奈良紀行

東大寺(奈良県奈良市雑司町
日本で一番有名な寺の1つだろう。奈良時代に全国に造られた国分寺の総本山である。
宗派は華厳宗でその大本山ということになっている。
この宗派、あまり聞いたことがないが、平安時代以降、密教や禅宗などが派生する以前の大陸から伝来したオリジナルに近い宗派なのだろう。
正式名称は「金光明四天王護国之寺」
寺の歴史は、日本の古代史の1ページそのもの。
境内、国宝、重文のオンパレード。
何しろ国宝の建物8棟、国宝の仏像や工芸品22点もある。
重文は数知れず。ため息が出る。

聖武天皇が建立し、大仏(盧舎那仏)がここのシンボルである。
この大仏がまた、寺の本尊である。
この大仏と大仏殿が最大の見所であるが、それはこの寺のごく1部。

境内には南大門、二月堂、三月堂、正倉院等、国宝級の建築物が林立。
それらを見歩くだけでも膨大な時間を要する。
それでも、高さ100mはあったという東西2つの七重塔や講堂などは失われているそうである。
しかも、本来の大仏殿は戦国時代に焼失し、現在のものは、江戸時代の元禄年間の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されているというのでオリジナルはさらに大きかったことになる。
今のものでも世界最大の木造建築である。
その迫力は真近で見上げると凄いものである。オリジナルはもっと凄かったのであろう。
そんな昔にこれだけのものが造れる技術があったこと自体凄いものである。

寺は奈良時代、聖武天皇が建立ということになっているが、正確には元となった寺院が存在し、その寺院を拡張したものらしい。
その寺院は大仏殿の東方、若草山麓にあり、『東大寺要録』によれば、天平5年(733)、若草山麓に創建された金鐘寺が前身という。
この寺は神亀5年(728)、聖武天皇と光明皇后との間に生まれ、夭折した皇子の菩提供養のため建立したものという。
この寺こそが三月堂(法華堂)らしい。

天平13年(741)国分寺建立の詔が発せられ、天平19年(747)から大仏鋳造が始まる。
この頃から「東大寺」の名前が使われ始めたらしい。
大仏建立は当時、反体制派であった行基をメインに据え開始されたが、彼の抜擢は大事業推進に対する民衆の支持を得るのが目的だったらしい。
苦難の末、天平勝宝4年(752)大仏が完成、さらに大仏殿がの天平宝字2年(758)に竣工。
しかし、大仏建立は国家財政破綻を招き、国民が貧困にあえぐこととなり、浮浪者や餓死者の発生、税制が崩壊寸前となり律令政治崩壊の危機となる。
それに伴い天平勝宝8歳(756)7月、橘奈良麻呂の乱が発生する。

一方、東大寺の伽藍整備は進められ、南大門、中門、講堂、僧房、食堂、東西2基の七重塔が建てられる。
平安時代に入ると、天智系の桓武天皇が天武系であった南都の仏教を嫌い、抑圧策が行われ迫害される。
この間、講堂、僧房、西塔が失火や落雷で焼失、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊するということが起こるが、多くの貴族の崇拝があり、荘園寄進などで豊かになり、僧兵を抱えるまでになる。
しかし、治承4年12月28日(1181年1月15日)平重衡による南都焼討で、大仏殿をはじめとする多く建物が失われる。

大仏殿入口の中門 お馴染みの大仏殿、でかいものである。
写真じゃ、全然実感がない。
これもお馴染み大仏さん 大仏殿の広目天像 大仏殿の多聞天像

大仏も台座や下半身の一部を残して焼け落ちた。
その後、復興され文治元年(1185)には大仏が再建され、建久元年(1190)には、大仏殿が再建される。
その後、戦国時代、2度目の苦難に会う。
永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好党と松永秀久の戦いで、大仏殿等、多くの建物が焼失。
仮堂も慶長15年(1610)の暴風で倒壊、大仏は宝永6年(1709)まで露座状態であった。
この3代目の大仏殿が今のものである。
なお、大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代に造られたものある。
今の大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。高さ46.8m、間口57m、奥行50.5mで、東西の幅のみ創建時の約3分の2に縮小されている。
建築様式は、南大門と同じ宋の建築様式「大仏様」を基本としている。
大仏の左右に江戸時代に造られた重文木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像が置かれ、堂内北西と北東の隅に四天王のうちの広目天像と多聞天像がある。
なお、四天王のうち残りの持国天、増長天は未完成で、頭部のみが大仏殿内に置かれている。
もちろん、大仏、大仏殿とも国宝である。


