お江戸紀行1(千代田区)
第一生命館(千代田区大手町)
東京日比谷の皇居の日比谷濠の端にある第一生命の本社建屋であるが、連合国軍総司令部(GHQ)庁舎が置かれた建物として有名であり、歴史の目撃者である。 戦前の現存する大規模建築として、東京都選定歴史的建造物に選定されている。 今から70年前戦前、昭和13年(1938)に渡辺仁・松本与作の共同設計で建設された。 建物はドイツ風の新古典主義調であり、戦前のベルリンにあったヒトラーの総統官邸に似ている。 建設した時代の背景が伺える。 戦争中は屋上に高射砲陣地が置かれ、戦後、GHQに接収され、1952年まで使われた。 ヒトラーの総統官邸に似たこの建物を選んだマッカーサーもまたヒトラーと共通した部分があったように思える。 その、マッカーサーの総司令官執務室は現在も保存され、一般公開されている。 返還後、1970年代後半、警視庁本庁舎新築まで仮庁舎として使用されたこともある。 |
明治生命館(千代田区大手町)
皇居馬場先濠沿いにある1934年(昭和9年)に竣工した国の重要文化財に指定される歴史的建造物。 鉄骨鉄筋コンクリート造、地上8階、地下2階で、今も明治安田生命保険の本社ビルとして現役なのである。 岡田信一郎・捷五郎兄弟が設計し、竹中工務店が施工。戦後は、GHQに接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用され、米・英・中・ソの4カ国代表による対日理事会の第1回会議が行われた歴史の目撃者である。 1956年(昭和31年)、アメリカ軍から返還され、1997年(平成9年)、昭和の建造物として初めて重要文化財の指定を受けた。 設計者の岡田は「様式建築の名手」と称され、この建物も正面が、5階分のコリント式列柱が並ぶ古典主義様式のデザインである。 内部は1階が2階までの吹き抜けになり、2階には吹き抜けを囲んで回廊があり、執務室・会議室・食堂などが並ぶ。 社長室の内装には当時の流行であったスパニッシュ様式も取り入れられている。 1階店頭営業室や、対日理事会の会場となった2階会議室をはじめとする執務室、応接室など主要室の見学が可能。 |
東京銀行協会ビル(千代田区大手町)
東京丸の内の和田倉橋の東側、日比谷通りに面して建つ建物。 ルネサンス調の古風な赤レンガが目を引く。 でもなんだかこの建物、おかしい。奥行きがない。 それもそのはず、高層ビルの外壁の一部がこの赤レンガの建物なのだ。 つまり、古い建物に、高層ビルをくっつけてしまったわけ。 ですから「瘡蓋(かさぶた)建築」とも言われているそうである。 もともとの建物は1916年(大正5年)に松井貫太郎(横河工務店)の設計で建てられたが、老朽化により建物自体が皇居側へ傾いていたという。 本来なら取り壊しもやむをえない状態だったが、保存すべきという意見も強かったそうである。 |
しかしながら土地代も高く、高層化しないとモトがとれないという事情もあり、開発と保全の両面を満足させる苦肉の策としてこのような形で保存したのだという。
建築上は酷評もされているらしいけど、こんな形でも残してくれたのだから、評価されるべきだろう。
湯島聖堂(千代田区外神田)
御茶ノ水駅の北、神田川にかかる聖橋を渡るとこの湯島聖堂がある。
北側から神田川の谷に面した3段になっており、門や大聖殿が建っている。緑も多く、なかなか雰囲気も良い。
周囲の喧騒からは(狭いながらも)別世界である。
ここは神社でもお寺でもないけど、なぜかお参りしている人がいる。 確かにここは学問のメッカでもあるが・・湯島天神と混同?。 元禄3年(1690)、林羅山が上野忍が岡の屋敷内に建てた孔子廟「先聖殿」を5代将軍、綱吉の命でここに移転させ、先聖殿を「大成殿」と改称し、またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めたという。 その後は、林家が経営する儒学の学問所であったが、寛政異学の禁により、寛政9年(1797)林家から幕府直轄となり「昌平坂学問所」となる。「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれる。 「昌平」とは、孔子が生まれた村の名をとったもので、ここの東側の坂も「昌平坂」と名が付き、地名にもなる。 ここに多くの人材が集り、教育を受けて世に輩出され、江戸時代の学術水準を支え、さらにここを参考に各地に藩校が建てられた。 まさに「日本の学校教育発祥の地」にふさわしい場所であり、その掲示がある。 |
明治政府下、明治4年(1871)昌平坂学問所、幕府天文方の流れを組む開成所、種痘所の流れを組む医学所と機能統合し、東京帝国大学に改変され、一部は機能分離し東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)
となった。 現在の敷地は200m四方ほどであるが、当時は広大な敷地を持ち、この敷地内にこれらの学校が並立し、文部省、国立博物館も置かれていたという。 しかし、敷地が狭くなり、各機関、学校は他の場所に移転し、現在、その敷地のほとんどが西側に位置する東京医科歯科大学の敷地になっている。そして、大成院などの建物だけが残され、大正11年(1922)国史跡に指定されるが、翌年関東大震災で入徳門と水屋以外の建物を焼失。 現在の大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、昭和10年(1935)に寛政年間の姿に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。 |
(現地解説板、wikipedia、湯島聖堂HP参照)
神田明神(千代田区外神田)
御茶ノ水駅で降り、秋葉原方面を聖橋からしばし眺めた管理人。
向かった先は「神田明神」。「神田明神」と言ったら、銭形平次!
