信濃紀行2 善光寺平その2

戸隠神社(長野県長野市)
戸隠と言えば「蕎麦」、全国に有名な「戸隠蕎麦」発祥の地である。
かつては「戸隠村」であったが、現在は平成の大合併で長野市に吸収されている。
アクセスは長野市街地から登るか、北東の黒姫高原側から行く主に2つのルートがある。

その戸隠高原にある神社が戸隠神社である。

蕎麦も有名であるが、戸隠伝説でも有名である。
この伝説、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋に隠れたため、天下は暗闇となる。
そこで八百萬の神々が天の安河原に集まり、岩戸開きの策を練り、天宇受売女命(あまのうずめのみこと)の巧みに踊り(ストリップ?)、それに八百萬の神々が大騒ぎ、何事が起こったのかと天照大御神が岩戸を少し開けた。

その一瞬を逃さず、怪力無双の天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が、岩戸を取って遠くへ投げ、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町へ、そしてもう一方の戸が信濃の国、戸隠へ。
岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるようになった。」というものである。

同名の半村 良の小説や内田康夫の「戸隠伝説殺人事件」でもとりあげられている。
また、最近ではパワースポットとしても知られ、大勢の観光客が来る。
JR東日本『大人の休日倶楽部』のCMで吉永小百合が戸隠の各地を訪れた様子が放映さたれことも大きな話題になっている。

さすがに歴史は古く、伝説では現在の奥社の創建が孝元天皇5年(紀元前210年)とも言われるが、これはあくまで伝説の世界、事実ではないであろう。
縁起によれば学問なる僧が奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849)とか、日本書紀の天武紀684年三野王(美努王)を信濃に派遣し地図を作らせ、翌685年に朝臣3人を派遣して仮の宮を造らせたとある。
さらに持統天皇が691年に使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせ、この水内の神が戸隠神社とする説もある。
平安時代以降は、密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、全国から修験者が訪れた。
しかし、戦国時代は武田、上杉の戦いに巻き込まれ、衰退したが、修験者が上杉方の忍者として登場する。

江戸時代に入り徳川幕府から、千石を与えられて「戸隠山領」が成立するが、東叡山寛永寺の末寺ともなったため、神社から寺的要素が強くなり、修験道場から門前町へと変貌していった。
しかし、明治時代になると廃仏毀釈運動が起き、寺から神社と変貌する。
神社は奥社、中社、宝光社の3社からなる。

もちろん、一番インパクトがあるのが奥社である。
戸隠神社のある戸隠高原は標高1900mの飯縄山の西山麓、屏風状の標高1900m級の戸隠連山間の盆地で標高が1200m。
参道入り口から奥社までが約2kmの道のりである。

入口の鳥居付近から西の戸隠連山方向に延びる参道を歩く。
1qほど行くと赤い「随神門(山門)」、その奥が17世紀に植えられた左の写真のような杉並木になっている。
吉永小百合さんのCMに登場するのはこの付近である。

この両側に神仏分離以前、子坊、講堂、奥院などが立ち並んでいたという。
この付近から登りとなる。5月の連休に行ったがこの付近にはまだ雪がある。
おまけにパワースポット人気で人が凄い。列ができている。列に並んで奥社本殿到着までに何と1時間。
ようやく到着した奥社は標高1340m地点。
かつての社殿は雪崩で崩壊してしまったという。
この背後には戸隠連山が覆い被さる。おそらくここを拠点に修験の修行を行っていたのであろう。
ここから八方睨みまでの登山道があるが、両側が崖である上を行くすさまじいルートという。
奥社の祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神である。
ここまで来たのは良いが怖いのは帰り道、雪が残り、滑るの何の。

奥社入口の鳥居、本殿はここから2km先 参道を1q行くと隋神門がある。 隋神門を過ぎると雪が残る道となる。
やっと奥社に到着 奥社本殿 本殿内部
中社に寄ろうとしたが、一度行っているし、大渋滞なのでパス。
その代わりに宝光社に。
康平元年(1058)この地に建てられた。
祭神は天表春命(あめのうわはるのみこと)で、中社の祭神である天八意思兼命の子。
学問や技芸、裁縫、安産や婦女子の神。
ここは杉木立の中の高い階段が印象的である。
現在の社殿は文久元年(1861)の建築、それほど古いものではないが、彫刻が精緻であり、いかにも江戸建築といった感じである。
(Wikipedia等を参照)
宝光社本殿まで高さ40mほどの急階段を登る。 宝光社本殿は江戸建築である。


