中通り紀行

福島県の中通りと言えば東北本線沿線、阿武隈川が流れる地域をいいます。

盆地ですので夏は蒸し暑くて・・
穀倉地帯であり、くだものも採れます。
とくに福島市付近は「もも」の大産地。
管理人の故郷、信州川中島とはライバルの地です。

盆地の周囲も磐梯朝日国立公園とか、素晴らしい光景の場所が沢山。

一部はHPの城の解説におまけで掲載しているものもありますが、掲載できなかった名所なども沢山あります。それらをまとめてみました。

三春の滝桜(三春町滝)
福島県三春町にある多分、日本国内でもっとも有名な桜の1つで、桜では東日本の横綱と言っても過言ではないだろう。
桜の花の時期以外の時期に横を通ったことがあるが、花のシーズンは観光客が押し寄せ周囲は大渋滞となる。
写真は残念ながら花のピークは過ぎ、花は散りぎみの状態。でも、この威厳、貫禄、これはただものではない。
何しろ、樹齢が1000年以上という。当然、この樹齢なら神は宿っても不思議ではない。オーラを感じる。
桜の種類は垂桜の1種、ベニシダレザクラ(紅枝垂桜)。
四方に広げた枝から薄紅の花が流れ落ちる滝のように咲き匂うことから、この名があるという。
天保の頃、加茂季鷹の詠歌によってその名を知られ、三春藩主の御用木として保護された。
樹高は12m、根回りは11m、幹周りは9.5m、枝張りは東西22m、南北18mという見事さ。1922年(大正11年)10月12日に国の天然記念物に指定された。
雪で枝が折れたという話もあったが、問題はなし。
東日本大震災、もちろん、それくらい「屁」でもない。
この先もずうっとその雄大な姿を見せて欲しいものである。


永泉寺の桜(田村市大越町栗出長根)
マニアの間では評判の城「栗出城」の西側、国道349号線を挟んで反対側にある。
三春滝桜の姉妹樹と言われ、永正2年(1507)に開山の永泉寺の境内にある、推定樹齢は400年、種類は滝桜と同じベニシダレザクラ。
福島県指定天然記念物。
三春滝桜に次ぐ大樹と言われている。
幹回りは4.1m、枝張り16m、高さ12m。

こちらは山田の山王桜


夏井千本桜(福島県小野町夏井)
磐越道をいわき三和ICから小野IC方面に走行すると、両IC間の夏井川に沿った谷間の平地にこの夏井千本桜が見えてくる。
シーズン中は川の両側に延々と桜の並木が続き見事な光景である。
しかしこの桜並木、意外と新しく 「わたしたちの郷土を美しい桜の里に、そしてこの桜のもとに郷土の和合を」との願いを込め、昭和50年ころ、夏井地区と南田原井地区の方々が、河川改修の際、夏井川の両岸5qにわたり、ソメイヨシノの苗木1000本を植樹したことに始まる。
その資金はま地元住民を始め、地元の事業所、地元出身者などからの寄付によるものという。
現在は、地元の自治会、商工会などが「夏井千本桜祭実行委員会」を組織し、手入れや保存をおこなっている。
この桜が有名になったのは磐越道が開通し、高速道路から見えることで知られるようになり、観光客が大勢訪れるようになった。
しかし、両ICから遠いのがちょっと不便である。この付近はけっこう寒く、見頃は4月下旬と遅い。



雪村庵(郡山市西田町)と謎の絵師、雪村
雪村(せっそん、永正元年(1504)? - 天正17年(1589)頃)は、室町時代後期・戦国時代の水墨画家であり、僧侶。
雪村周継とも称した。この号、雪舟を意識してつけたようだが、その画風が全く異なる。
活動の範囲が関東、東北地方に限定され、あくまでも地方の1絵師にすぎず全国的にはそれほどの知名度はなかったが、尾形光琳は雪村を好み、模写を幾つも試みていたという。
明治時代以降はほとんど忘れられていた存在であり、多くの作品が海外へ流出してしまった。
彼の再評価は1974年に東京国立博物館で展覧会が催されるなどしたことがきっかけ、これを契機に再評価され、様々な画集で紹介され日本美術史上での評価が確立したという。
まあ、こんな経歴なのであるが、その実態は謎に包まれている。
50歳を過ぎてから関東各地を放浪して小田原北条氏、会津の葦名氏、そして最晩年は三春の田村氏と交流し、作品を描いたという。
最後は三春で没したという。82歳までは絵を描いていたという。

