日光紀行

日光東照宮(日光市)

ご存知、徳川家康を祀った神社である。
一応、ここでは家康さんは神様になっている。
もともと、日光は頼朝が創設したという輪王寺があって、戦国時代には、強大な勢力を持っていた。

しかし、小田原北条氏と手を組み宇都宮氏を挟撃したため、北条氏滅亡後は冷遇され、寂れていたという。
そこに家康が目を付けたかどうか、分からないが自分の死後ここに祀ることを遺言したという。
なぜ、この地を選んだかは良く分からないが、多分に易学によるものらしい。
建物は家光の代に整備が完了したという。

建物の配置当は陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北極星が来るように造られているという。
眠り猫とか見ざる聞かざる言わざるとかの三猿、陽明門等で知られるが、いずれも権力の強大さをアピールする臭いがプンプン、建物の華麗さは、当時の流行であるが、あまりにケバケバしくて、どうも好きになれない。

右は国重文の五重塔。慶安3年(1648)小浜藩主酒井忠勝が奉納。文化12年火災にあい、文政元年(1818)に同藩主酒井忠進が再建。
東照宮のシンボルはこの陽明門だろう。当然国宝 国重文の上神庫。
例祭等に使用する道具が収められている。
東照宮の参道

日光二荒山神社
日光と言えば、東照宮であるが、東照宮はこの二荒山神社の境内に造られているのである。
その理由はこの場所が「パワースポット」だからという。

したがって、日光東照宮の影に隠れている感じであるが、こちらの方が歴史は古いのである。奈良時代の創建とされているが、多分それは違うであろう。
日光三山を神と崇める古代宗教が基であり、出雲大社や諏訪大社と似たようなルーツを持つと思われる。
おそらくは縄文時代まで遡るのではないかと推定される。神社の格式としては式内社(名神大社)論社、下野国一宮。
旧社格は国幣中社であり、地位も高い。

「二荒山(ふたらさん)神社」が正式名称であるが、同名の神社が宇都宮にもあり、双方とも下野国一宮を名乗っているため、区別するため「日光」を前に付けて呼ぶことが多い。
日光連山の主峰日光三山(男体山:古名を「二荒山(ふたらさん)」)、女峯山、太郎山)を神体山として祀り、東照宮に隣接した本社のほか、別宮本宮神社、別宮滝尾神社、中宮祠(中禅寺湖畔)、奥宮(男体山山頂)がある。日光三山には二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っている。
三山のほか日光連山を境内地とし、面積は3400haに及び「華厳滝」や「いろは坂」も神域に含まれる。

「二荒山」の名の由来には諸説がある。
「補陀洛山」説 観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛ったもので後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたとする説がある。
しかし、空海の来訪は伝承の域を出ないという。男体山、女峰山2神の二神二現説、暴風雨説、アイヌ語の「熊笹 = フトラ」説がある。男体山山頂遺跡の出土品から、鎌倉時代初期には「二荒」と「日光」が併用されていたことがわかっている。

二荒山神社は修験道の霊場であり、始まりは、下野国の僧勝道上人(735年-817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に766年(天平神護2年)に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされ、二荒山神社の創建は、上人が767年(神護景雲元年)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされる。
この祠は神橋の北側に位置する現在の別宮となっている本宮神社にあたる。

上人は782年(延暦元年)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築き、以後、神仏習合の霊場として栄えることとなったと伝えられる。
しかし、古代の祭祀遺跡が発見されており、先に書いたようにそれより遥か昔から聖地であり、信仰対象であったのは間違いない。
伝承は後付けに過ぎなく、修験場を整備したことを指していると考えた方が良いのであろう。
第6感に優れた古代人にはここが「パワースポット」であることが分っており、それであるから徳川家がこの地に東照宮を建てたのであろう。