参道を大仏殿に向かうと南大門がある。
もちろん国宝である。
今の門は鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。

中国宋から伝えた建築様式といわれる大仏様を採用して建て
られたという。

吽形金剛力士立像 阿形金剛力士立像

この様式の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどという。
柱にいくつか小さな窪みがあるが、永禄10年(1567)の三好党と松永秀久の戦いの鉄砲銃弾によるものという


門の左右には国宝金剛力士立像が立つ。
高さ8.4m。右が吽形、左が阿形である。
解体修理時、像内からは納入品や墨書が発見され、阿形像は運慶、快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は定覚、湛慶が小仏師12人と造ったことが分かった。
従来は「阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって造った」とされていたが、異なっている。
しかし、運慶が制作現場全体の総指揮であったのは間違いないらしい。
さらに重文の石造獅子1対が置かれる。
「大華厳寺」と書かれた扁額は2006年に新調されたものである。

南大門を抜けると重要文化財の中門がある。
入母屋造の楼門で享保元年(1716)頃に再建されたもの。
中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、大仏殿の左右に至る。

この他、本坊、指図堂、勧進所、戒壇院など膨大な建物があるが、素晴らしいものが三月堂(法華堂)である。
もちろん国宝である。中に16体の仏像が安置されるが、うち12体が国宝、残りが重文という。
この建物と中の仏像だけで数県分の国宝と同じ数である。

この建物は東大寺に残る数少ない奈良時代建築の1つ。
創建当時は羂索堂と呼ばれ、東大寺の前身金鐘寺の堂として天平12年(740)から同20年(748)頃に建てられたものであり、礼堂部分が鎌倉時代、正治元年(1199)頃増設したもの。
堂内の仏像のうち14体が奈良時代のものであり、いづれも圧倒的な威厳と迫力がある。
うち9体が当初からの安置されていたものであり、日光・月光菩薩、吉祥天・弁才天の4体は後世、ここに移された像という。
この中では日光・月光菩薩立像が最高に素晴らしい。天平彫刻の代表作。
しかし、名前は後世に付けられたものであり、来歴も分からないという。

三月堂の北、一段と高い場所にあるのが、「お水取り」で有名な二月堂である。
ここも国宝である。旧暦2月にこの行事(修二会ともいう)が行われるのでこの名があるそうである。
この建物、平重衡の南都攻撃、三好と松永の戦いでも無事だったが、肝心の「お水取り」行事の最中、寛文7年(1667年)失火で焼失し、2年後に再建されたのが今の建物である。
本尊の大観音、小観音2体の十一面観音像は秘仏で非公開という。
建物は2005年12月、国宝に指定された。

鐘楼(国宝)は大仏殿の南東側にある。鎌倉時代に建てられた。
吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼時と同年の天平勝宝4年(752年)の作で、高さ3.85m、口径2.71mという中世以前の梵鐘としては最大のものという。(Wikipedia等を参考に記述)

鐘堂 三月堂、東大寺の前身金鐘寺の堂として天平12年(740)から
同20年(748)頃に建てられたものという。
「お水取り」で有名な二月堂、寛文9年(1669年)の再建。