その最後に住んだ地が三春の雪村庵。
その雪村庵、郡山市西田町字雪村にある。
字も雪村っていうのが凄い。

東以外を山に囲まれ、北風が防げる場所に庵があり、その場所自体、絵になる。
樹齢数百年のしだれ桜、雪村桜がある。
雪村は常陸国部垂(茨城県常陸大宮市)に佐竹氏の一族として生まれたといい、近くの下村田には雪村が筆を洗ったと伝えられる池がある。
幼くして佐竹氏の菩提寺正宗寺(http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/kikouHP/hitatioota_kikou2.htmに紹介しています。)に入って修行する。
ここには絵画をはじめとした多くの寺宝があり、これらの作品は雪村の画風にも影響を与えたという。
その雪村、号に「周」がつく、佐竹一族で「周」がつく者を捜すと、16代義舜の庶兄、周義とその子、周瞳、18代義昭の庶弟周辰などの名があり、彼らの中の1人か、その子ではないかとも推定される。
また、部垂城http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/satake0/koba.htmにいたということから、部垂の乱の主人公17代義篤の弟、義元の子ということもありえる。正宗寺の僧で絵師であったが、50過ぎて諸国を歩くが、これが謎の行為である。

管理人は雪村は佐竹氏が北条氏、葦名氏、田村氏の情報収集に送り込んだスパイではなかったのかと思う。
いずれの大名も佐竹氏とは敵対していたのも偶然の一致か?
当然、操っていたのは佐竹義重ではなかったか?または、外交官であった可能性もある。

阿武隈洞(福島県田村市滝根)
「阿武隈洞」鍾乳洞は福島県田村市にあり、合併して田村市になる前は滝根町と言い、磐越東線沿い、常磐高速沿いにある阿武隈山地の谷沿いに発展した町である。
この周辺は石灰岩の産地であり、この鍾乳洞はその石灰岩採掘場で昭和43年に発見されたという。

町には観光の目玉がなかったため、発見場所は採掘場から観光資源に変更、施設が整備され、昭和48年から公開、以後、この付近最大の観光地となっている。
鍾乳洞としては日本有数のものであり、ここが国内最高という評価もある。
全長は3000m以上あるが、このうち公開されている部分は600mほど。
だれでも見学できるように内部は階段、手すり、照明が付けられ、容易にこの神秘の世界に触れることができる。

この鍾乳洞はおよそ8,000万年という歳月をかけて、地表から浸透した雨水が少しずつ石灰岩を溶かし、長い時間をかけて鍾乳洞を創ったものであり、洞内は、天井から大きく下がる鍾乳石や床下からタケノコのように堆積してできる石筍(せきじゅん)など千変万化の神秘の世界が続く。
それらの造形美にはそれぞれ、竜宮殿、月の世界、樹氷、クリスマスツリー、石化の樹林などの名前が付けられている。
洞内で最大のホール「滝根御殿」は高さが30mほどあり、クリスタルカーテンやボックスワーク、シールド、洞穴サンゴなどの鍾乳石がある。
これらを上手にライトアップし、神秘さと美しさを強調している。
鐘乳石は70年で1p位の成長速度で、今もなお成長し続けているという。
洞内は気温が14℃で年間、一定で夏場は寒いくらい。
見事な鍾乳石は奥の方にしかないが、入口部のは公開前に盗まれてしまったのだという。
驚いたことに洞内に蛙がいた。多分、目は見えないとは思うが、いったい、何を食べているのか?
未公開部分には高さ90mに達する大空洞があるという。
この付近にはこのような鍾乳洞がまだ未発見状態で埋もれているらしい。

磐梯吾妻スカイラインに沿って(福島市)
福島市の西に聳える標高1600〜1700m級の吾妻連峰を磐梯吾妻スカイラインがぬう。
磐梯吾妻スカイラインは、高湯温泉と土湯峠を結ぶ、全長約29qの観光有料道路、料金1570円。結構高い。
昭和34年開通というからかなり歴史がある。
でも道路はかなり痛んでいる。通行料が高いのに・・。道はさすがに山岳道路だけあってクネクネ。
同じような風景が延々と続く。まず、第一の見所は不動沢橋。(下左の写真)
つばくろ谷に架かる橋で長さ170m。