「男だったら一つにかける かけてもつれた 謎をとく
誰がよんだか 誰がよんだか 銭形平次
花のお江戸は 八百八町 今日も決めての 今日も決めての銭がとぶ」
舟木一夫または北王路欣也が歌うこのメロディが浮かぶ。
大川橋蔵か北王路欣也(最近は「おとうさん犬」のイメージが大きい。)のさっそうとした姿が・・お静さんはやっぱ「香山美子」か・・。
その時代劇の偉大なヒーローの1人、野村胡堂の「銭形平次捕物控」の主人公「銭形平次」はこの付近の長屋に住んでいたはず。
この境内内も歩いたはず・・。
どこかから銭が飛んでくるような・・・んな訳ない。
賽銭箱に銭を投げたが・・。この縁で敷地内に「銭形平次の碑」がある。 |
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山門?っていうのかな? | 本殿 |
解説板によれば
『天平2年(730)の創設、始めは大手町の将門首塚付近にあったが、徳川家康が江戸城に入り、城を拡張した際に江戸城の表鬼門に当たる現在地に移転した。
もともとは、ここ武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まるという。
今の社名となっており、地名にもなっている「神田」とは、伊勢神宮の御田(神田)があった土地を指し、神田の鎮めのために創建された神社が、この神田明神なのだそうであり「神田ノ宮」とも称したという。
銭形平次と並んでこの神社に係わる有名人物が、あの平将門である。
承平5年(935)将門は敗死し、首が京に晒されるが、京から故郷に戻ろうと飛んできた首が、神社近くに落ち、そこに将門塚が造られる。
以後、その首塚が東国武士の崇敬を受ける。
しかし、鎌倉末期の嘉元年間(1303 - 1306)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして神田明神主催で供養が行われ、その流れで、延慶2年(1309)に平将門もここの神社の神に祀ることになった。
(明治時代に天皇に対する逆賊なので一時、外されたが、戦後に復帰)
それ以後、ここに祈願すると勝負に勝つといわれ、勝負士の崇拝を集めることになる。
江戸初期に現在地に移転するが、江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇される。
この神社の祭り、神田祭は江戸三大祭として有名であり、山車が出て、将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」とも言われた。
現在でも2年毎に行われる祭で神楽が大手町、丸の内一帯を練り歩き、「神田囃子」は無形文化財に指定されている。
江戸初期に建てられた社殿は、桃山風建築であったが関東大震災で焼失し、その後再建、東京大空襲も生き延びた。』
靖国神社(千代田区九段北)
国内の神社で有名な神社は数々あれど、この神社ほど話題に事欠かない神社はない。
その点での知名度は国内ナンバー1である。何しろ、この神社の話題は新聞の「政治面」に載るのである。
そんな神社は他にはない。第一、雰囲気が異様である。
参道には鉢巻を巻いた黒服のその手のオニイサンが沢山いるし、街宣車や黒塗りの不気味な大型乗用車が・・・こんな神社も、他にはない。
ご存知、亡くなった戦前の日本の軍人、軍属等を主な祭神とする神社である。 1869年(明治2年)に東京招魂社として創建され、1879年(明治12年)に靖國神社と改称された。 創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が所管、後に内務省が人事を所管、陸軍(陸軍省)・海軍(海軍省)が祭事を統括。戦後、1946年(昭和21年)に国営から宗教法人に移行した。 祭神は、原則、「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊であるが、その幅は広く、兵士ばかりでなく軍属・一般人なども含まれる。 沖縄で戦死した「ひめゆり部隊」の女学生や軍需工場で被災した学徒、学童避難船「対馬丸」事件で亡くなった学童、従軍看護婦、シベリア抑留で死亡した兵士等、幅広く計246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られている。 |