なお、空海が訪れ女峰山の神を祀る滝尾神社を建てた、また、円仁が現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたという伝承があり、この時に日光は天台宗となったというが、2人の来訪は伝説の域は出ていない。
神社のはずだが仏教が登場してくる。寺社混合は江戸時代からかと思ったが、それ以前から混合状態である。
この辺はおおらかというか、テキトーな日本独自の宗教観である。

鎌倉時代初期には山岳信仰が盛んとなり、僧兵等軍事力も持つようになっていたらしい。
戦国時代は「日光山」として強大な軍事力を有し、守護の宇都宮氏も手を出せなくなる。
さらに北条氏が軍事同盟を結び、宇都宮氏を挟撃する行動に出る。

しかし、北条氏に加担したことにより、北条氏滅亡後、豊臣秀吉に領地を没収され、衰退した。
江戸時代になると、徳川氏は日光に着目し、東照宮等が造営されると二荒山神社も再度、重要視し元和5年(1619)に徳川秀忠によって本殿が再建され、現在、神橋や八棟造の本殿や入母屋造の拝殿を始めとして11棟が国の重要文化財に指定されている。
境内にある国重文の正応5年(1292)銘がある銅灯籠は、「化灯籠」と通称される。
火を灯すと怪しげな姿に化けたといわれ、武士が刀で斬りつけた傷が無数に残されている。(Wikipedia等を参考にした。)

その二荒山神社、今の境内は平和そのもの世界である。
開運、招福、縁結びの神として多くの参拝者が訪れ、日光の寺社が世界遺産に登録されたことにより、さらに参拝客が増加している。客の半分は外国人(中国人等のアジア系と欧米人、半々くらいか?)さすが、マナーには定評のある大陸人もゴミは捨てていない。(台湾人か?)


中禅寺湖(日光市)
日光国立公園の中心地の1つ。2万年前に男体山の噴火でできた堰止湖で標高1269mの地にあり、人造湖以外の大きな湖としては、日本一標高の高い場所にある湖である。
水深は163m、周囲は25km。谷を溶岩が塞いで、谷に水が溜まったものである。
その堰き止めたところにあるのが華厳の滝である。
すぐ北には男体山がそびえ、北西には戦場ヶ原が広がる。
昔は秘境の地であり、男体山で修行する僧程度しか訪れることはなかったが、明治以降、人が訪れるようになり、ニジマスなど放流と養殖が開始され、日本有数の釣り場となった。
明治中期から昭和初期にかけては、湖畔に各国の大使館別荘が建設され、各国の外交官たちが避暑に訪れるリゾート地となる。
戦後は「いろは坂」が整備され、さらに自家用車の普及で一気に大衆化し、日光東照宮観光とあいまって春の新緑や秋の紅葉などの季節はメジャーな観光地となる。
湖の周囲にはホテルなどが並び、湖上には遊覧船が運航する。




華厳滝

那智滝、袋田滝とともに日本の三大名瀑に上げられる滝。
高さ97mをほぼ一気に落下する豪快さが売り。
でも水量は中禅寺湖側にある水門の開閉で調整され、全く水を落さない時もあるので、この点が非常に人工的である。

滝の名前は涅槃滝、般若滝などと一緒に仏典の「釈迦五時教」が由来と言われる。

明治36年(1903)年5月、18歳の旧制一高生であった藤村操がミズナラの木に「巌頭之感」を書き残して投身自殺をして以来、自殺の名所にもなってしまったという暗い過去もあるが、今は滝の上には行けないようになっている。

堅い岩盤をくり抜いたエレベーターがあり、これは昭和5年(1930)に営業を開始したものという。
イワツバメの巣が滝周辺にあり初夏に飛び回る。

冬場は水量も少なく、十二滝と呼ばれる細い小滝が凍結するという。
さすが名漠であり、脇には大駐車場や売店が並び、大勢の観光客が訪れ、滝見台は人ばかり。

その間も猿が我が物顔に歩きまわり、店の商品や観光客の持つ食べ物をかっぱらう。
 




龍王峡(日光市)

