霞ヶ浦紀行

霞ヶ浦

茨城県南東部にある県の面積の流域面積が35%を占める湖、霞ヶ浦。
琵琶湖についで日本で二番目に大きいとか。(八郎潟が干拓されたので第二位に浮上したとか)
本当は、通称、「霞ヶ浦」と言われる「西浦」と東にある「北浦」などからなる湖の総称だそうです。

昔は海の入り江で周辺に貝塚が多く、陸平貝塚とか、上高津貝塚とかの巨大貝塚が形成され、製塩が盛んに行われていたそうです。
しかし、徐々に海への出口が塞がれ、奈良時代から淡水化が進み、汽水化してきたそうです。
戦国時代は今よりはるかに大きく、湖上水運が盛んだったそうです。

それを取り仕切っていたのが鹿島氏などの武家、その親戚筋の平氏系の大掾一族がこの湖畔で大きな収益を上げていたようです。
南北朝時代には北畠親房が流れ着き、常陸を戦乱に巻き込みます。
しかし、戦国時代、千葉氏や江戸崎氏など南部は北条氏に権益を奪われてしまいます。
そのため、北部の連中は、昔からの常陸守護で上納金が少ない佐竹の御屋形様を頼り、北条氏の権益奪取に対抗します。
佐竹の御屋形様はこの方面で北条氏と積極的に戦う意思はなさそうでしたが、彼らの求めに応じて出島半島に出兵して制圧します。
その代わり、佐竹氏が下野方面で北条氏と戦う時は軍を出します。

しかし、戦国末期、小田原の役で北条氏が滅亡すると、この地方の小大名は佐竹に一網打尽に滅ぼされてしまいます。
多分、佐竹氏は水運利益を独占したかったのでしょう。しかし、秋田に流され挫折。
そのころ、霞ヶ浦の淡水化は進み、江戸時代初期には完全に淡水化したとか。
同じ茨城県でも山間と起伏に富んだ海がある北部と丘陵と平坦地が入り組む霞ヶ浦周辺、その周辺の水郷地帯、そして水田地帯の西部と全然風景が違います。
そのど真ん中に筑波山。筑波山は山間を除けば、県内のほとんどの場所から望めます。もちろん、関東一円から、カーナビや磁石がないない時、方向の目印になります。
けっこう、見どころがある風景が多いのですが、今1つ観光などの点でインパクトがありません。
どうしてでしょうかね。強烈な核となるものがないためでしょうか、伊豆、箱根、富士、信州などのように、いくつかの観光拠点が連続していればいいのですが、離れている点もあるのでしょうか。
ここ霞ヶ浦周辺ものどかな風景が広がります。ここからも筑波山が見えます。

南に目を向けると朝日に輝く湖面が。
広いですねえ。
見事な風景ですが、残念ながらメジャーな観光地の風景に比べるとインパクトは少ないです。

北浦大橋に。橋走行中に見た北方向、鉾田方面です。
ちなみに「鹿行」読めます?管理人、はじめ読めませんでした。「かぎょう」かと?でも、そんな言葉、聴きません。
「ろっこう」と読むのだそうです。太平洋と北浦の間の「鹿島」の「鹿」と北浦と西浦の間の「行方」(なめかた)の「行」をつなげた言葉だそうです。
でも「ろっこう」というと神戸の「六甲」を連想しますわねえ。
ちなみに「行方」(なめがた)も読めませんわねえ。今は市の名前ですが。

三昧塚古墳(行方市沖洲)
霞ヶ浦の東岸を通る国道355号線を石岡から潮来方面に走行し、小美玉市小川地区から行方市に入ると左手に大きな古墳がある。
これが全長85m、後円部径47m、前方部幅36.5m、後円部高さ6mの規模を持つ5世紀後半に造られた前方後円墳である三昧塚古墳である。

だいたい古墳は台地上にあり、平地にある古墳は非常に珍しい。おそらく当時は湖に面していたのではないかと推定される。
今はきれいに整備されているが、かつては酷かった。半分破壊された無残な状態で横たわっていた。
昭和30年3月、干拓堰堤工事と築堤用土砂採取工事により、前方部大半が破壊されてしまったためという。
破壊が開始されたため、急きょ発掘調査が実施され、金銅製冠、金銅垂飾付耳飾、平縁変形四神四獣鏡等があり、ほかにも短甲、鉄鏃(やじり)そして円筒・形象(人物・動物)埴輪など遺物が出土している。
文化財への感心がほとんどなかったころの蛮行である。
当時は文化財保護などという概念は薄くこの程度のレベルだったのだ。

