京都紀行

清水寺(京都市東山区清水)
金閣寺、銀閣寺などと並ぶ京都の観光スポットの1つ。
「清水の舞台」と言われる国宝の本堂で有名。
北法相宗という宗派の寺であり、歴史は古く平安京がこの地に置かれる以前から存在したという。
創建については、諸説あるが、草創縁起によると、宝亀9年(778)大和興福寺の僧、賢が夢のお告げで、今の清水寺の地である音羽山で金色の水流を見つけ、その源をたどっていくと、観音の化身である行叡居士という白衣の修行者がおり、後を託され去っていった。
賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
2年後、宝亀11年(780)、妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来た坂上田村麻呂は賢心に出会い、殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。

征夷大将軍となった田村麻呂は若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加護で奥州での戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。
延暦17年(798)、田村麻呂は延鎮(賢心改名)と協力して本堂を改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀り、弘仁元年(810)公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。
以後、『枕草子』に清水観音の縁日や『源氏物語』「夕顔」の巻、『今昔物語集』に清水観音等の名が登場してくる。
寺社の常として清水寺も何回かの火災に遭遇しており、9回の火災が記録される。
中には永万元年(1165)、延暦寺の僧兵により放火されたこともある。

特に注釈なし。本堂です。 本堂を下から見る。結構な迫力である。

現在の本堂は江戸時代、寛永6年の火災の後、寛永10年(1633)、徳川家光の寄進により再建されたものである。
寺の運営は変わった形式であり、三職六坊と呼ばれる組織が運営していた。
「三職」とは寺主に当たる「執行」、副寺主に当たる「目代」、寺の維持管理や門前町の支配などを担当する「本願」を指し、執行職は宝性院、目代職は慈心院、本願職は成就院がそれぞれ務めた。
「六坊」はこれに次ぐ寺格を有するもので、義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6か院である。
このうち、現存するのは、執行職の宝性院と目代職の慈心院の本堂随求堂、本願職の成就院が清水寺本坊となっている。
「六坊」の6か院は延命院が残るのみである。

この清水寺、観光バスや一般車両は寺までは乗り付けられない。
清水道と呼ばれる坂道の参道を歩くこととなる。
この参道沿いにみやげ物店などが軒を連ね、独特の雰囲気がある。
さらに五条坂、清水新道(茶わん坂)産寧坂(三年坂)などが分岐する。

寺は標高242mの清水山(音羽山)中腹斜面に建物が連なり、参道の終着地の仁王門を入り、西門、三重塔、鐘楼、経堂、田村堂(開山堂)、朝倉堂などを経て本堂に至る。
仁王門は重文であり、朱塗りの楼門、入母屋造、檜皮葺きで室町時代の建立。
三重塔は寛永年間の再建で高さは30.1m、重文。
清水寺の見所はなんと言っても国宝の本堂である。
屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出す。
建物の南半分が山の斜面にせり出すようにして建てられ、139本の柱が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている。
この部分には一切、釘は使われていないそうである。
このような構造を「懸造」、あるいは「舞台造」と言い、『法華経』「観世音菩薩普門品」(観音経)の所説に基づくものという。
長谷寺や石山寺の本堂も同様の造りであり、全国にもいくつか同じ構造のものがある。

仁王門、朱塗りの楼門、入母屋造、檜皮葺き室町時代の建立。 本堂の全貌が見られる位置に建つ奥の院。
本堂の写真のほとんどはこの建物から撮影されたもの。
絶好の撮影スポット。
本堂東側下にある、寺名の由来となった3本の筧(かけい)から流れ落ちる「音羽の滝」。

「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言う例えがあるが、江戸時代には234件の飛び降りがあり、生存率は85.4%という記録がある。
明治以降は禁止令を出し、柵を張るなど対策を施したことで下火になったというが完全になくなったとは言えないようである。
本堂に安置される本尊の千手観音立像は33年に1度開扉の秘仏であり、写真も公表されていない。
42本の手のうち、左右各1本を頭上に伸ばして組み合わせ、化仏を捧げ持つ特殊な形式の像という。

本堂の先に行くと釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建つ。いずれも重文。
釈迦堂は、寄棟造、檜皮葺きの三間の堂で寛永期の再建。
昭和47年(1972)、集中豪雨による土砂崩れで倒壊し、3年後に旧材をもって復元された。
阿弥陀堂は入母屋造、瓦葺きの三間の堂。寛永期の再建。
奥の院は本堂の全貌が見られる位置に建つ。本堂の写真のほとんどはこの建物から撮影されたものであり、絶好の撮影スポット。
このため、いつも大混雑。寄棟造、檜皮葺きの五間堂で寛永期の再建。本堂と同じ構造の崖にせり出した懸造の建物。
本堂東側下には、寺名の由来となった3本の筧(かけい)から流れ落ちる「音羽の滝」と呼ばれている名水がある。