鬼怒川上流の鬼怒川温泉と川治温泉間にある鬼怒川が今から2200万年前の海底火山の活動によって噴出した火山岩を侵食するようことで形成された渓谷で3kmほどにわたる。
鬼怒川温泉に宿泊すると立ち寄るのは、ここか、東部ワールドスクエアー、日光江戸村、鬼怒川ライン下りが定番である。
ここは、岩盤が垂直に露出し、その間を川が竜が暴れ回ったように流れるため龍王峡と名付けられ、奇岩や瀑布が連続する。
岩の種類と色によって紫竜峡、青竜峡、白竜峡と呼び名が分かれる。
下流側の流紋岩主体の白竜峡は瀑布が多く、虹見の滝、竪琴の滝、白竜ヶ淵、岩ノ原、大観石、五光岩、兎跳などの名所がある。
凝灰岩主体の青竜峡には材木岩、獅子岩、白岩があり、紫竜峡は安山岩が主体。

虹見の滝 鬼怒川の渓谷にかかる虹見橋 野沢、この下流が虹見の滝である。

竜化(りゅうか)の滝(那須塩原市)

塩原温泉郷の中を流れる箒川の渓谷沿い、その支流寒沢にある滝で、塩原十名瀑の一つ。
長さは塩原十名瀑の中で最長の130m、高度差約60m、幅は約5m。
三段になり流れ落ち、塩原にある滝の中では一番見事な滝である。

なお、名前は滝の流れが竜が天を目掛けて登っていく姿に見えることから、この名がつけられたという。
滝に行くには国道400号沿いに駐車場があり、そこから遊歩道が延びる。
しかし、この遊歩道、一度、山を登り、再び、国道400号に降り、さらに寒沢の渓谷沿いに400mほど歩くという面倒くさいルートを取る。
一度、国道400号に降りるのは、国道が狭く、歩行が危険だからであるが、何となく腑に落ちない。(帰りは国道を強行突破)。
所用時間片道15分程度。

遊歩道の途中には抛雪(ほうせつ)の滝、風挙(ふうきょ)の滝がある。
これらも結構なものであるが、竜化の滝の前座に過ぎない。
最奥の竜化の滝、見学場所はコンクリートで覆われているシェルターである。
落石が多いためという。滝の幅が狭いだけあり、見学場所も限られる。
そこに大勢のカメラマンがひしめく。
撮影ポジションが限られるため、撮影が大変である。
周囲は水しぶきが凄まじい。

写真に撮ると、迫力が出ないが、実物は大迫力、素晴らしいものである。
周辺のひん岩脈の岩盤には柱状節理が発達しており、「材木岩」とよばれ、那須塩原市の天然記念物に指定されている。
風挙の滝 材木岩と言われる柱状節理

日塩もみじラインの紅葉
日塩もみじラインは鬼怒川温泉から標高1795mの高原山の西側の山麓を通り、塩原温泉までを結ぶ全長28qの有料道路。
標高は高い場所では1270m以上ある。

名前のごとく「もみじ」が見事な道路のはず・・で、そのシーズン,ど真ん中の2014年10月31日に行った。
確かに紅葉していた。
でもこの道路の最高標高地点はすでに散り始めており、ピークは標高1000m付近であった。

青空ならもっときれいに観れるのだが、低気圧の接近で薄曇り、ちょっと映えない。

峠の茶屋(標高1100m)から大下沢越に見た南西の霧降高原方向、左が日光男体山(2486m)

塩原渓谷の秋(栃木県那須塩原市)
栃木県那須塩原市の塩原温泉は那珂川の支流、箒川の渓谷上流の谷間に沸いた温泉。
それなりに名が知られた温泉であり、温泉街は温泉情緒がたっぷり。