上の写真は整備前2004年の姿である。古墳の半分が無残に破壊されている。

むしろ整備などせずにかつての蛮行の跡をそのままに展示した方が、反面教師として効果があるのじゃないかと思う。
でも、地元はかつての蛮行が恥ずかしく、再整備したのであろう。
それなら壊すな!ということになるが、こんな例は各地であったはず。

再整備復元されただけ幸運だったと言えるかもしれない。
消滅してしまったものも数知れないはずである。

上は前方部から見た後円部である。
中央部右の山が沖洲城、右上に霞ヶ浦が見えるが、当時はもっと近くに迫っていたらしい。

茨城県教育委員会のHPより
三昧塚古墳は、行方市沖洲(おきす)にある。沖洲集落の北西方、小美玉市小川に接する地点に近く、沖積低地が霞ヶ浦に接する部分に築造される。
沖洲集落付近に存在する諸古墳は、すべて台地上にあって、沖積低地に占地するのは本古墳のみ。
昭和30年(1955)3月、干拓堰堤工事、築堤用土砂採取工事によって、古墳の前方部大半が破壊されたことを契機として、約1か月間にわたる発掘調査が実施された。
 古墳は、全長85m、後円部径48m、後円部高さ8m、前方部幅40m、前方部高さ6mあって、後円部が前方部よりも2m余高い値を示す前方後円墳。
埋葬主体部は、後円部中央、墳頂下2.7mに存在していた。
築造当初の状態を復元すると、墳頂下3m余の深さにあったと推定される。
埋葬主体部の中心は、変質粘板岩の板石9枚からなる組合式箱式石棺。
棺蓋1枚、左右側壁各2枚、前後両小口板各1枚、底石2枚からなる。棺蓋は全長2.3m、幅80cm、厚さ10cmほどで、長辺の左右中央部に各1個の粗雑な加工による縄掛突起をつくり出す。
この石棺蓋の特徴からみると、いわゆる長持形石棺の流れを汲むものと考えられる。
石棺の方位は、東を頭にして東西軸となりますが、石棺の北方50cmほどの位置に副葬品埋納用の施設が発見されている。
この施設は、遺物の出土状態から判断すると、長方形の木箱に収められていたと推定され、棺外における副葬品収納施設の例として、全国的にみても貴重な資料である。

墳丘の各所に埴輪の存在が知られるが、詳細な出土地点についての記録がない。
土砂採取工事によって発見された埴輪群を一括して採集して保管したためという。
昭和30年の発掘調査時に判明している埴輪には、円筒埴輪のほかに、人物埴輪、動物埴輪(馬、鹿)がある。
埴輪は、後円部とくびれ部には、上段、中段、下段の3段に、また、前方部では、下段と中段の2段に配されていたと報告されてる。
 
石棺内には、金銅製馬形飾付冠をはじめとして、竹櫛、金銅製垂飾付耳飾り、玉類、鏡、青銅製飾金具、大刀、剣、刀子、棒状鉄器、鉄鏃、挂甲(けいこう)があり、石蓋上に置かれたと思われる戟が、棺外の頭位置から発見されている。
なお、発掘調査報告書によれば、棺内には貝製品である貝釧(かいくしろ)と腰部垂飾品の鹿角製品とがあったと記されてるが、腐蝕して現存してない。

 石棺傍の副葬品埋納施設からは、大刀、刀子、鉄鏃、短甲、挂甲、衡角付冑、鉄斧、砥石、轡鏡板、面繋飾金具が発見されている。
80mを超える前方後円墳で、県内での古墳規模としては大型古墳の部類に属す。立地条件も、霞ヶ浦北岸地域に展開する前半期古墳グループの中核をなす位置を占め、埋葬主体部の構造や副葬品の質量ともに周辺地域の盟主的性格を示す。
 
したがって、三昧塚古墳は、東日本の古墳時代研究の上で、常に年代的な基準資料として引用される。
ことに、金銅製馬形飾付冠、銅鏡、武器、武具、馬具などの一括資料は西暦5世紀後半から6世紀初頭段階にかけての、日本列島全体の古墳文化の変容と地域首長層の台頭の実態をあらわしていると評価される。
ことに常陸地域では、東日本第二位の規模をもつ石岡市舟塚山古墳の前段階としての歴史的位置と、後に常陸の政治的中枢となる地域を形成する過程を解明する、さまざまな材料を含んでいることは特筆に値する。