三年坂

正式には産寧坂(さんねいざか)という。
それが訛って「三年坂」と呼ばれるようになったらしい。
京都市東山にある坂で名勝清水寺の参道である清水坂から北へ石段で降りる坂道をいう。
北が二年坂、北にある八坂神社、円山公園、高台寺、法観寺と南にある清水寺を結んでいるため、観光客が絶えなく、土産物店、陶磁器店、料亭などが並び、文化財保護法に基づき重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
幕末の明保野亭事件の舞台である。「三年坂」で転ぶと、三年以内に死ぬ。

また転べば三年の寿命が縮まるという話があるが、これは和歌山市にある三年坂の言い伝えと混同して伝わったもの。

「産寧坂」の言われは、清水寺にある子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために登る坂であることから「産寧坂」と呼ばれるようになったという説と清水寺に参拝した人がこの坂道を通る際に念願を強くし、願いが叶ったあとで観音様への御礼に再度お参りする時に通る坂であることから「再念坂」と呼ぶようになったという説がある。(Wikipedia参考)


金閣寺(京都市北区)
正式な名は北山鹿苑寺で、臨済宗相国寺派に属する。
やっぱり金閣寺の名の方がはるかに有名。
清水寺、銀閣寺と並ぶ京都の観光ポイントの1つ。
この金閣、残念ながら再建されたものであり、国宝でも重文でもない。
しかし、昔通りに忠実に再建されているため、再建されたものとは思えないくらいである。
庭園の池に姿を映す金閣はやはり絵になる。
また、ここは歴史の教科書に出てくる北山文化の語源となった地でもある。

ご存知、足利義満が開いたということで知られるが、元々、ここには、元仁元年(1224)藤原公経が建てた西園寺があったが、後醍醐天皇暗殺未遂事件で西園寺家が没落し、その後は廃寺状態になっていたという。
そこに足利義満が注目し、応永4年(1397)北山山荘を建て邸宅とし、実質、ここで政務を取り、ここに北山文化が花開く。
応永19年(1412)義光が死去すると禅寺となり、義満の法号「鹿苑院」を採って鹿苑寺と名付けられた。
しかし、応仁の乱では、建物の多くが焼失、江戸時代に再建され、メインの舎利殿こと金閣も慶安2年(1649)に修理される。
明治維新時の廃仏毀釈で荒廃するが、庭園及び金閣を有料で一般公開する方法を採用し繁栄する。
金閣は国宝に指定され、庭園も史跡・名勝に指定される。

ところが、昭和25年(1950)7月2日未明、21歳の学僧林承賢の放火で金閣は焼失。
昭和30年(1955)に明治の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、忠実に再建される。
この金閣寺のシンボル 金閣(舎利殿)、漆地に金箔を押した三層宝形造の建物で、金箔を貼るのは二・三層。(当初は最上層のみだったという説もある)。
各階は異なる建築様式を用いており、初層は寝殿造風で「法水院」といい、二層は書院造風(武家造)で「潮音洞」といい、三層は禅宗様の仏殿風で「究竟頂」という。
屋根は椹(さわら)の薄い板を重ねた?葺(こけら葺)で、頂上には金銅製の鳳凰が飾られている。
なお、再建後、金箔の剥落、黒漆の紫外線による劣化のため、昭和61、62年に修復が行われた。
修復工事では約0.45〜0.55μmの金箔約20万枚を使用した。
なお、金閣放火事件の犯人林は寺の裏山で自殺を図り、その母親は事件の事情聴取の帰りに保津峡で投身自殺するという悲劇が展開した。
この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』、『金閣炎上』の題材にもなったことで知られる。

庭園は、義満が西園寺時代の庭園を改造したものといい、鏡湖池を中心とした室町時代を代表する池泉回遊式。
西と北を山に囲まれて,鏡湖池には葦原島といわれる中島や幾つもの岩島がある。
これらの岩は、大名が寄進したものといい、畠山石、細川石などの名がある。
(Wikipedia参考)


天龍寺(京都市右京区嵯峨天龍寺)

臨済宗天龍寺派大本山の寺院。正式名称は霊亀山天龍資聖禅寺。
足利尊氏が後醍醐天皇の霊を弔うため建立、開山は夢窓疎石。
もともとこの地には、平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があったが、荒廃し、その後、後嵯峨天皇(在位1242 - 1246)と子、亀山天皇(在位1259 - 1274)が離宮を営み、「亀山殿」と称していた。