その塩原温泉のある谷を流れる箒川は平野部に出るまでの間、見事な渓谷を作り遊歩道が整備されてる。
平野部に出るまでの間に多くのつり橋や竜化の滝などの滝が連続する。
この渓谷沿いにもいくつかの温泉がある。多分、河原を掘ったら温泉が出るかもしれない。
この渓谷の川辺に下りてみる。紅葉が始まっていた。
晴れ間が広がり日光が射すと対岸の紅葉がきれいな色が出て映える。
(2014年10月31日撮影)


もみじ谷大吊橋(栃木県那須塩原市)
栃木県那須塩原市の塩原温泉のある塩原渓谷の出口、箒川をせき止めた塩原ダム湖がある。
箒川のより確実な洪水調節の必要に迫られていた栃木県が箒川・那珂川の洪水調節を目的に1969年(昭和44年)補助治水ダムを箒川に計画し、1978年(昭和53年)に完成させたのがこの塩原ダム。
ダムの型式は重力式コンクリートダム、高さは60.0mで洪水調節、不特定利水、塩原・那須台地の農地への灌漑を目的としている。
そのダム湖に架かる吊り橋が「もみじ谷大吊橋」。

「無補剛桁歩道吊橋」としては本州一長い全長320mの大吊橋。完成は1999年(平成11年)。
なお、無補剛桁歩道吊橋とは、通常の橋が吊橋に架かる荷重を支えるための補剛桁などが設けてあるのに対し、補剛桁ではなく、ワイヤーロープを横に張ることにより吊橋の強度を高める構造になっている吊橋のことをいう。
この橋は車用ではなく、観光目的の歩行者用の吊橋である。

完成年には110万人の観光客が訪れたが、少しづつ減るが、今でも年間50万人は訪れる。
周辺はクマタカの繁殖地という。
・・って、観光パンフに書いてあった。
ちょっと、寄ってみた。

駐車場は広いし、道の駅風の売店やトイレがあり、トイレ休憩場としては良い。
風景もまずまず。紅葉シーズン、新緑シーズンなら綺麗な風景が楽しめそうである。
肝心の吊橋・・んん・・どうなんだ?非常に中途半端な印象を受ける。
対岸に渡って戻って来るのだが、別に対岸には特段魅力的なものはない。
それにこの吊橋、人用ではあるが、揺れる。風がなくても結構揺れる。それほど人が歩いているわけでもないのだが。
何だか船に乗っている感じ、揺れで気持ち悪くなる人もいるだろう。
完成年の半分以下に観光客は減った・・と書いてあったけど、まあ、何となく納得できる。
色々、集客に努力しているのには敬意を表するが。


大谷資料館(宇都宮市)
宇都宮市の北西10qに多気山が聳える。その山一帯が多気山城である。
戦国末期、北条氏の侵攻をしのぐため佐竹氏の支援の元に築城された巨大山岳要塞である。
その多気山の南東の山麓がこの地の名産品、大谷石の産地である。

山麓の道路を走ると岡が削られ凝灰岩の崖がむき出しになっている光景が目に映る。

大谷石、関東ではお馴染みの建築材である。
窯の材料にも使うくらいであるので耐火性能は抜群。
少し古い時期に造られた蔵等の耐火建築物の多くがこの石を使っている。塀にも使われる。
白っぽくて高級感があり見栄えが良いのも使われる要因である。そして比較的軟らかく加工しやすいのも利用される要因の一つであるという。

しかし、3.11では大谷石を使った塀や古い時期に造られた蔵が大きな損傷を受けた。
我が家の近所でも大谷石を使った蔵が大きな被害を受けたが修理ができなくて困っていた。
倒壊した塀も多かった。おそらく石の重量だけで強度を持たせており、激しい横揺れを想定した縦方向に耐震固定用の鉄筋があまり入っていなかったことも倒壊、損壊の要因だったようである。

最近では計量で耐火性が優れたALC等の建築資材が出回り、わざわざ、大谷石で蔵を造ることは少なく、重厚な無垢の大谷石を組み上げて昔ながらの方法で建てた蔵を修理できる職人が不足していることもあるからだという。
今でも見栄えの良い大谷石で建物を造る例もあるが、あくまで外見の見栄えだけの大谷石であり、ALCに薄くスライスした大谷石の板を貼り付けた「なんちゃって大谷石」が多いそうである。