舟塚山古墳(石岡市北根本)
霞ヶ浦を望む恋瀬川流域の北側の台地上にある全長186mの大型の前方後円墳であり、国の史跡に指定されている。
県内最大規模を有し、関東地方では群馬県太田市にある天神山古墳(全長210m)に次ぐ規模を持つ。
5世紀後半(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

北東約300mには府中愛宕山古墳があり、霞ヶ浦との位置関係から舟塚山古墳は「入舟(入船)」、愛宕山古墳は「出舟(出船)」と通称される。
舟塚山古墳については1963年(昭和38年)に測量調査が、1972年(昭和47年)に周溝確認の発掘調査が実施されている。
前方部を西方に向ける。墳丘は3段築成で、神社の社殿造営や採土・墓地造営により若干の改変を受けている。
墳丘表面では円筒埴輪列が認められているが、形象埴輪は未確認で、葺石の有無も明らかでない。
墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされており、周濠を含めた古墳全長は約260mにもおよぶ。
また周辺では陪塚と見られる小古墳数基の分布も見られる。
主体部の埋葬施設は明らかでないが、地元では多数の大刀が出土したとする伝承がある。
(WIKIPEDIA参照)

上の写真は後円部から見た前方部である。

霞ヶ浦大橋
霞ヶ浦にかかる唯一の橋、かすみがうら市田伏と行方市玉造甲を結び、橋の長さは1.1 kmある。

戦後、食糧自給率向上のため霞ヶ浦を埋め立て農地にし、その堤防道路で現かすみがうら市田伏と現行方市玉造甲現地を結ぶ予定だったという。
上の写真は玉造側から西の対岸、かすみがうら市田伏地区を撮ったものである。

ここでは八郎潟の干拓と同じ計画が進められていた。
しかし、地元漁民の強い反対とコメ余りが起こるようになり、国はこの事業を断念した。

上の写真は橋の東岸から北西の石岡方面を撮ったものである。山は筑波山である。
干拓事業が進められていたら、ここには水田が広がっていたはずである。
この味のある光景はなかったことになる。干拓が中止になってよかった。

この干拓堤防道路の代替え(オトシマエ?)として、すったもんだの大騒動の末、1982年(昭和57年)橋を建設することが決定する。
漁業関係者などがゴネかなりの金が流れた。
当然、金の一部は政治屋さんの懐に入ったはずである。
1985年(昭和60年)1月に橋梁本体工事を着工し、1987年(昭和62年)3月3日に有料道路として開通した。
この橋の開通で陸の孤島と言われた玉造や麻生と土浦が結ばれるようになった。
また、橋を通過する国道354号線が通るかすみがうら市の旧出島地区も発展することになる。
30年間通行料を徴収満了して無料化する計画としていたが、当初見込みを上回る交通量あり、2005年(平成17年)に無料開放になった。

旧予科練跡(茨城県阿見町)
予科練とは、正式には「海軍飛行予科練習生」(旧海軍における航空兵養成制度の一つ。
志願制であり、その略称。)1929年(昭和4年)12月、海軍省令に設けられ発足。
当初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地にあったが、手狭なため、1939年(昭和14年)3月、ここ霞ヶ浦湖畔にある土浦海軍航空隊に移した。

だいたい、ここを予科練ということが多いが、実際には全国に19か所あった。ここが最大規模であったため、予科練=霞ヶ浦となったのであろう。
戦前の予科練卒業生は、航空機搭乗員の中核を占めた。
当然、戦死率も非常に高く、期によっては約90%が戦死するという結果になり、予科練出身者の戦死者は18564名に上るという。
昭和19年に入ると特攻機搭乗員の中核として多くが命を落としている。

昭和19年夏以降になると燃料不足もあり飛練教育もできなくなり、人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器要員に回された者もいた。
終戦間際などは教育も放棄され、基地や防空壕の建設作業員として使われ、1945年(昭和20年)6月には予科練自体が凍結され、一部の特攻要員を除く多くの元予科練生は、本土決戦要員として各部隊に転属となった。

