米沢紀行
米沢と言えば、上杉家の城下町。
その他、米沢牛、米沢ラーメンが有名だけど、米沢牛なんて手が出ない。
て、ことで上杉さんに係る名所を。

上杉家廟所
国史跡の米沢市にある米沢藩歴代藩主の墓所である。
地元では御霊屋(おたまや)とも呼ばれている。
戦国の名将、上杉謙信が春日山城で死去すると、遺骸は漆を塗り甲冑を着せて甕に入れた状態で、春日山林泉寺に安置されたが、上杉景勝が会津へ移封された後、謙信の霊柩も会津に移され仮堂に安置された。
さらに関ヶ原後、上杉家が米沢に移ると、謙信の霊柩は米沢城本丸の御堂に安置された。
今の廟所のある地は米沢城に一大事があった場合、一時的に謙信の霊柩を避難させる場所であったという。
文字通り、謙信の霊柩は神扱いであった訳である。
その後、元和9年(1623)景勝が死去すると、ここが上杉家の廟所とされ、以後12代の藩主がここに埋葬される。
なお、謙信の霊柩は明治になって「廃城令」で米沢城が解体された時、ここに移された。鬱蒼とした樹齢400年という杉の林の中に廟所は謙信霊廟を中央にして、その左右に歴代藩主の霊廟が並ぶ。
2代景勝から8代重定までは、火葬で御堂は入母屋造り。
9代治憲から12代斉定までは土葬となり御堂も宝形造りであるが、治憲の倹約令により、構造も簡略化され材質も落とされ質素である。

東側の廟 西側に並ぶ廟 中央の謙信廟、ここに遺骸を入れた甕が安置。


林泉寺
上杉氏の菩提寺である。
米沢城の南にある。春日山城の近くにも同名の寺があるが、こちらの林泉寺は上杉氏が米沢に移った時に同時に移ったものである。
元々の上越の林泉寺は、明応5年(1496)、長尾景虎(上杉謙信)の祖父に当たる長尾能景が、亡父重景の菩提を弔うため建立したもの曹洞宗の寺院で、景虎が7歳で寺に預けられ天室光育(七世)の指導を受け、八世益翁宗謙の下に参禅し、禅の「達磨不識」の境地を悟り、不識庵謙信を号するようになったことで知られる。
景虎が上杉家を相続すると、上杉家の菩提寺にもなった。
上杉景勝の代、慶長3年(1598)に越後から会津に移封となり、同6年には米沢に削封、菩提寺の林泉寺もこれに伴って米沢に移る。
 米沢藩時代は、歴代藩主に厚く保護され、元和5年(1619)、現在地に壮大な伽藍が建てられたが、享保17年(1731)の火災で焼失、その後再建されたのが現在の本堂。
歴代藩主夫人の墓や家臣の墓が並ぶ。
中でも直江兼続夫妻の墓、 仙洞院の墓、景勝正室の武田信玄の娘菊姫の墓、その弟で武田信玄の六男信清の墓などが目立つ。

← 直江兼続夫妻の墓。
彼は元和5年(1619)12月19日に60才で死去。夫人のお船の方とともにここに眠る。
彼女は直江実綱の娘であり、初め長尾信綱が直江家に入ると嫁し、信綱没後、兼続を養子に迎え再婚。
賢明な女性であったという。兼続没後、貞心尼と号し3000石を受け、寛永14年(1637)1月4日江戸屋敷で81才で死去。
夫婦で墓が並ぶが、墓の大きさは同じっていうのが不思議。
← 仙洞院の墓 
上杉謙信の姉であり、上杉景勝の母、大永4年(1524)または享禄元年(1528)に 長尾為景の娘として生まれ、名は綾と伝わる。
長尾政景と結婚し、その次男が景勝。長女が上杉景虎室。
また、直江兼続を景勝の近習に推薦したと言われる。
政景死後は春日山城に移り、上杉家のファーストレディであった。
天正6年(1578)、謙信死後発生した御館の乱では景虎の正室である娘ともに御館にいたが、乱後、春日山城に戻る。
その後、会津、米沢に随行し、慶長14年2月15日死去。
←菊姫の墓。
武田信玄の四女として生まれ、天正6年(1578)上杉氏と武田氏の同盟で上杉景勝の夫人となる。
甲州夫人、甲斐御寮人とも呼ばれる。賢夫人の誉れが高く、凄い美人であったというが、真実は?
 慶長9年(1604)2月16日、伏見屋敷で47才で死去。
←武田信清の墓
武田信清は、信玄の六男であり、天正10年(1582)3月の武田氏滅亡時、信清は紀州高野山に逃れ、無量光院に隠まわれ、後に姉菊姫を頼って越後、会津を経て米沢に来た。
景勝は信清を高家衆筆頭として優遇し、諸役御免にて3300石を与える。
寛永19年(1642)3月21日、83才にて死去するが、その子孫は武田氏の正統な家として米沢藩士として続く。
当然ながら墓石には武田菱が。
この米沢で武田菱とは。

