鹿島紀行

鹿島神宮(鹿島市)
サッカーの町、鹿島にある古社。
創建は神武天皇1年、紀元前660年というが、それじゃ、縄文時代。
これはあくまで神話の世界、そんなことはないだろう。

『常陸国風土記』では、肥国造の一族だった多氏が開拓民として上総国に上陸、常陸に土着し、その氏神として建立されたのが鹿島神宮の起源という。
この話は金砂神社など多くの古社の伝承と大体、同じである。
その中でもこの神社は、平安時代に「神宮」と呼ばれて神社は伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の3社だけだったということもあり、地位も高かったようだ。
この鹿島神宮と香取神宮が重要視されていたのは、蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であったことによると推定されている。

だからここは征服のための拠点、したがって「武道の神」である。徳川氏が寄進した建物が多いが、武道の神としての信仰によるものであろう。
でも何故か「平和の神」でもあるそうである。何で「武道」が「平和」に変わったのだろう。

おそらく、当時は伊勢湾あたりから海路、銚子付近に航海し、今の利根川に入り、内海であった霞ヶ浦に入るルートがメインルートであり、その内海への入り口の南北と抑える鹿島と香取が重要な地であったのであろう。
その証拠に宝物殿に悪路王(アテルイ)の首と首桶が祀られている。
南北朝時代にも北畠親房がこのルートで常陸に来ている。

その鹿島神宮であるが、さすがに重厚である。
凄いものがあった。国宝の直刀である。
刀本体と黒漆平文大刀拵、刀唐櫃 の3点セットで国宝に指定されている。

「布都御魂剣」「平国剣」とも呼ばれ、全長2.71m、刃長2.24mの直刀で奈良時代末期から平安時代初期のもので、出土品でない日本刀の中では、最古のもので、刃長では国内最長。

4ヶ所で刀身をつなぎ合わせており、今でもつなぎ目が分かる。
柄と鞘は、黒漆塗りの上に金銅透かし彫りの金具で装飾を施した古様なもので正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」と似ているという。
地元で造られたという。
この地は砂鉄が採れ、製鉄が行われていたため、蝦夷を征服するための武具の製造地という重要な地でもあったのではないだろうか。

多氏こそが、その製鉄、武器製造を管理する者であったのではないだろうか。
だから「武道」の神であったのであろう。
この刀以外にも奉納された太刀が非常に多いのもその証拠だろうか。

重要文化財としては、梅竹蒔絵鞍 (『吾妻鏡』に建久2年(1192)、源頼朝が国の平安を祈って馬を奉納したとの記事があり、この馬に添えられていた鞍といわれる。)

楼門 (寛永19年(1642)に水戸黄門さんの親父、初代水戸藩主徳川頼房が造営した総朱漆塗りの2階建ての楼門)

本殿、石の間、拝殿 (元和4年(1618)二代将軍徳川秀忠が造営。拝殿は簡素な白木造り、本殿は朱塗で極彩色)

奥宮奧宮本殿 (慶長10年(1605)徳川家康が造営。当初は本殿として使用。新本殿造営後、移設し奥宮とした。総白木作り)

建物も面白いが、感心したのはこの神社の森。
これ自体史跡であり、原始の森。立ち入り禁止。
それから「鹿」、神鹿と言われる。言うまでも無く「鹿島アントラーズ」のシンボルはこの鹿から採ったもの。(Wikipedia等を参考)

水郷潮来(潮来市)
潮来付近は、水郷という海抜ゼロメートル地帯に発達した運河地帯である。
縄文時代には、霞ヶ浦や北浦も太平洋の入り江で、この入り江は渡良瀬遊水池まで延びていたという。
当然、このころは潮来は海底であろう。