かあちゃんの親父が、ばあちゃんが止めるのも聞かず、ここ予科練を受験した。
軍国少年だったのだ。
でも落ちていじけて、家で大暴れをし、仕方なく大学に行ったという。
その時、ばあちゃんは正直、落ちて嬉しかったと言っていた。
一緒に受けて合格した近所のライバルの同級生は結局、帰って来なかったという。

その予科練の中心が土浦海軍航空隊の基地、霞ヶ浦基地は現在、陸上自衛隊土浦駐屯地である。
ちょっと通りかかったので久々に立ち寄ってみた。
現在、ここに自衛隊武器学校があり、一部の施設は自由に入れる。
さっそく90式戦車、74式戦車、64式戦車などの歴代主力戦車や155mm自走榴弾砲が出迎えてくれる。
ミリタリーオタクはこれだけでも興奮ものだろう。


この武器学校の敷地内に予科練記念館として「雄翔園」がある。
館前には山本五十六の銅像が立つ。

この施設は予科練出身者により設立され、遺書・遺品等が展示され、自衛隊が管理しているが自由に入れる。
ここに展示されている遺書などは、息を飲む内容であり、圧倒される。
けっこう、多くの人は来ているが内容が内容だけに館内は誰も無言。
重い雰囲気である。

かつての日本にもこのような狂気の世界が現実に存在していたのだ。
外は平和な風景、異次元の世界から戻ったようだった。
今の日本の平和が世界はここに展示されている遺品を残した多くの犠牲者の上に築かれているのだ。
でもここで見た狂気の世界はアジアの一角でも中東でもアフリカでも今も存在している。


大杉神社(稲敷市阿波)
国道125号線を土浦方面から鹿島方面に走行し、稲敷市の阿波地区を通ると、やたら派手な神社がある。
これが大杉神社である。
この前は何度か通っているが、ついぞその神社には立ち寄ることはなかったが、ちょいと時間があったのでよってみた。
以前から建物の派手さが、どこか日光東照宮っぽい感じがしていたが、確かに日光東照宮とは関係があるらしい。
(伝承にすぎなく、創作かもしれないが。)

別名「あんばさま」とも呼ばれているそうである。
境内は外観同様、ギンギラギン。派手派手であり、目がくらくらするくらい。
神社といえばだいたいシックな雰囲気のものが多い。
その方がどこか安心感を覚えるが、こういったギンギラギンの神社、どうにも落ち着かない。
しかし、調べてみるとこの神社、なかなかの歴史があるようである。
←楼門
始まりは水運に係る原始信仰が始まりのようであり、この信仰は大和朝廷の勢力がこの地に及ぶ前から存在していたようである。
この付近には貝塚も多いので縄文信仰にまで遡る可能性もあるようである。
縄文信仰に遡る可能性がある神社に諏訪大社なども同じ性格である。
意外と古いのは驚きであった。
でも、あのギンギラギンの建物のイメージとは合わない。

HPなどの記載を要約すればこんな感じである。
大杉神社の建つ場所は古代は現在の霞ヶ浦が太平洋の湾であり、この湾は今の常陸川、利根川下流域、印旛沼、手賀沼、牛久沼、鬼怒川下流域、小貝川下流域まで含まれていた。
その常総内湾に西から東に向かって突き出すような半島の先端部がこの地で、『常陸風土記』には安婆嶋として登場する。古代から水運が盛んであり、湾沿岸は交易、産物流通で栄えていたという。
大杉神社の巨大な杉は「あんばさま」と呼ばれ、灯台のような役割を果たすとともに水上安全の信仰の対象であったという。
大和朝廷の勢力がこの地に及びその守護神として置かれた鹿島神宮や香取神宮とも共存状態にあったようである。
←本殿
神護景雲元年(767)都奈良を旅立った勝道上人は、下野国二荒山(栃木県日光)をめざす途中、大杉神社に着き、病苦にあえぐ民衆を救うため、巨杉に祈念すると三輪明神(奈良県三輪の大神神社)が乗り移り、病魔を退散させたところから、やがて大杉大明神と呼称されるところとなった。
延暦二十四年(805年)大杉神社を守護するため別当寺として安穏寺が開基され、以降明治になるまで大杉神社を安穏寺が管理した。
文治年間にはその容貌が巨体、紫髭、碧眼、鼻高であった常陸坊海存(海尊)が大杉大明神の力で数々の奇跡を起したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展した。
当初は烏天狗を眷属としていたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を眷属とすることとなった。