奈良国立博物館本館

赤坂離宮(迎賓館)などを手がけた宮廷建築家片山東熊が設計し、明治27年(1894)に竣工。翌年、帝国奈良博物館として開館し、昭和27年(1952)現在の名称になった。
明治期の洋風建築の代表例として国の重要文化財に指定。
内部は仏像が展示され、そのほとんどが重文級、一部、何体か国宝の像がある。
仏像の展示場所としてはふさわしい重厚な雰囲気がある。
さすが、光による仏像の劣化を考慮して展示室内は薄暗い。
さすがに展示物が展示物だけに、内部には係員というか監視員が大勢いる。
でも、こんな物音1つしない場所で、ただ、客の監視しているのは辛いだろうなあ。
俺なら間違いなく船漕いじゃうだろうなあ。

興福寺(奈良市登大路町)
この寺というと直ぐ連想するのが、阿修羅像である。もちろん国宝である。
正式には8体からなる乾漆八部衆立像の1つで、奈良時代の作。
この8体は西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像で、五部浄、沙羯羅、鳩槃荼、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅からなる。
やはり中でも三面六臂(手が6本)のこの阿修羅像が一番有名である。
この寺も国宝のオンパレード、建物4棟が国宝であるが、仏像類が22組が国宝指定である。阿修羅像も8体一括で1組扱いである。
体数にしたら50体くらいになるだろうか。

この寺、多くの災難に遭遇しているが、よくこれだけの仏像が無事だったものである。
寺は南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院で南都七大寺の一つ。
僧兵で有名であり、そのため、平安時代末期平重衡による南都焼討を受けている。
鎌倉・室町時代には、幕府も大和国には守護が置くことができなかったくらいという。藤原氏の私寺であり、藤原鎌足の妻、鏡大王が夫の病気平癒を願い、669年現在の京都市山科区に創建した山階寺が起源。
壬申の乱後、672年藤原京に移し、厩坂寺に、さらに和銅3年(710)の平城遷都で鎌足の子、不比等が現在地に移転させたのが、この興福寺である。
中金堂が平城京移転時の建造という。その後、藤原氏の私寺であるにも係らず、藤原氏の勢力拡大に伴い、国家予算で整備が進められた。
いわば、国家予算の私的流用、横領である。
そのため、平安時代には七大寺の一つに数えられ、大和国一国の荘園のほとんどを領し、実質的な国主となり、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と言われる強大なものであった。
そのため、時の権力と対立し、治承4年(1180)、平重衡の南都焼討で東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。

後に復興し、鎌倉、室町時代も僧兵を擁し強大な力を持ち、大和国に守護を置けなかった。
しかし、安土桃山時代に豊臣氏に屈し、文禄4年(1595)の検地で領地は2万1000余石とされた。
江戸時代享保2年(1717)再度火災に見舞われ、西金堂、講堂、南大門が焼けるが再建されず、明治維新の神仏分離令でさらに打撃をこうむり、子院は廃止、寺領は没収され、境内の塀が取り払われてしまう。
今は奈良公園の一部状態となっているが、そのきっかけがこの時であった。
一時は五重塔が売りに出され、廃寺状態であったという。
明治14年(1881)、ようやく興福寺の再興が始まり、建物の修理・整備が行われ、今日の姿となる。
写真は東金堂と五重塔、国宝の東金堂は3代目、応永22年(1415)再建の室町建築で、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。
室町時代の銅造薬師三尊像(重文)、奈良時代の日光・月光菩薩像、国宝の鎌倉時代建久7年(1196)、定慶作の木造維摩居士坐像。
国宝の定慶作木造文殊菩薩坐像。国宝の平安時代前期の木造四天王立像、国宝の鎌倉時代、建永2年(1207)頃の木造十二神将立像が安置される。
国宝の五重塔は応永33年(1426)頃の再建で、高さ50.8m、東寺の五重塔に次ぎ、日本で2番目に高い塔である。

平城宮

平城京北端の平城京の中心地区で、天皇の住居、内裏と儀式の場、朝堂院、政庁である官衙の所謂外朝から構成され、約120haの面積があり、周囲を高さ5mほどの塀で囲んでいたという。
門は12あり、正門が南正面の朱雀門。
内部には多数の建物があったが、唐招提寺の講堂(国宝)が平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築した物という。
切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、これが、平城宮唯一の建築遺構として貴重なものだそうである。
平安京遷都後は荒廃し、農地となっていった。
明治になり、建築史家の関野貞が田圃の中にある小高い芝地が大極殿の基壇である事を発見、これをきっかけに保存運動が起こり、大正11年(1922)に国の史跡に指定された。
しかし、近鉄奈良線(いずれ、地下を走ることになるらしい。)が真ん中を貫通し、一部は民家や工場敷地となっている。