当時の海岸線に沿って貝塚があるので貝塚のある場所を結べば、当時の海岸線が復元できるという。
縄文時代が終わると海は後退し、霞ヶ浦なども内海化し、淡水化する。
そして、潮来付近は湿地化そしてようやく陸地化したと思われる。
そのころ、この付近には、霞ヶ浦、北浦、利根川を縄張りとする内海水軍が存在していたらしい。
彼らは水軍とは言え、本業は海運業者である。

当時から輸送手段としては、船こそが大量物資輸送手段であり、銚子方面から利根川、霞ヶ浦ルート、霞ヶ浦沿岸一帯の物資運搬が盛んに行われていたらしい。
南北朝時代、北畠親房がこの常陸に来たのもこのルートである。
戦国時代は鹿島氏や江戸崎の土岐氏が水運を仕切っており、この運用益で地位を確保していたという。
より利根川上流域では、この水運という大量輸送手段を用いて、北条氏が関東平野を北進、関東制覇を夢見たのであろう。
この潮来付近は、海運と水運のモード切り替え地であったようであり、江戸時代は東北地方の米を銚子から利根川を船で運び、また、北浦、霞ヶ浦沿岸の米をここに集め、江戸川を経由して江戸に輸送していたという。
潮来には、津軽、南部、伊達などの東北地方の大名の河岸が水路に沿ってあり、蔵屋敷が立ち並んでいたという。
そのメインの水路が「前川」であるが、ここが「あやめ祭り」のメイン会場である。
川に沿って「あやめ園」があり、多くの観光客が来ている。ピークは6月の中旬。
街中に水路がある風景を見慣れない人間にとっては、水路に沿って家があり、多くの橋が架かっている風景自体は珍しいものである。
でも海抜ゼロメートル地帯であるため、水害では大変な目にあっているとのことである。
鯉がいるらしく、釣りをやっている。
ここはあやめが有名。「あやめ」と名打っているが、ここで見れるのは「花しょうぶ」である。

あやめの展示会ではおじさんが盛んに説明してくれる。
おじさん、「あやめ」とは言わず「花しょうぶ」というのである。「○○アイリス」と書いてあるものもある。
大体、「菖蒲」と書いて「あやめ」とも読むし、「しょうぶ」とも読む。
でも「しょうぶ」というと「菖蒲湯」で使うのあの独特のにおいがする「しょうぶ」を思いうかべる。
この菖蒲湯の「しょうぶ」とここで見ている「しょうぶ」がどうも一致しない。
つまり、「あやめ」「しょうぶ」「かきつばた」「アイリス」の違いがさっぱり分からんのである。

この「花しょうぶ」というあでやかな花が咲く植物が、どうしても菖蒲湯の「しょうぶ」と同じ種類のものとは思えないのである。
そこで、ちょっと調べてみて、ようやく分かった。
「あやめ」「花しょうぶ」「かきつばた」「アイリス」は全て同じ種類。
「花しょうぶ」と「しょうぶ」は全く別物とのことであった。

以下「Wikipedia」等の記事を参照に記載。「あやめ」(菖蒲、文目)はアヤメ科アヤメ属の多年草。
学名は、Iris sanguinea。5月ごろに径8cmほどの紫色の花が1〜3個つく。
アヤメの名前は、花の付け根部分に黄色と紫の文目模様があることから付けられた。
網目模様で外側の花びらに黄色い模様があり、かわいた所に育つ。
葉は花しょうぶに比べ細く、葉の主脈は突出していない。乾いた場所でも育つ。

カキツバタ(燕子花、杜若 Iris laevigata)はアヤメ科アヤメ属の植物。
湿地に群生し、5月から6月にかけて紫色の花を付ける。
内花被片が細く直立し,外花被片の中央部に白ないし淡黄色の斑紋があることなどを特徴とする。
葉は花しょうぶに比べやや広くの主脈は突出していない。湿地や根が水中となる場所で育つ。

「花しょうぶ」は、文目(あやめ)科、学名  Iris ensata  。花は外花被(下の花びら)の元に黄色の目型の模様が入る。葉は葉の主脈であり、筋が表側に1本、裏側に2本突出。湿地や根が水中となる場所で育つ。

