白河紀行

山本不動尊(棚倉町北山本)26.9733、140.3591
八溝山の北東約10q、八溝山系から流れ出る久慈川の支流、宮川が流れる渓谷にある。
山本不動尊は標高は290m、棚倉市街地南部の八規都々古別神社を通る国道118号線から南西方向に分岐した県道231号線を約4.5q走った谷間にある。
この道はさらに奥地まで続くが、実質的な終点はここである。

ここ棚倉は赤館、寺山等、多くのごつい城があり、15年以上前から何度も訪れている。
また、ここを通過して白河、郡山にも行っている馴染みのある町である。

どんな地図を見てもこの「山本不動尊」がマーキングされているので昔から名前は知っているのだが、ついぞ行ったことはなかった。
ようやく2020年9月16日、訪れることができた。

ここは「奥久慈県立自然公園」に指定されており、寺はかなり深い渓谷の谷間にある。
棚倉町のHP等には、以下のように紹介されている。(一部、アレンジ)

山本不動尊は正式には石堂山徳善院明王蜜寺といい、真言宗智山派の寺院。東北三十六不動霊場第35番札所。
本尊は当然ながら不動明王。
創建は平安時代初期の大同2年(807)、弘法大師空海が当地に巡錫で訪れた際、鬼瓶山(標高701m)に巣くう悪鬼を鎮める為、当地に護摩壇を築いたのが始まりとさる。
以来、山岳信仰の拠点として繁栄し、江戸時代は歴代棚倉藩主の祈願寺として帰依された。
特に松平康爵の信仰は篤く嘉永2年(1849)には石灯籠一対と、自ら書した「不動尊」の扁額、元治元年(1864)には護摩仏具を奉納している。
松平康英は自ら修験僧の姿で参拝祈願を行い、見事2万石が加増され川越藩移封が決まった事から開運の不動尊と呼ばれるようなったという。

県道231号線を進むと杉並木↑があり、その奥に駐車場がある。

ここから参道↑が延び、参道沿いに宿坊などが立ち並ぶ。
参道はきれいに管理されていて気持ちがいい。
紅葉が多く紅葉シーズンはかなり見事な風景だろう。
雪があっても絵になる。

宮川にかかる赤い橋を渡ると本堂↑がある。
本堂付近は鐘楼があったりし、山間にある普通の寺という感じだが、一番の見どころは「奥の院」である。
ここが実質的な中心となる場所である。
そのお堂が崖の中腹の窪みに建てられている。↓

ここには一度、谷底まで下り、宮川にかかる橋↓をわたり、長い石段を登らないと行けない。

この石段が結構怖い。
高さが怖い訳ではなく、石段表面が岩場からにじみ出る水で濡れていて滑りそうで怖い。
こんなところで転んだら石段を転げ落ちて大けがをしそう。そのため、手すりにつかまって慎重に登る。
お堂↓は崖の窪み、ちょっとした洞窟のようになっている場所にある。

雨風はある程度しのげる場所であるが、上を見ると岩がせり出していて怖い。
一応、落石防止の金属製のネットが張ってはあるが・・・・・。
3.11の時はここも震度6弱くらいで揺れているはず。
そんな時、ここにいたら・・・。考えただけでも恐ろしい。

ところで何でこんなヤバイ場所にお堂があるか、ということだが、このお堂の上の崖面の模様が「不動明王」の顔に見えるからとのこと。
それを確認したのが平成15年とされる新聞記事が掲示されていたが、悪いが管理人には、いくら眺めてもただの崖面の模様にしか見えない。
記事は屁理屈じゃねえのか?不信心者だねえ。

↑がその「不動明王」の顔だと言うのだが・・・
さて、皆さま、「不動明王」の顔に見えますか?