平成12年に架け替えられたという。谷底までは84m。目が眩む。ここの標高は1200m。
ここからから見る福島市街(信夫の里というのだそうだ。)は絶景。(上右の写真)
市街からの比高は1100m、これは凄い。信夫山、東北道、東北新幹線、阿武隈川、霊山の展望がばっちり。
紅葉のころが素晴らしいそうだ。谷底を覗き込むと、足の裏がムズムズ。怖い。
よくこんな橋を架けたもんだ。この橋を架けたので、有料道路の料金が安くならんのだと、麓の福島市から孫を連れてきたというじいさんが言っていた。

吾妻小富士

磐梯吾妻スカイラインをさらに進むと、最大の見所の1つ、吾妻小富士。
結構、霧は出るらしい。なにせ標高1707mもあるのだから当然か。
ここは、6000年前に爆発した噴火口だそうだ。標高1570mの浄土平駐車場から10分もかからずに登れる。
この浄土平も火口跡、カルデラなのだそうだ。
しかし、ここで駐車料金400円を取るのは、有料道路代を合わせてボッタクリじゃねえのか。
登山路が整備されており、楽チン。
火口壁まで行けるが、溶岩砂がおおう噴火口跡は立ち入り禁止。

ガスの発生はないと思うが、落石がかなり多いようで、落石に対する安全措置のようだ。
火口の縁の径は400m、その周囲が1.5qあり、一周できる。
火口に水が溜まれば、蔵王のお釜や草津白根山の湯釜のような火口湖になると思うが、雨水は浸透してしまうようだ。
底までの深さは70mとのこと、まさに絶景。(下左の写真)

すり鉢の底までばっちり見える。しかし、6000年も経つのによく風化しないもんだ。
その北を見ると一切経山 (いっさいきょうざん) 標高1949mがそびえる。(上右の写真)
現在も噴煙をあげる活火山で、気象庁の要注意火山の1つで観測対象。
山腹からもうもうと蒸気が吹き出ており、その周囲が硫黄で黄色になっている。
この山には登ることができ、頂上から吾妻小富士の火口の全貌が望めるそうである。

磐梯吾妻スカイラインを南下して行くとフラットな溶岩台地が途切れ、下りになる。

その下りとなる標高1546m地点が「双竜の辻」である。

この「双竜」とは磐梯と安達太良の秀峰を、空で対峙する二つの竜に見立てたとされ、この場所から磐梯山と安達太良山が、そしてその間に猪苗代湖が見える絶景である。
しかし、に曇りがちで風景は今1つ。

乙字ケ滝(福島県須賀川市/玉川村)

国道118号線を玉川村方面から須賀川市方面に北上すると、阿武隈川にこの滝がある。
一応、日本の滝百選の一つに数えられている。
落差は6mとたいした規模ではないが、石英安山岩質凝炭岩の断層が阿武隈川を100mの長さに渡り分断し、水が乙字の形をして流れ落ちるのでこの名が付いたという。
滝幅の広さから「小ナイアガラ」とも呼ばれている。
近くには、松尾芭蕉がこの滝を訪れたときに詠んだと言われる「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」の句碑がある。
また、滝不動尊や聖徳太子石像などがあり、公園として整備されている。
江戸時代には、白河藩は、滝の下で村民が鱒や鮭、鮎などを捕ってよいとされたが、初漁の魚は殿様に献上することになっており、初漁近くなると藩士が近くに詰めた。
その滞在費を持つ代わり、他の賦役は免除されていた。
また、白河藩は阿武隈川の水運を利用し、米を搬出していたがここで一度、舟を変えなければならず、水運の最大の難所と言われていた。
このため、滝の北側の岸壁を堀割り工事をして舟を通す運河を開設した。
しかし、完成まもなく、明治を迎え鉄道の時代となり、ほとんど利用されなかったという。