足利尊氏は後醍醐天皇が大覚寺統(亀山天皇の系統)であったことを考慮し、離宮の亀山殿を寺に改めたという。
敵の後醍醐天皇の菩提を弔う寺院の建立を尊氏に提案したのは、夢窓疎石であった。
寺号は、尊氏の弟直義が、寺の南を流れる保津川で金龍の舞う夢を見たことにちなむという。
なお、天龍寺建立の資金調達のための貿易船が「天龍寺船」である。

康永4年(1345)に落成。その後、京都五山の第一として栄え、子院150か寺を数えたという。
しかし、その後の9回ほどの戦乱や火災に会い、建物はことごとく失われた。

最後の災難は幕末、元治元年(1864)の「蛤御門の変(禁門の変)」であった。
したがって、現在の建物のほとんどは明治30年代のものである。
これらの建物は新しすぎて文化財としての価値は低い。
夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)が当初の姿を伝えるという。
この庭園は中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園で、大堰川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園でもある。
曹源池中央正面には2枚の巨岩を立て龍門の滝とする。
龍門の滝とは中国の登龍門の故事になぞらえたもので、鯉魚石を配するが、通常の鯉魚石が滝の下に置かれているのに対し、この石は滝の流れの横に置かれており、龍と化す途中の姿を現す珍しい姿をしている。
曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられたという。
(寺のHPを参考)

右の写真は庭園に舞い降りた「青鷺」。置物ではありません。本物です。

平安神宮(京都市左京区)
明治28年(1895)平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の建物を利用して平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社として創祀された新しい神社。
その後、昭和15年(1940)、平安京最後の天皇、孝明天皇を祭神に加えた。
敷地面積は約66000u。
昭和51年(1976)1月6日、左翼活動家加藤三郎の放火で本殿、内拝殿等が焼失し、全国からの募金により3年後に再建された。
社殿は平安時代後期の平安京の大内裏の正庁である朝堂院(八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したもの。
門は朝堂院の應天門を模し、拝殿は朝堂院の正殿である大極殿を模し、その左右には蒼龍楼と白虎楼を模している。

神苑は造園家、7代目小川治兵衛(植治)が20年以上かけて造った名園で、国の名勝に指定。
池泉回遊式の近代日本庭園であり、平安神宮の大極殿背後の周囲三方に配された南神苑、西神苑、中神苑、東神苑で構成される。
面積は33,000u、カワセミやオオタカ、甲羅に草を生やすミノガメ、ミナミイシガメなどが棲息している。

高さ24mの大鳥居 朝堂院の應天門を模した門 平安京の大内裏の正庁である朝堂院(八省院)を縮小した社殿
社殿の左にある蒼龍楼を模した建物 神苑 神苑

太秦映画村(京都市右京区太秦)


正式には東映太秦映画村、映画のテーマパークとして東映の京都撮影所の一部を分離して一般公開したもの。
東映が映画自体の斜陽化と時代劇の斜陽化に伴う京都撮影所のオープンセットの維持を図り、その一部を新設子会社の「(株)東映京都スタジオ」に移管し、昭和50年(1975)から公開した。
時代劇の殺陣ショー、忍者ショーや俳優のトークショー、撮影会、握手会などのほか、キャラクターショー、コスプレイベント、変身体験が出来る変身スタジオなどの工夫で新しい京都の名所となった。
ここを舞台にしたオリジナルの特撮の撮影も行われている。

京都タワー

京都駅烏丸中央口前に立つ高さ131mの展望塔。
京阪電気鉄道のグループ会社である京都タワー株式会社が運営している。

1964年12月28日開業。設計は、建築家山田守。構造設計は京都大学工学部建築学教室による。
タワーの独特な姿は、京都市内の町家の瓦葺きを波に見立て、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたものという。
または、近くに東本願寺があることから「お東さんのローソク」とも言われる。
しかし、あまりセンスの良いデザインではない。銭湯の煙突に似ているという人もいる。
ここに登るのは観光客だけとも。
建設計画時点から、古都京都の歴史と景観にマッチするかどうかを巡って、政財界中心の建設推進派と学者・文化人中心の反対派が世論を二分して大激論が展開された。
これがわが国初の都市の美観論争という。結局は建築物ではなく工作物という訳の分からない妥協案で建設されたが、いかにも日本的な屁理屈。
しかし、この論争はこの後、1972年の京都市景観条例制定の巨大工作物規制区域設定基準策定に生かされた。