平成に入り、遺跡の整備、建造物の復元が進められ、1998年に朱雀門、2010年に第一次大極殿が復元された。
平城宮の南門は正門にあたり、朝廷の有力氏族、大伴氏の姓が付けられ「大伴門」と呼ばれていた。
和銅7年(714)これを漢風に改め、四神において南方を守護するとされる朱雀の名を取り「朱雀門」と名付けた。
平城宮の朱雀門は1997年、考古学的研究と奈良県下の寺社に残る門を参考にして、復元したものである。
様式、外観は当時のものであるが、現在建築であるため、現在の建築基準法も満足するよう細かい部分で現代工法も取り入れ、耐震性も考慮しているとのことである。
(Wikipedia等を参考に記述)

唐招提寺(奈良市五条町)
鑑真和上そして井上靖の小説『天平の甍』で有名な寺。
ここには12点もの国宝があり、それだけでも圧倒される。境内も歴史の重みを感じる素晴らしい雰囲気である。
宗派は南都六宗の一つである律宗であり、その総本山である。
『続日本紀』等によれば、元々ここには天武天皇第7皇子新田部親王の邸宅があり、天平宝字3年(759年)、その跡地を鑑真が譲り受け、寺としたものという。
なお、現在、境内にある経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと言われる。
鑑真については、『天平の甍』などで苦難の末、日本に渡った唐の高僧として有名である。
彼は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。
753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、すでに66歳であった。
5年間を東大寺唐禅院に住み、天平宝字3年(759)唐招提寺を建立、大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られ、天平宝字7年(763)76歳で亡くなった。
尊敬を集めた高僧であり、伽藍の整備は貴族の寄進などで整備された。
このうち、 講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものといわれる。

金堂は鑑真の没後、奈良時代末の建立という。寺は平安時代末期から鎌倉時代前半に衰退したがその後、復興された。

金堂はもちろん国宝。
奈良時代の建立。2000年から9年の歳月をかけ大々的に「平成の大修理」)が行われた。堂正面の8本の太い円柱が並ぶのがこの建物の見所。
建物は文永7年(1270)、元亨3年(1323)、元禄6、7年 (1693 - 1694)明治31、32年(1898 - 1899)に修理されている。
平成の大修理では、建築当初の木材が9割近くを占め、年代測定で781年伐採されたヒノキ材の使用が確認され、建立が同年以降ということが確定した。
仏像は中央に本尊の廬舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置し、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する。
これら全ての仏像が国宝というから恐れ入る。
本尊の乾漆の廬舎那仏坐像 は高さ304.5p。
奈良時代末期、8世紀後半の作。木心乾漆の薬師如来立像 は高336.5p。平安時代初期のもの。木心乾漆の千手観音立像 は高さ 535.7p。奈良時代末期の作で、大手42本の間に小手があり、小手は911本、計953本、制作当初は1000本あったらしい。

木造の梵天と帝釈天立像は、高さがはそれぞれ186.2p、188.2p。奈良時代末期 - 平安時代初期の作。
木造の四天王立像 は像高は185.0〜188.5pで奈良時代末期 - 平安時代初期の作。

講堂ももちろん国宝。
平城宮の東朝集殿を移築・改造したものという。
唯一、現存の平城京の建物である。

天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築された。
元々の東朝集殿は、壁や建具が少ない建物で、屋根は切妻造であった。
後、屋根を入母屋造とし、建具を入れる改造がされている。

本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)が安置される。
金堂・講堂の東側に建つ鼓楼も国宝。
それほど大きくはなく、2階建ての楼造。入母屋造、本瓦葺きで、鎌倉時代仁治元年(1240)の建築。