大室古墳群(長野市松代町大室)
長野市松代地区北部の大室地区にある高句麗系の古墳と言われる積石塚古墳群。
ここには小学校の遠足で来た記憶があるが、上信越自動車道の開通以後、きれいに整備されたというので来てみた。
しかし、あまりに大々的に整備されており、地形まで復元され、当時の面影は全くない。

上信越自動車道長野IC下りから2つ目の大室トンネルと3つ目の大室第二トンネルの間が最大密集地の大室谷、その谷入口部が整備されている。
左の写真は大室谷末端から見た西側の谷口部。左の山が総石垣の城、霞城跡。

正面に長野オリンピックのフィギュアスケート会場「ビッグハット」が見える。その先に長野市街地がある。
ここの古墳数、破壊されてしまったものも多く、正確な数は不明であるが、総数は505基という。
そのうち324基が積石塚(土石混合墳も含む。)で、合掌形石室を持つものが39基存在する。
積石塚古墳の密集度は国内最高という。その他にオーソドックスな土墳もあるが、8割近くは積石塚とされる。
古墳は大室谷とその南側の北谷が中心であり、この2つの地区だけで449基が存在する。

この他に川田古城のある尾根、霞城の尾根、金井山城の尾根に各20基ほど存在する。
霞城、金井山城の石垣の石も古墳の石を転用した感じがしないでもない。

この積石塚古墳は、高句麗に多く、その渡来民がこの地に入り定住したことにより築かれたものという。
おそらく日本海を渡り、信濃川を遡ってきたのであろう。
この地に定住した理由は、この地と彼らの故郷、高句麗の気候風土がにていたためという。
双方とも冷涼な山岳地帯であり、狩猟文化と農耕文化を基本としていたという共通点がある。
彼らの特技が馬の養育である。この大室古墳群からも馬と関係する遺物が出土しており、168号墳からは土馬が発掘されている。
また、ここには「大室牧」が置かれている。
さて、この大室古墳群、5世紀ころ、谷の上部から古墳が造られ始め、徐々に谷の下方向に造られたという。
大室谷の場合は谷筋、2qに渡り築かれている。
ただし谷の裾部分の古墳には土墳や土石混合墳も多くなり、高句麗独自の文化が大和文化の土塚と融合、あるいは大和文化に圧倒されて来ている傾向が見られる。
一番新しいものは8世紀ころのものという。
その彼らが持ってきたもの。それが「善光寺仏」ではなかったかという。
「善光寺仏」も高句麗系というが・・。また、馬を特異とした彼ら、中世、ここには騎馬を得意とした井上氏がいるが。
井上氏、一応源氏を称しているが、果たしてそうかな?
この古墳群を築いた人々の子孫じゃないかな。
詳細、http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima2HP/katurayama.htm参照。
なお、東京調布、山梨、群馬、埼玉の高麗川、神奈川の大磯でも高句麗に関係する伝説や積石塚が存在するという。

典厩寺(長野市篠ノ井杵淵)

第4回川中島合戦で討ち死にした信玄の弟・典厩信繁の墓がある寺。
千曲川にかかる松代大橋の南西300mにある。

もとは鶴巣寺と言っていたが、、合戦から60年後の承応3年(1654)に松代藩主の真田信之が武田典厩の名をとって改名し、信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者を弔ったという。
境内には、信繁の首を洗ったという「首清め井戸」がある。
なお、真田信之の父、昌幸は信繁を尊敬し、次男を信繁と命名している。彼こそが真田幸村である。

胴合橋(長野市篠ノ井杵淵)