堂森善光寺
前田慶次は「花の慶次」などで知られる戦国時代の武将であるが、大名でもないため、その本当の人生は謎のままである。
しかし、間違いなく実在した人物であり、多くの資料を総合してみても、かなりの教養ある文化人であり、それなりの武人であったようだ。
おまけに「変人」でもあったようであり、魅力溢れ十分、漫画のモデルになるような人物と言えるかもしれない。
その前田慶次が晩年、住んだという場所が、山形県米沢市の東の郊外、堂森善光寺である。ここに庵をむすんでいたとされる。
のどかな田舎であるが、かなり観光客が訪れるらしく、旗が立てられ、境内もきれいに整備されていた。
供養塔には多くの花が上げられていた。
しかし、整備されたのは花の慶次が発表された以降であり、それ以前は、前田慶次という名前は、マニアと地元以外では、全国的にはそれほど有名ではなく、ここもどこにでもあるような田舎のお寺だったのだろう。

堂森善光寺本堂 慶次の供養塔

前田慶次、その知名度は最近、抜群であるが、その名前自体もどれが本名なのかペンネームなのかも混乱しているという。
「利益」説が有力であるが、宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次などとも称している。
諱は利益の他、利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)、利卓(としたか)など複数伝わっている。
本人自筆の前田慶次道中日記では啓二郎を名乗り、倉賀野綱秀宛書状では慶次、亀岡文殊奉納詩歌と本人所蔵の徳利には利貞と書かれている。
また、当時の他資料に、慶二、利卓、利益、利太、利大が確認され、浪人時代は「穀蔵院飄戸斎」「龍砕軒不便斎」と名乗った。

生年没年も諸説あり、生年は天文2年(1533)説と天文10年(1541)説、没年は 慶長10年(1605)説と慶長17年(1612)説がある。
滝川一族の出身といい、実父は織田信長の重臣滝川一益という説もある。
前田利家の兄前田利久の養子となる。永禄10年(1567)、信長により利久が隠居させられ、弟の前田利家が尾張荒子城を継ぎ、利益は利久に従って退去。
その後の動向は不明であるが、天正9年(1581)頃、利家に仕え、利久・利益親子には7千石が与えられた。
天正12年(1584)の末森城の戦い、 天正18年(1590)の小田原の役にも出陣。

しかし天正18年(1590)、利家と仲違いを起こし前田家を離れ、京都で浪人生活を送る。
(なお、家族、長男は前田家にそのまま仕え、加賀藩士として続く。)
このころ多くの文人と交流したという。
また、直江兼続と知り合い、上杉家に仕え、浪人集団組外衆筆頭として1000石を受けた。
北の関ヶ原、長谷堂城合戦では、畑谷城攻めや撤退戦で活躍したという。功を立てたとされる。

関が原後、上杉氏が30万石に減封され米沢に移されると、これに従って米沢藩に仕え、米沢近郊の堂森に隠棲し、兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝わる。
米沢藩の資料では、慶長17年(1612)6月4日に堂森で没し、亡骸は北寺町の一花院に葬られたとするが、一花院は現在廃寺となっており、墓は分からないという。

武勇に優れ、古今典籍にも通じた文武両道の武将であったと伝えられ、文化人としては、慶長6年(1601)京都伏見から米沢へ向う道中の日記、前田慶次道中日記が知られ、和歌や漢詩、伝説に対する個人的な見解がちりばめられるなど、高い教養をうかがわせるという。
利益に従った野崎知通は「心たくましく猛将」と表している(前田慶次殿伝)。
また、その逸話も数しれなく残されている。
しかし、資料の多くは、江戸中期以降に作られた逸話集によるもので、どこまでが真実なのかは分からない。
それをベースにし、海音寺潮五郎、村上元三、大佛次郎、菊池寛、司馬遼太郎等、著名な作家たちが作品に取り入れ、隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』とその漫画版「花の慶次」で大ブレイク。
ついには「パチンコ台」にまでなってしまった。なお、花の慶次では197cmの大男とされているが、現存の甲冑は他の武将の甲冑と比べて特別大きさは変わらない。
しかし、不思議なことに2009年のNHK大河ドラマ「天地人」には全く慶次は登場しなかった。何で?
でも、それ以前のNHK大河ドラマ「利家とまつ」では準主役級でかぶき者として登場し、花の慶次とともに知名度を上げるのに1役買った。
(Wikipedia等を参考にした。)

関係ないけど、米沢城の上杉博物館にいた親友の「兼たん」。