名前からして太鼓が置かれると思うがそうではなく、西側の対称的位置に建つ鐘楼に対し「鼓楼」と称しただけであり、太鼓はなく、鑑真が唐から持ってきた仏舎利を安置する。
そのため舎利殿ともいう。

5月19日の梵網会(通称「うちわまき」)では、この建物の楼上から縁起物のうちわが撒かれる。
経蔵、宝蔵(ともに国宝) 礼堂の東側に並んで建つ。
正倉院と同様、奈良時代の校倉造の倉庫。
北側にある経蔵がやや大きく、唐招提寺創建以前、
ここにあった新田部親王邸の倉を改造したものという。
南側の宝蔵は寺になってから建てられたものと言われている。
鼓楼の東にある南北に細長い建物が礼堂(重文)。
僧房を弘安6年(1283)に改築したもの。
鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂として
礼堂と呼ばれる。
清凉寺式釈迦如来立像(重文)と日供舎利塔(重文)を安置する。

(Wikipedia等を参考に記述)

薬師寺(奈良市西ノ京町)
薬師如来と東塔で有名な寺院であるが、修学旅行の思い出の地でもある。
この寺の印象は東塔だけが焼きついているが、もう1つ、説明してくれたのがあの高田 好胤さんだった。
まさかここで漫談を聴くとは思わなかった。
話の内容はさっぱりクリアされているが、大笑いしたことは鮮明に記憶している。

興福寺とともに法相宗の大本山で、南都七大寺のひとつ。
天武天皇が、皇后(後の持統天皇)鵜野讃良のの病気平癒を祈願して発願、680年藤原京に建てられたが、一応の完成は698年ころだったらしい。
そして、平城遷都後、養老2年(718年)現在地に移転した。
(飛鳥の薬師寺(本薬師寺)のほぼコピーと言ってよい伽藍の配置であったという。本薬師寺も10世紀頃までは存続していたらしい。)

今残る東塔は、『扶桑略記』によると天平2年(730)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、そのころの完成という。
(移築説と新築説があるが、後者が有力らしい。)
しかし、その後、多くの災難に会い、多くの建物を失う。
天禄4年(973)には火災が生じ、享禄元年(1528)には筒井順興により多くの建物を失う。
これにより、現在、奈良時代の建物は東塔のみとなった。
本尊の薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては長い間論争が行われている。

寺の外観上のシンボルが左の写真の東塔、もちろん国宝である。
寺創建当時の唯一の建物。高さは34.1m。外観上は屋根の出が6か所にあり、六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階であり、三重の塔ということになっているが、あまり類例のない個性的なデザインである。


右の写真の西塔は、旧塔は享禄元年(1528)に戦災で焼失し、現在ある塔は1981年に当時の工法で再建されたもの。
東塔は連子窓であったが修復で白壁にされたため、西塔は創建当時の連子窓式で復元している。

金堂(左)・西塔などは高田 好胤氏を中心とする努力で、昭和50年ころから再建 されたものであり、それ以前は江戸時代後期に仮再建された金堂、講堂が建っていた。

入母屋造だった旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築され、寄棟造に改造され前部の庇が取り払われるなど、外観を大きく変えて現存している。


玄奘三蔵院(右)は、主要伽藍地区の北側にあり、平成3年(1991)に建てられたもので玄奘三蔵を祀る。
北側の回廊に日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2m、長さが49mの「大唐西域壁画」が置かれている。

なお、有名な薬師三尊像は、金堂に安置されている国宝、薬師三尊像は奈良時代(7 - 8世紀)の作であるが、製作時期等は諸説あり特定できない。
真ん中に薬師如来、左に日光菩薩、右に月光菩薩を配している。
巨大な仏像であり、薬師如来は高さ254.7p、日光菩薩は317.3p、月光菩薩315.3p。
中国・六朝や唐の影響を受けつつ、独自の古典様式を完成した奈良時代の作品のなかでも最高傑作の1つとして古来名高いものと言われる。
(Wikipedia等を参考に記述)