つまり、みんな「Iris」なのである。
品種改良が盛んに行われ、数百種類があるという。
だから『いずれがあやめかきつばた』という言葉が生まれたと言い、実際、区別は難しいという。 

一方、菖蒲湯の「しょうぶ」は、学名Acorus calamus 、池、川などに生える単子葉植物の一種。
クロンキスト体系ではショウブ科、新エングラー体系などではサトイモ科のショウブ属に属するという。
芳香のある根茎を風呂に入れて使う。また漢方薬(白菖、菖蒲根)としても用いる。
根茎は、昔から薬草として珍重されており、神経痛や痛風の治療に使用した。
サウナでは、床に敷いて高温で蒸す状態にしてテルペン(鎮痛効果がある)を成分とする芳香を放出させて皮膚や呼吸器から体内に吸収させて利用するという。

このように「花しょうぶ」と「しょうぶ」は全く別の植物であるが、さらにややこしい事実がある。
菖蒲湯の「しょうぶ」を古くは現在のアヤメ科のアヤメではなく、これを「あやめ」と呼んだのだそうである。
・・だから漢字で書くと「あやめ」も「しょうぶ」も「菖蒲」なのか?ここまで書くと、こんがらがって来て分からなくなる。

塚原卜伝の墓(鹿嶋市須賀)
伝説の剣豪である。宮本武蔵と並びその世界では名前を知らぬ人はいないほどの有名人物であるが、伝説ばかりが先行して意外とその詳細なことを知っている人は少ない。
2011年NHKで堺雅人主演で放映されて、かなり出身等も含めて知られるようになった。

その経歴はだいたい次のようなものである。

延徳元年(1489)、鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢)の次男として鹿島に生まれる。幼名は朝孝。
後に、覚賢の剣友塚原安幹(塚原新右衛門安幹)の養子となり、名を新右衛門高幹と改めた。
卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部(うらべ)に由来する。
実父・覚賢からは鹿島古流を、義父・安幹からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ。鹿島神宮は古来から武道の神であり、実家の姓「卜部」が示すようにその神官であったと思われる。
必然的に鹿島神宮につながる鹿島一族は武道、とりわけ剣術が盛んであり、その環境が卜伝を産んだのであろう。
やがて鹿島を離れ、武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけ数々のエピソードを残すがどこまで真実かは分らない。

卜伝の諸国を武者修行の行列は80人あまりの門人を引き連れ、乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであったとか、弟子には雲林院松軒(弥四郎光秀)、諸岡一羽や真壁氏幹(道無)、斎藤伝鬼房(勝秀)らがおり、足利義輝、足利義昭や伊勢国司北畠具教、山本勘助にも剣術を指南したという。
「幾度も真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」ともいう。
若い頃の宮本武蔵が卜伝に勝負を挑んだという話もあるが、二人は同時代の人物ではなく全くのフィクションである。

晩年は郷里に帰り元亀2年(1571)2月11日に83歳で没し、墓は豊郷村須賀塚原(須賀村、現・鹿嶋市須賀)の梅香寺にあったされるが同寺は焼失し、墓のみが現存している。
法号は宝険高珍居士。(Wikipedia参考)

卜伝が青年期を過ごした1510年頃は、鹿島氏内部は内紛状態であり、当主の廃立の問題で抗争に発展、鹿島左衛門尉親幹のあとを継いだ景幹が、永正九年(1512)下総米野井城を攻めて戦死し子が無かったため、弟の義幹が養子として家督を相続する。
しかし、幼少のため新規に召し抱えた浪人玉造常陸介(塚原卜伝の門人)が専横を振う。
これに対し、重臣らが義幹追放し景幹の娘の夫に府中の大掾高幹の弟を迎え、鹿島通幹を名乗らせる。
これに対して、城を追われた義幹が、大永4年(1524)に逆襲、利根川から舟で高天ケ原に上陸し、鹿島城を攻撃し激戦となる。
この戦いに36歳の塚原卜伝も参戦していて、槍合わせ九度、高名の首二十一、並の首七つを取ったという。