永禄4年の第4回川中島合戦で戦死した山本勘助の首と胴を合わせたという伝説の場所。
一応、通説では「啄木鳥戦法」を見破られた山本勘助は、責任を感じ敵に斬りこんだが、勘助宮(現在の南長野運動公園)付近で討ち死にし、その首は敵兵に奪われるが、妻女山からの武田軍が加勢し、上杉勢が退却をはじめるころ、家臣が主君の首を奪いし、血まみれの首を洗って戦場からかついできた胴体と首を一つずつ合わせ、ようやく勘助の首を確定した。
離ればなれになっていた首と胴体が合ったというのは、勘助の首が胴体を呼び寄せたに違いないという言い伝えが残る。
この山本勘助、長らく実在が疑われていたが、実在の人物だったことが判明している。
名前は山本菅助となっており、密使のような役をしていたというので信玄の近くにいる秘書役のような信頼された人物であったらしい。
ただし、軍師ではなかったようである。
当然、それなりの地位があり、部下もおり、合戦にも参加したのであろう。

境福寺(長野市稲里町中央)
「きょうふくじ」と読む。実はここにうちの祖父さんと祖母さんの墓がある。
子供のころの遊び場でもあった場所である。
川中島合戦のころから存在していたという。
当時は小さな庵で、武田信玄が水を求めて立ち寄った際、水が美味く、「境福寺」と命名し、弘治2年(1556)上人を迎えて勧請したと伝えられている。
その信玄が飲んだという井戸「信玄憩いの井戸」は今は埋められてしまって跡があるだけだが、管理人が子供のころは現役であり、その水を飲んだことがある。
この井戸は泉のように湧き出し、干上がったことはなく、近村からも水を請いに来たほどだったという。
永禄4年(1561)の第4回川中島合戦では兵火で焼失し、武田信玄が再建したという。

堂内に掲額されている信玄直筆の字と伝える山額について、徳本行者(江戸時代後期の僧)の布教日記『応請攝化日鑑』の文化13年(1816)5月7日の項に「境村境福寺はありふれた庵室であったが、信玄公が休息されて、境村境福寺とお書きになられた。それより寺となった」とある。
そのためか、寺の紋はこの付近では珍しい武田菱である。

境福寺本堂、武田菱が掲げられる 信玄憩いの井戸跡 信玄直筆と伝えられる山額

小布施町
長野盆地の北部、千曲川東岸、須坂市と中野市の間にある人口1.1万人程度の小さな町。
長野市から志賀高原の登り口にある湯田中温泉に向かう途中の町である。
昔はどこの田舎にでもあるような貧しい村だった記憶がある。精々、りんご、栗が採れるだけの町だった。それ以外の観光資源はない。
栗菓子は昔から作られていたが、今ほど栗菓子店が有名になってはいなかったと記憶している。
交通の便も昔はそれほど良くはなく、長野電鉄の湯田中線が通るだけだった。(現在は上信越自動車道も通り、小布施PAもあり、スマートICが併設。)

このどこにでもあるような田舎町、観光化に成功し、今では観光地である。
実に上手く観光資源を活かしており、感心する。
この町の成功過程に同様な田舎町を観光地に変えるヒントが隠されているかもしれない。

この町が町興しの手段に使ったのは「葛飾北斎」である。
北斎、実はこの町に4年間、住んでおり、多くの作品を残し、住人や地区がそれを持っていた。
浮世絵ではなく、掛軸画、色紙、などの肉筆の1品物が多いという。
町は散逸を防ぐため、それらを集めて昭和51年、博物館、北斎館を設けた。

何で、あの北斎がここにいたのかというと、パトロンに弟子でもある高井鴻山がいた。
地元の豪商の親父である。
家業は酒造をしていたそうで大金持ち。絵が好きで京や江戸で浮世絵を学んだ。
本人もそれなりの才能はあったようであり、特に妖怪絵で知られる。
水木しげるさんの先輩のようなものか。

でも、事業家との才能は皆無、弟が事業を切り盛りしていたという。
肝心の主人は趣味の世界に走り、ただ、利益を食いつぶしただけ。
それでもやっていけたのであるから高井家の財力がどれほどのものか想像される。
京、江戸で遊んで?いるのであるから、当然、多くの文化人、同業者と知り合うことになる。
その1人が北斎である。
鴻山は北斎の才能を見抜き、援助を行い、この小布施にも招待する。北斎80歳を過ぎた時という。
鴻山のおかげで北斎は生活に心配することなく創作に集中し、多くの作品を残した。
これが鴻山、最大の美術史への貢献だったと言えるだろう。
北斎の他に小林一茶も支援していたという。