それらは軽量でもあり、耐震性もあるので損傷は少なかったという。
また、だいたいの場合において蔵は地震保険の対象ではなく、修理費が自己負担になってしまうことも直したくても直せない理由だったという。

その大谷石、軽石凝灰岩の一種であり、宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される地名を冠した石材のブランド名である。
流紋岩質の軽石凝灰岩で、緑色に変質し、層中にしばしば流紋岩礫や炭化木が含まれ、ミソと呼ばれる粘土化した軽石が層状に配列し、全体に発泡した軽石を多量に含んでいるのが特徴である。
この多孔質が断熱性に優れる要因である。
成分は珪酸・第二酸化鉄・酸化アルミニウム・酸化マンガン・石灰・酸化マグネシウム・カリウム・ナトリウムなど。

まだここが海底だった新生代第三紀の前半(約2500〜1100万年前)、火山が噴火して噴出した火山灰や砂礫が海水中に沈殿して、それが凝固してできたものとされている。
当時この付近は湾であり、鹿沼丘陵、半蔵山、宇都宮北方の笠松山―宮山田で火山活動があり、大規模な火砕流が湾に流れ込み、湾を埋めたことでできたものという。
この付近の大谷石の分布は、東西8km、南北37kmにわたり、地下200〜300mの深さまであることが確認されており、埋蔵量は10億トンと推定されている。
とてつもない大火砕流だったことが分る。
古から利用されており、古墳の石室や古代寺院の礎石に使われていた。

始めは露頭から切り出したが、江戸時代から地下での採石が始まり、その跡地が壮大な地下空間として残された。上の写真は露天採石の跡である。

当初はツルハシを使って切り出し、人力で運び出したというが、多分、多くの人災が起こったのだろう。
その後、機械化され安全性は高くなったという。
この関係の資料は「大谷資料館」に詳細に展示されている。下の写真は地下空間に展示されている人形である。

昭和30年代が最盛期であり、生産量は年間80万トンを越えたという。
採石を行うと跡地が空洞として残るが、その利用は昔から課題であったようであり、戦時中は地下軍需工場となり「疾風」の工場として使われた。
また、地下空間は1年中温度が低く安定しているため、日本酒、ワイン、ハム、米等の食糧貯蔵庫として、熟成等に利用されている。
しかし何と言っても、産業遺跡として「大谷資料館」として公開され、人気を集めている。

もはや観光地であり、石以上の利益をもたらしているのかもしれない。特に地下宮殿を思わせる空間はコンサート会場、映画やCMのロケに使われ、有名ロケ地になっている。
その一方でこの地特有の災害である「陥没」事故が時々起きている。これも怖いことである。
(Wikipedia、大谷石産業のHPを参照)

その「大谷資料館」に行った。(2016.11.14)さすが観光地、平日なのに客が多い。
多くは団体さんであるが、中国人(けっこう、大人しい感じであったので、大陸ではなく台湾か?)まで来ている。

地下空間は確かに非日常的な場所である。
ギリシャ、ローマ、エジプトあたりの古代遺跡を思わせる。
ここなら特徴的な映像や写真が間違いなく撮れるだろう。映画やCMに使うことは理解できる。
しかし、内部が広くて写真を撮っても、市販のカメラについているフラッシュ機能では光が届かない。
写真を見てガッカリしてしまう。
ここはプロが撮った写真か、高性能のカメラでないと良い写真は無理だ。
しかし、けっこう寒い。気温は10℃を指していた。酒、ハム、米の貯蔵や熟成には最適な環境だろうが、映画の撮影やコンサートは寒さ対策が必要であり大変だろう。
冬場は外部と気温差はそれほどなく問題はないが、夏場は温度差で体調を崩すだろう。