その後も鹿島氏は内紛や周囲の豪族との抗争に明け暮れ、勢力は延びず、卜伝が亡くなる直前の永禄12年(1569)3月、下総千葉氏の支援を受ける治時の二男氏幹と、江戸氏と結ぶ三男の義清との対立し、戦いが起き、同年10月に氏幹が家臣に暗殺されることで決着がついた事件が発生した。
果たしてこの抗争を最晩年の卜伝はどう見ていたのであろうか?
この後も鹿島氏内部、周囲との抗争は続き、戦国末期は独立してはいたが、佐竹氏の影響下にあった。
そして北条氏滅亡後、佐竹氏に滅ぼされてしまう。(武家家伝を参考)

その鹿島一族の最有名人、塚原卜伝の墓が鹿島神宮の北西約2.5q、鹿島サッカースタジアムの西約2.5qの須賀地区ののどかな田園地帯にある。
霞ヶ浦との間にある岡の東の中腹に墓がある。
この岡を登っていると霞ヶ浦を望む西端部に塚原一族の城であった塚原館がある。
多分、その東側の平坦な岡あたりに塚原一族の屋敷があり、晩年の卜伝も住んでいたのではないかと思う。
卜伝の墓、くさすが有名人だけあり、NHKでのドラマ放映もありきれいに整備されている。
しかし、本来の墓石、さすがに風化が激しい。

瑞雲寺法宝堂(鹿島市林)
鹿島臨海鉄道大洗鹿島線荒野台駅の西1qにある。
佐竹一族林氏の菩提寺。
林氏の本城である林中城のある集落の西側の谷津を隔てての北側にある。
多分、この方向が鬼門に当っているようである。

2016年3月、林中城に行ったついでに立ち寄った。
谷津に面した岡の下にあり、南向きではあるがどこかジメジメした感じの寺である。
岡の下なので地下水が湧くのであろう。この寺は現在では無住であり、もうそれがかなり長い期間のようであり、荒れ果てている。
しかも3.11で中地区の岡側から行く道が崩落して行けない状態であり、谷津側の農道側からしか行けない。

境内には庭園があったようであり、庭園の石が埋もれている。
また、中世のものと思える五輪塔の残骸が転がっており、古い由緒ある寺であったことが伺える。
ここに鹿島市指定文化財の法宝堂がある。
その解説板には次のように書かれている。

瑞雲寺山門、境内は荒れてきている。 法宝堂

応永年間(1394-1427)に創建。鹿島一族林氏の菩提寺として発展したが一時衰えた。(多分、林氏滅亡のためか?)
その後、江戸の済松寺の住職大鼎によって再興され、法宝堂は天明5年(1785)に建てられ、その後2回焼失、現在の建物は文化2年(1805)の建立。
3間4面の寄棟造りで前方に1間の向拝(庇)を出し、方形の屋根はもとは草葺であったが、昭和59年に葺き替えられている。
堂内には聖観音像、阿弥陀如来像が安置されている。

建物は木造の禅宗様式で彫刻も優れており、棟札より建築年代が明らかであり、同時代の寺院建築様式の指標となる。
確かになかなかの建物であり、200年前の江戸末期の建築であることが分る。
しかし、この場所で、今の状態では管理はできず老朽化が急激に進んでしまうだろう。
それにここには仏像が安置されているが、それに対するセキュリティ全く欠けている。
この状態では仏像ドロの恰好のターゲットになりえる。
こんな状態の寺は多い。
そのうち半島人が「倭寇が半島から盗んでいったもんだから取り返す」と言って盗んでいくぞ。
無人の寺などの仏像はちゃんとした施設に保管すべきだろう。