その鴻山、晩年、江戸で作った妾が押しかけたことで家庭内騒動が勃発し、家運が傾き、あげく大番頭の弟が死去、家が火災で焼け、ついには破産。
最後は得意の揮毫で細々生計を立てていたという。
まるでドラマにもなりそうな生涯である。
主演するなら「西田敏行」さんが似合いそうだが・・・。

まあ、鴻山が町にとっても大恩人であるが、その交友の結果、町に残された北斎の作品に着目し、活用した町も立派。
さらに、昭和62年、北斎館などがある町並修景地区に、地元の名産品の栗を利用した和菓子を扱う小布施堂が開店。
その後、桜井甘精堂や栗庵風味堂などが隣接して店舗を構え、景観を向上させる。
善光寺観光や志賀高原観光とパックにした戦略も立派である。
ただの貧しい町が一気に観光地となり、1年に900万人が訪れるほどになった。
これはここ35年ほどのことに過ぎない。 

佐久間象山鉄砲試射地(千曲市倉科)
 長野自動車道更埴ICの南東2qの長野県千曲市倉科にある。
ここで幕末の嘉永四年( 1851 )幕末の英傑佐久間象山が主家松代藩真田家がスポンサーになって製作した大砲の試射を数日間にわたり行ったという。
しかし、その場所には碑以外は何もない。
ただの水田が広がっているだけである。

この試射で、弾丸は西の屋代城方面に撃たれ、中には 山を飛び越え、現在のしなの鉄道屋代駅付近まで届く弾もあったという。

地図を見れば射程は2qはあったことになる。かなりの性能である。
現地には『春晴野に乗じて 大砲を演ず 四林の桃杏 正に芳菲なり 一声の霹靂 天地を震わし 万樹の落花 繚乱として飛ぶ』という詩が歌碑に刻まれる。すさまじい音だったのだろう。

この実験主催者、佐久間象山、彼は他に日本初の電信試験を行った人間としても知られる。
鉱山開発も実施している。この人「天才」と言える人物であったらしい。
しかし、その割には認知度はそれほどでもない。その原因は彼の「性格」であったらしい。
とんでもない「傲慢」な性格であり、多くの人に嫌われていたという。
藩内の鉱山開発などは失敗したのだが、それを責任転嫁したとか。だから「あの野郎!」と恨みを買い、暗殺で死んだ後も「ざまあみろ」と思った人も多く、後世に余り良く伝えてもらえなかったらしい。

まさに「天才と〇〇は紙一重」「天は2物を与えず」の典型である。
彼の写真を見ても何となくわかる。あの目は異常である。多分「自己愛性人格障害」か、それに類する「境界性人格障害」じゃないだろうか。
頭の良い人の中にはこの手の人、多い。仕事はできるのだが、傲慢な性格で、協調性も少なく、だいたいにおいて周囲からは嫌われていることが多い。
逆を言えば多少、お頭は弱くても、性格、人当たりが良ければ、周囲からは嫌われず、悪くも思われず、死後も悪いようには言われないということでしょう。
しかし、佐久間象山の頭脳が超一流であったのは間違いはない。
TVドラマになった漫画に「JIN〜仁〜」がある。
大沢たかお主演で綾瀬はるかが共演した、現代の医者が江戸幕末にタイムスリップしたという奇想天外な想定でのヒットした作品である。
原作の漫画では舞台は幕末の京都に移る。
この中に佐久間象山が登場する。史実どおり彼は刺客に襲われ暗殺されるのであるが、その死の間際、少年時代にタイムスリップで現代に行ったことがあり、現代の技術のいくつかを過去に持ち帰ったという驚くべき経験を、主人公に語り、かつて行った未来にこの時代が近づけることを託して息絶えるという設定になっている。・・上手い設定で感心する。