その幅広さの中にサンフランシスコ講和条約の第11条にある裁判・判決によって死亡した者など(極東国際軍事裁判などの軍事裁判によりA級戦犯・BC級戦犯であるかないかに関わらず死刑になった者など。政府では「法務死者」、靖国神社では「昭和殉難者」と呼称している)が含まれている。 これが色々、波紋を起している訳である。 神社の主旨は祭神の範囲を広くし、比較的純粋なのだが、設立の歴史もあり、これが逆手に取られて政争、外交の具にされてしまっているのである。 この神社に対する国内外からのバッシングに対抗するように右翼がここに集まり、異様な雰囲気の空間が出来ているのである。 でも門をくぐるとごく普通の神社の本殿という感じだった。 |
日比谷公園(千代田区日比谷公園)
この公園、西側が霞が関、東が有楽町、北が皇居前広場という都心部に位置し、土地は国有地。
公園としては都が管理、16.2万平mという広さがある。
園内には、市政会館および日比谷公会堂、野外音楽堂、東京都立日比谷図書館、緑と水の市民カレッジ、日比谷グリーンサロン、フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館)、テニスコート、松本楼などがあ敷地内にある。もちろん、大小の花壇や木々があり、四季折々の花が見られ、緑がまぶしい。
しかも、これらの管理が行き届いていて素晴らしい。
公園のシンボルは「大噴水」、28分間周期で24景を楽しめる構造。
噴水池は上中下段の三段構造。池の直径は30m。主噴水の吹き上げ高さは12m。
江戸時代は佐賀鍋島家、萩毛利家などの上屋敷があり、北東側に日比谷見附の石垣が現存する。
その前にある「心字池」は堀の跡である。
なんで西側に堀があるんだと不思議だったが、この日比谷見附門、西側が入口なのだ。
江戸城に入るには迂回して行くようになっていたのだ。
明治になると陸軍近衛師団の練兵場となった。 その後、本多静六と本郷高徳によって「都市公園」として設計され、1903年(明治36年)6月1日に日本初のドイツ式洋風近代式公園として開園した。 開園後、図書館、公会堂、音楽堂などが設置され、都民のいこいの場所として親しまれるとともに広場(現在の第二花壇の位置)では数々の国家的行事が催された。 しかし、太平洋戦争が始まると樹木が伐採されて公園内は畑となり、かつ金属回収のため外柵等の撤去が行われた。 戦後、連合軍に接収され、返還後、1951年(昭和26年)ころから復旧を開始された。 この公園と言えば、1905年9月5日に起きた日比谷焼打事件が有名。 ここでポーツマス条約による講和に反対する決起集会が開催され、暴動に発展。暴徒化した民衆が内務大臣官邸、国民新聞社、交番などを襲撃。 東京が一時、無政府状態となり、翌9月6日、戒厳令を発令して沈静を図る。 この暴動による死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上(このうち有罪となったのは87名)という。 最近では2008,9年の年末年始にかけての偽者がたくさん紛れ込んだ派遣村がここで開設されたことで有名。(Wikipedia等を参考) |
小野外音楽堂 | 大噴水 | 明治36年開園当時のデザインの幾何学文様の洋風花壇の第一花壇とペリカン噴水。ここの景観もしばしばテレビドラマに登場する。 |
大噴水越しに見た日比谷公会堂 | 雲形池 都市公園等の噴水としてはわが国で三番目に古いとされる鶴の噴水のある池。春はサクラが見事である。 | フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館) |
日比谷公会堂
東京市長の後藤新平の提案従い、安田善次郎が寄付された350万円の資金で「市政調査会(市政会館)」およびそれに併設する公会堂として計画された。
建物は指名設計競技で一等となった佐藤功一が設計、1929年(昭和4年)に竣工。現在も現役であり、同建物(市政会館)内には財団法人・東京市政調査会がある。
鉄筋コンクリート造4階建て、面積6032m2で定員は2074名。
かつて、東京では唯一のコンサートホールであり、オーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれたが、今では講演会、イベントなどが開催されている。
浅沼稲次郎暗殺事件の現場がここである。