている。

平安時代末期、足利氏2代目の足利義兼が築いた居館という。
お寺ではあるが、城館としてもここは日本100名城の1つでもある。

寺の正門、太鼓橋と楼門、かつての大手門の場所 国宝に指定された本堂 東側の土塁と堀、各辺200mと巨大なものである。

鑁阿寺は、義兼が境内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。
しかし、それ以前、藤原姓足利氏(ここに住んだ藤原秀郷の子孫)が築いたのが始まりではないかとも言われる。
通説では、義兼死後、子義氏以下代々が寺を整備し、足利一門の氏寺として、室町将軍家、鎌倉公方家など、足利氏の氏寺として手厚く保護された。
・・・と言うのだが、では足利さんはいったいどこに住んでいたのだろう?
付近にも足利氏の居館と思われる城館は存在しない。足利氏くらいの実力のある武家ならかなりの大きな館を構えていたはずであるが。
ここは200m四方もある堀と土塁を巡らした居館、ここがやはり一番ふさわしい。
しかし、1代で退去し、寺にする訳はないと思うのだが?

このため、居館内に寺があったということも想定される。
なお、足利尊氏がこの館に住んでいたのではと思うが、尊氏はほとんど鎌倉におり、その後、京に行っているので、足利にいることはなく、この館に来たという証拠がない。
ここにいたとすれば、一族か、留守家老のような家臣だったのではないだろうか。

内部から見た土塁。高さ3mほど。 東門

それに尊氏の頃には、すでにおの鑁阿寺が建立されていたらしい。
足利氏がこの地を離れたのは室町前期と思われ、平氏の流れを組む関東管領上杉氏一族の足利長尾氏がこの地の領主となる。
今でもこれだけの遺構を残しているため、足利氏がこの地を離れた後も足利長尾氏により大切にされていたものと思われる。
いかし、足利長尾氏は戦国の浪間に埋もれ、この地は上杉氏、北条氏の抗争の場となる。
ところが、戦国時代、この地にも上杉氏や北条氏、武田氏の軍勢が来ているはずであるが、足利学校とともにこの寺には何らの危害も加えていない。
保護しているのである。
やはり足利将軍家の館、名刹、そして足利学校の威光は絶大であったようである。

境内には、本堂のほかにも、鐘楼、経堂が国の重要文化財、東門、西門、楼門、多宝塔、御霊屋、太鼓橋が栃木県指定の建造物で、その他、市指定の建造物も多数ある。
彫刻や文書、美術工芸品など、中世来の貴重な宝物類も多数残されている。

鑁阿寺本堂は、東日本を代表する中世の密教本堂。
現在の本堂は室町幕府を開いた足利尊氏の父貞氏が正安元年(1299)に再建したもの。

平成25年、国宝に指定されている。
禅宗とともに中国から伝来した当時最新の寺院建築様式の一つであった禅宗様をいち早く取り入れ、外来の新技術の受容のあり方をよく示しているという。
鎌倉時代の禅宗様建築は全国的にも類例が少ないものという。

正安元年の建築後、応永14年(1407)から永享4年(1432)の修理により、柱と小屋組を強化して本瓦葺に改められ、室町時代末期までに背面向拝をつけ、江戸時代中期に正面向拝が改修されたという。
建物部材の一部について、放射性炭素年代測定法を用いた調査を実施し、建築年代が鎌倉時代後期の正安元年建築、応永から永享に大修造されたという定説が裏付けられた。

←境内にある大いちょうは、根元は1つだが二木が付着したもので県の天然記念物。樹高 30m、目通り幹囲 8.5m、推定樹齢 550年。

主幹は枯れたが新しい幹が多数伸び、根張りも発達していてどっしりとし、圧倒的な存在感がある大木である。