都々古別神社
福島県棚倉町には、2つの都々古別神社がある。
八槻都々古別神社と馬場都々古別神社である。
両社とも若干の違いはあるが、ほぼ同じような由緒を持ち、同じく味鋤高彦根命(アヂスキタカヒコネノミコト)を主祭神として日本武尊を配祀し、名神大社・陸奥国一宮を称している。
しかし、この2つの同じ名前を持つ神社、上社、下社とか秋宮、春宮とかのペアの関係はないようであり、共通の祭事もなく、現在は、別々に独立した神社である。
この2つの神社が、もともとは、分祠関係にあったのか、ペアの関係にあったのではないかと推定されるが、それを裏付けるものはない。
初めから全く別の神社が同名を名乗っていた可能性はないのではないかと思うが、それは今では分からない。

八槻都々古別神社(福島県棚倉町八槻)

棚倉南部国道118号線沿いの八槻地区に八槻都々古別神社(はつきつつこわけじんじゃ)がある。
平安時代に編集された延喜式神名帳では名神大社として記載され、陸奥国一宮とされている古い神社である。
由来としては、味鋤高彦根命がその父である大国主命を助けて奥羽の地を開拓し、住民にその徳を慕われ、当地に祭祀されたのが始まりとされている。
日本武尊の東征には、千度戦って千度勝ったとされ、その後陸奥国に来た八幡太郎義家が、この故事を称えて当神社を「千勝大明神(ちかつだいみょうじん)」と名づけたという。
近くに中世城館と言われる八槻館がある。
八槻都々古別神社がいつからこの地にに建っていたのかは分からないが、戦国時代には建っていたのではないかと思われる。
神社の宮司の屋敷が八槻館とも思える。

馬場都々古別神社(福島県棚倉町馬場)
由来は八槻都々古別神社と同じく、日本武尊が奥羽鎮撫の際に都都古和気神(味耜高彦根命)を地主神として都々古山(福島県白河市(旧表郷村)の建鉾山)に鉾を立てたのが始まりとされる。
その後、大同2年(807年)坂上田村麻呂が現在の棚倉城のある地に社殿を造営、日本武尊を相殿に配祀した。
しかし、寛永2年(1625年)、丹羽長重が棚倉城建築のため、今の場所に移転させたという。


石都々古和気神社(福島県石川町)
石川氏の本拠、三芦城本郭に建つ神社。
「いわつつこわけじんじゃ」と読む。
式内社で、旧社格は郷社。ここも陸奥国一宮とされる神社の一社である。
棚倉町の2つの都々都古別神社(都都古和気神社)のどちらかから分祀されたものであるという説もある。
この神社は巨岩が林立し、本宮市の岩角山などと同じく尾巨岩信仰に係ると考えられる。

境明神(白河市白坂/栃木県寄居明神)
国道294号線こと、旧奥州街道に面して、陸奥(福島県側)と下野(栃木県側)の県境に明神が二社並列している。
この2つを会わせて境明神という。ここは奥州と関東の境であり、白河の関はここだったという説もある。
その説、間違いという訳ではなく、一番古い東山道が東の白河の関を通る県道76号、そして次が旧奥州街道であるこの国道294号線、そしてその後が現在の国道4号線と、幹線が西に移っていった。
この経緯からすれば、ここは新白河の関ということも言える。
解説板によると「陸奥側の境の明神は、玉津島明神を祀り、下野側の明神は住吉明神を祀っている。
境の明神の由緒は不詳であるが、文禄4年(1595)に当時白河を支配していた蒲生氏が社殿を造営したという。
現存するのは弘化元年(1844)に建てられた小祠である。
奥州街道は五街道の1つで、奥州・越後などの諸大名が参勤交代で通行し、旅人や商人などの往来も盛んであった。
このため、道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり、灯篭や碑の寄進なども盛んに行われている。
境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した灯篭が並び、松尾芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」などの句碑や歌碑も多く建立されている。神社北側の杉林は、別当寺であった和光山豊神寺の跡地で、神仏習合の名残をとどめている。玉津島明神と住吉明神 玉津島明神(女神・衣通姫)と住吉明神(男神・中筒男命)は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。
このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」」(白河市教育委員会)

玉津島明神と国道294号線 玉津島明神の社殿 街道沿いに残る石垣は関所跡?