現在、願いも叶えてくれると伝えられる海存の奇跡に由来して、大杉神社を「夢むすび大明神」と称し、鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と呼ばれるようになった。
江戸時代初頭には当時江戸崎不動院(稲敷市江戸崎)にいた天海に雨をもたらす奇跡を与えた神社として知られるようになり、以降、天海が安穏寺の住職となり大杉大明神に仕えた。
このため安穏寺および大杉神社は天海が住職を務める上野寛永寺や日光輪王寺の直兼帯となり、明治になるまで輪王寺宮の兼帯するところとなった。

江戸時代初期、東京湾に注いでいた利根川は河川改修により、銚子へと流路を替え、ここは水郷流域と江戸を結ぶ河川として流域は急激な発展を遂げ、水運の発展により海河の守護神としての大杉神社もまた急速な信仰域の拡大を遂げる。
それまでは常総内湾域であった信仰域が各地に広がり大杉神社の「悪魔払い囃子」も広まり、各地で独自の展開をする。
大杉神社のあるこの地では「あんば囃子」と呼んでいるが、多くの地域では「大杉囃子」「災禍囃子」などと呼ばれている。
この「あんば囃子」は国指定の無形民族文化財になっている。
現在も、疱瘡除けや水上交通の神として、関東一円と東北の太平洋側に信仰が広がり、千葉県から東北地方にかけての太平洋岸の漁村で大きな信仰を集めている。

陸平貝塚(美浦村安中)
霞ヶ浦南岸に位置する美浦村、その北東、霞ヶ浦につき出た台地が安中台地、台地のかなりの部分はゴルフ場に成り果てているが、ゴルフ場に囲まれるように日本屈指の規模を誇る縄文時代の貝塚遺跡、陸平(おかだいら)貝塚がある。
当時の気候は今よりも暖かく、縄文海進といって海面水位が高く、霞ヶ浦も太平洋の湾であり、この安中台地も霞ヶ浦に浮かぶ島であったと考えられる。
貝塚は面積約30,000m2の広い楕円状の台地周囲の斜面に残された大小8ヶ所の貝塚群からなり、縄文時代早期(約7000年前)から後期(約3500年前)にかけて形成され、貝塚廃止後も開発もそれほど行われなかったので、貝塚の周囲には、縄文時代からの自然地形が、ほぼ完全な形で残り、貝塚もそのままの状態で保存されていたという。

ここが有名なのは、明治12年(1879)、東京大学の生徒であった佐々木忠二郎と飯島魁によって、日本人の手による最初の発掘調査がおこなわれた遺跡でありることである。
そのため「日本考古学の原点」ともいわれている。
平成10年には、研究者や周辺地域の開発企業、そして地元住民による様々な活動が実を結び全国を代表する貝塚遺跡として国の史跡指定を受け、その保存が図らている。
しかし、でかい、広い。
台地の斜面、今でも貝がらがむき出しで、土器片があちこちに散乱している。

我が家の近くにも貝塚があるが、すごく小さい。
集落で食べた貝がらを投棄した程度の規模であった。
ここはそんなもんじゃない。

普通の貝塚は家庭、集落の生活廃材投棄用であるが、ここは産業用、3500年間続いた干し貝製造工場の操業廃棄物により形成されたものである。
もっともある時点での干し貝製造工場の規模は多分、想像よりは小さいものあろう。
この貝殻の多さは3500年の時間をかけて累積の結果である。
この時間、現代から古墳時代までの往復分である。
いったい、ここに係った人間の延べ人数はどれほどであろうか?

台地中央部にその工場と付属の住居(社宅?)があったのではないかと思われる。
その干し貝製造の過程で貝を似た土器の破片が貝殻に交じっているものらしい。
出土した土器片を見たが、我が家近くで発見されるものとほとんど同じ模様のものであった。

ここで作った干し貝は、保存食として、そして調味料として内陸に運ばれ、石器素材や獣の干し肉等と交換したらしい。
ハマグリを中心に、シオフキ、サルボウ、ハイガイ、マガキ、アカニシなどの内湾に生息する貝の貝殻のほか、クロダイ、スズキ、フグなどの魚骨、シカ、イノシシ、ウサギなどの獣骨も出土している。
土器以外では土偶、土製晶、石器、骨角器、貝製品が出土している。
石器も出土しているが、それほどの量ではないようである。
操業停止は縄文晩期、地球が冷却化し、南極、北極の氷が厚くなり、海面が後退したことによるためだろう。