都々古別神社
福島県棚倉町には、2つの都々古別神社がある。
八槻都々古別神社と馬場都々古別神社である。
両社とも若干の違いはあるが、ほぼ同じような由緒を持ち、同じく味鋤高彦根命(アヂスキタカヒコネノミコト)を主祭神として日本武尊を配祀し、名神大社・陸奥国一宮を称している。
しかし、この2つの同じ名前を持つ神社、上社、下社とか秋宮、春宮とかのペアの関係はないようであり、共通の祭事もなく、現在は、別々に独立した神社である。

この2つの神社が、もともとは、分祠関係にあったのか、ペアの関係にあったのではないかと推定されるが、それを裏付けるものはない。
初めから全く別の神社が同名を名乗っていた可能性はないのではないかと思うが、それは今では分からない。

八槻都々古別神社(福島県棚倉町八槻)

棚倉南部国道118号線沿いの八槻地区に八槻都々古別神社(はつきつつこわけじんじゃ)がある。
平安時代に編集された延喜式神名帳では名神大社として記載され、陸奥国一宮とされている古い神社である。
由来としては、味鋤高彦根命がその父である大国主命を助けて奥羽の地を開拓し、住民にその徳を慕われ、当地に祭祀されたのが始まりとされている。
日本武尊の東征には、千度戦って千度勝ったとされ、その後陸奥国に来た八幡太郎義家が、この故事を称えて当神社を「千勝大明神(ちかつだいみょうじん)」と名づけたという。

近くに中世城館と言われる八槻館がある。
八槻都々古別神社がいつからこの地にに建っていたのかは分からないが、戦国時代には建っていたのではないかと思われる。
神社の宮司の屋敷が八槻館とも思える。

馬場都々古別神社(福島県棚倉町馬場)
由来は八槻都々古別神社と同じく、日本武尊が奥羽鎮撫の際に都都古和気神(味耜高彦根命)を地主神として都々古山(福島県白河市(旧表郷村)の建鉾山)に鉾を立てたのが始まりとされる。
その後、大同2年(807年)坂上田村麻呂が現在の棚倉城のある地に社殿を造営、日本武尊を相殿に配祀した。
しかし、寛永2年(1625年)、丹羽長重が棚倉城建築のため、今の場所に移転させたという。


石都々古和気神社(福島県石川町)

石川氏の本拠、三芦城本郭に建つ神社。
「いわつつこわけじんじゃ」と読む。
式内社で、旧社格は郷社。ここも陸奥国一宮とされる神社の一社である。
棚倉町の2つの都々都古別神社(都都古和気神社)のどちらかから分祀されたものであるという説もある。
この神社は巨岩が林立し、本宮市の岩角山などと同じく尾巨岩信仰に係ると考えられる。

境明神(白河市白坂/栃木県寄居明神)
国道294号線こと、旧奥州街道に面して、陸奥(福島県側)と下野(栃木県側)の県境に明神が二社並列している。
この2つを会わせて境明神という。ここは奥州と関東の境であり、白河の関はここだったという説もある。
その説、間違いという訳ではなく、一番古い東山道が東の白河の関を通る県道76号、そして次が旧奥州街道であるこの国道294号線、そしてその後が現在の国道4号線と、幹線が西に移っていった。
この経緯からすれば、ここは新白河の関ということも言える。
解説板によると「陸奥側の境の明神は、玉津島明神を祀り、下野側の明神は住吉明神を祀っている。
境の明神の由緒は不詳であるが、文禄4年(1595)に当時白河を支配していた蒲生氏が社殿を造営したという。
現存するのは弘化元年(1844)に建てられた小祠である。
奥州街道は五街道の1つで、奥州・越後などの諸大名が参勤交代で通行し、旅人や商人などの往来も盛んであった。
このため、道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり、灯篭や碑の寄進なども盛んに行われている。
境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した灯篭が並び、松尾芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」などの句碑や歌碑も多く建立されている。神社北側の杉林は、別当寺であった和光山豊神寺の跡地で、神仏習合の名残をとどめている。玉津島明神と住吉明神 玉津島明神(女神・衣通姫)と住吉明神(男神・中筒男命)は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。
このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」」(白河市教育委員会)

玉津島明神と国道294号線 玉津島明神の社殿 街道沿いに残る石垣は関所跡?